本能寺の変後、明智光秀を討つために猛スピードで京都に戻ってきた「中国大返し」で、羽柴秀吉は船に乗っていた! 播田安弘氏が著書『日本史サイエンス』で発表して話題騒然となったこの斬新な説が、2021年にNHK『歴史探偵』で実験されていた。そこから得られた貴重なデータによって何がわかるのか、このたび『日本史サイエンス〈弍〉』を上梓した播田氏自身が解説する。 「中国大返し」はなぜ困難なのか 1582(天正10)年、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)にとっては運命が大きく開けたターニングポイントでした。当時、中国地方の毛利氏を攻略するため備中高松城(岡山県)を水攻めしていた秀吉は、変を知るや、2万の大軍を率いて岡山から京都までの約220kmをたった8日間(諸説あります)で引き返し、光秀を山崎の戦いで破ります。この「中国大返し」を起点として、秀吉は天下統一への道を駆け