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芦別に残る哀しい歴史の痕跡 丘の上に「慰安所」として使われた建物残る 住民たち「チマチョゴリを着た4~5人」 朝鮮人相手の売春に追いやられた現場 日帝強制動員された朝鮮人労働者 「地獄の労働」により逃走が続出すると 三井などの財閥企業が積極介入 日本全域各地に「慰安所」開設 植民統治の末端にいた被害女性たち どんな経路で来てどこへ行ったのか 記録もほとんど残っておらず歴史の闇に 11日、北海道の芦別市に産業慰安所の建物跡が残っている。ポストの後ろに見える建物が慰安所として使われた建物で、今は民家として使われている=芦別(北海道)/チョ・ギウォン特派員//ハンギョレ新聞社 「商店の後ろに小さな家が見えますね。そこが元は産業慰安所でした。今は元の面積の一部だけが残っています」 11日、北海道芦別市の郷土博物館である「星の降る里百年記念館」の長谷山隆博館長は、丘の上の小さな家を指さした。今は民家
北海道大学は、1930年頃に発生したとされる、コンブ等の大型海藻類が消失し、それを餌とするウニやエゾアワビ等の生産が減る「磯焼け」発生以前の海の栄養状態が明らかになり、ニシンがコンブの栄養源として寄与していたことが解明されたと発表した。 北海道周辺海域におけるコンブの窒素安定同位体比(δ15 N)マップ。1881年~1920年の日本海側の数値が高くなっている。(出所:北海道大学プレスリリース) 同研究は、北海道原子力環境センターの栗林貴範(北海道大学大学院環境科学院にて社会人学生として学位取得)、北海道大学総合博物館の阿部剛史、北海道大学大学院水産科学研究院の門谷茂らの研究グループによるもので、同研究成果は、米国太平洋時間7月12日、「PLOS ONE」オンライン版に掲載された。 「磯焼け」は、コンブ等の大型海藻類が消失し、それを餌とするウニやエゾアワビ等の生産が減る現象。北海道日本海では
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1947年生まれ。東京で大学時代を過ごし、釧路市に本社がある百貨店で洋服部門を担当する。釧路で8年勤めたのち東京に転勤。その後釧路市に戻り、1982年に「古書専門 釧路豊文堂書店」を開業。 豊文堂は駅裏の「本店」と「北大通店」の2店あり、釧路地域の産業に特化したジャンルの古書が取り揃えられている。このため釧路市民をはじめ、様々な分野の専門家の方々や、出張や観光で釧路市に訪れる方々にも愛され続けている。 タクシー乗り場やバス停がある釧路駅裏に伸びた一本の大きな通り。 かつてはかなりのにぎわいを見せていた駅裏周辺。現在は、早朝の通勤者が多く利用し、夜はディープな釧路を楽しめる渋い地区になっている。 豊川さんが営む「古書専門 釧路豊文堂書店」は、駅裏通りの十字路に臨む、壁に描かれた「古本」の大きな文字と「豊文堂本店」の横看板が目印。 お店に入ると、膨大な本の奥から冷え切った体を温めてくれるように
岩波写真文庫に「都会の記録シリーズ」がある。 戦後の都会の風景を写真として記録しておこうというものだろう。 現在となっては、まさしく貴重な記録である。 このシリーズに我が街「札幌」も含まれている。 「札幌 1957」とあるから、昭和32年当時の札幌を記録したものだろう。 現代の札幌とは異なる風景が、そこにはある。 今年2017年は、この1957年からちょうど60年である。 遥か60年前なのか、たった60年前なのか、僕には分からない。 ただ事実として、60年という時間は札幌の街を大きく変えた。 今年、僕はこの本を持って、60年後の札幌の街を歩いてみたいと思う。 60年間で何が変わり、何が変わっていないのか。 自分の生きる街が、どのように成長してきたのかを確かめるために。
(この記事は2007年1月24日の記事の再掲載です。 記事の一番下にある「コメント」をクリックして多数のコメントもお読み下さい) 札幌南高の先輩である流行作家渡辺淳一氏の初期の代表作に「阿寒に果つ」という小説があります。(昭和48年初版)ベストセラーになり、映画化もされたので、読まれた方が多いでしょう。瀬戸先生はじめ懐かしい恩師達が実名で登場するなど、南高出身者にはなにかと興味深い小説でもあります。 「阿寒に果つ」のヒロイン純子のモデルは、渡辺淳一氏の札幌南高の同級生加清純子で、初恋の人。 加清純子の弟が、私達札幌南高13期の同期3年2組の加清聡君(故人)ということをご存知ですか。加清聡君が若くして亡くなったこともあり、この事実を知る人は案外多くないと思い、加清家に係わる古いタウン誌の記事のコピーを紹介します。 僕は、高校2年の時、加清聡君と同級生になり、南高正門前の彼の家によく駄弁りに行
009 サムライ部落 武士部落と書いて、「サムライ部落(さむらい部落)」などと呼ばせていたようである。 「サムライ部落」は昭和40年代まで現実に存在していた下層社会であるため、人々の記憶の中にはまだ残っているはずであるが、これをきちんと記録した文献は、やはりほとんど残されていない。 サムライ部落とは、東橋~豊平橋の間の河畔に自然発生的に誕生した集落であり、行き場のない人々が最後に選択する空間であったと考えられる。 その発生は定かではないが、豊平細民街に細民が膨れあがった結果、あぶれた細民が川原に流れたのが最初と見る説が有力である。 もっとも、ここまで記述していないが、東橋に近い苗穂地区も、明治中期から細民街を形成しており、ここから溢れた人々が東橋近辺の川原に定住を始めたとも考えられる。 また、もともと「すすきの」にあった遊郭が菊水に移されたことによって、遊郭の残飯を目的とした浮浪者たち
「もう一度日本に」 第二次世界大戦末期の1945年に旧満州(現中国東北部)でソ連軍に捕まり、シベリアで抑留された日本人男性がロシアで生存していることが新たに判明した。抑留者のほとんどは56年12月までに日本へ帰還したが、外務省の資料によると、約1000人がソ連にとどまったとされる。その男性が、初めて日本メディアの取材に応じた。「戦後、一度も日本に帰っていない。死ぬまでにもう一度日本をこの目で見たい」と話している。 取材に応じたのは、北海道遠別(えんべつ)村(現遠別町)出身の田中明男さん(89)。10代で陸軍に入り、満州の関東軍に送られた。戦時中は機関銃を撃つ兵士として中国人の部隊と戦ったという。
「無書店自治体」での社会実験 そもそもの流れを時系列で説明すると、こんな具合だ。 1)北海道の読書環境はかなり悲惨であり、あろうことか悪化が進んでいるので2008年に、図書関係者と教育関係者で読書環境の整備支援組織「北海道ブックシェアリング」を設立。筆者が代表となる(現在は一般社団法人北海道ブックシェアリング、荒井は代表理事)。 2 )設立から3年後に東日本大震災が発生。宮城県教委の要請などもあり、宮城県石巻市に分室をつくり、宮城・岩手両県の図書施設の復旧・復興支援を実施。 3 )2015年秋に東北被災地での最後の事業「岩手県陸前高田市の新図書館に関する住民意識調査」を終え、2016年はいよいよ本腰を入れて北海道の読書環境の整備支援に着手することになった。(以降「~することになった」は「荒井が~すると決めた」と考えていただいて差し支えない) で、北海道で増加している「無書店自治体」について
釧路市美術館が7年にわたり開催してきた「Art Spirit くしろの造形」。そこで紹介された釧路ゆかりの作家7名の足跡を著した。
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