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ブックマーク / sivad.hatenablog.com (15)

  • 赤の女王とお茶を-ヤバイのは理科教育より文科教育では?

    例えば、 憲法は国民に対する最高法規である  Yes or No ? だとか 無期懲役は終身刑と同義である  Yes or No ? なんていう問題にどれくらいの正答率があるんでしょう*1。大学生のみならず、社会人においても。 こんなのやあるいはこういうところを読むと、われわれが自分の生きている社会の根ルールについていかに無知かを思い知らされます。 もちろん、科学も世界についての「根原理」の一つですし、その方法論や知識について沢山学ぶに越したことはありません。 が、「理科教育」が国を筆頭に声高く喧伝されるのに対して、「文科教育」、すなわち政治の仕組みや法律、経済、あるいは広告の原理などに関する教育について広い議論がなされる気配はほとんど見受けられません*2。 それどころか「徳育」「親学」などという明後日の方向へ力が入る始末。理科教育で言えば、化学を教えずに水伝を教えるようなもんです。

    赤の女王とお茶を-ヤバイのは理科教育より文科教育では?
    zonia
    zonia 2007/05/29
  • 因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を

    当は、できるでしょう?」の原初的風景 ホームレスの人を助けるべきか ある行為がある現象の原因になっている、あるいはなっている可能性がある、なんてことはそれこそ無限に言える話。 ホームレスの人に8000円渡して病院に行かせたために医療ミスで逆に障害を負ってしまうかもしれないし、医師の手が塞がって他の重症患者が手遅れになってしまうかもしれない。その8000円をアフガンに送ればもっと多くの人命が救えたかもしれないし、逆に武器になって人を殺すかもしれません。お腹の子を産めば不幸になるかもしれないし、誰かを不幸にするかもしれない。そうやって考えている内に手を動かせば誰かの命が救えたかもしれないし、救えないかもしれない。 そういうあらゆる因果を「責任」として捉える立場があっても別に構いませんが、その場合「責任」という概念自体が無意味になってしまうでしょう。 「責任」というのは自然における因果を示す

    因果関係は責任関係ではない - 赤の女王とお茶を
  • 捏造される「好き」にご注意 - 赤の女王とお茶を

    「好きを貫く」のはそんなに簡単なことではない。 一つ学ぶ点があるとすれば、 「何が好きなのか」という根源的な問いに答え続けようと努力する のくだりでしょうか。 人間の「欲望」は往々にして社会的に形成されます。 「もし知らなければ望まない」ようなモノは基的に社会的文化的に形成された「好き」であって*1、それゆえに外部から操作されやすい。 何しろ一旦「好き」になってもらえればいくらでも消費してくれるし、タダ同然で労働力を差し出してくれる。 こんなオイシイ話はないわけです。 だからこそマインド・ハックから脳を守る二冊で書いたような心理テクニックを使い、世の中は是が非でも「好き」を捏造しようと迫ってくる。 はっきり言ってしまうと、まず注意すべきなのは「好きなことをしろ」と声高にいう人達なのかもしれません。 ところで、「皆が好きなことを追求する」ことによって、こちらでも書いたように「全体としては不

    捏造される「好き」にご注意 - 赤の女王とお茶を
  • 赤の女王とお茶を - 最終警告!本当は怖い盲目的予定調和説

    直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 これはアレですね、はてなとかブクマとかやってる暇があったら仕事しろってことですね。あいすみません。 というのはまあ冗談として。 日のネットに批判的言説が多いのは匿名性と関連あるでしょう。日では実名の個人間で批判するリスクが高いわけで、その証拠に日のリアルではむしろ馴れ合い型コミュニケーションが主流です。組織を背負わず、個人として面と向かって他人を批判できる人は少ないですよね。 つまりリアルにおける批判技術の乏しさがネット・匿名における批判指向性を高めていると考えられます。 弾さんのいうように、的確な批判こそが問題解決に向かう。そもそも科学的思考には批判的思考が欠かせません。 確かに単なる揚げ足取りやアジテーション的批判は感情を煽るばかりで、何も解決しません。しかし同様に、ポジティブなアジ

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  • 赤の女王とお茶を - 心の中の差別を禁じる法はない

    他人の職業にわざわざ貴賎をつける愚かな人々。 日国憲法第14条には すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。 とあり、日国および日社会は国民を「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において」差別的に扱ってはならないことが明白です。 ただし、これは個人が個人に対して差別心を持ってはならないというところまでは保証しません。 むしろそこまで踏み込んでしまうと逆に「思想の自由」に抵触する恐れがあります。 ですから心の中で差別したい人は自由にすればいいと思うのですが、それに社会的な理由付けをして表現するとなると、話は大分変わってきます。 大体、個人において「差別」したいならば話は簡単、「私は〜が嫌いだ」で十分なのです。そこにウダウダ社会的な理屈を付ける必要はない。社会

    赤の女王とお茶を - 心の中の差別を禁じる法はない
    zonia
    zonia 2007/03/18
    心の中の差別=蔑視?
  • 赤の女王とお茶を 理科教育より科学教育を

    トンデモの空白をどううめるか 基的には、トンデモさんに対して我々ができるサポートは、この試行錯誤を支援することのように思う。また、我々がトンデモにおちいらないためには、この試行錯誤に耐えるべきだと思う。試行錯誤のプロセスの中では、疑似科学にひっかかり、失敗する経験も必要となることもあろう。 実際はこの「試行錯誤のやり方」こそが科学のコアなんであって、それが掴めないといつまでたってもあっちからこっちへと右往左往することになりかねません。 結局のところ、「理科」教育というのは科学によって得られた知識を「権威」として教え込むことが中心になっていて、現在の日では「科学というプロセス」を学ぶ機会は大学院に入るまで(あるいは入ってからも!)ほとんど存在しません。 だから権威としての「科学(知識)」を盲信するか、あるいはアンチ権威としての「ニセ科学」に転向するか、いずれにしても極端に走りがちなのです

    赤の女王とお茶を 理科教育より科学教育を
  • 「科学モデルの説明」と、「科学モデルを用いた現実の説明」は違うんですよ - 赤の女王とお茶を

    一連の「経済・生産性論争」を観ての「感想」です。 一言でいうと、タイトルのような間違いというかあるいは意図的な混同が議論を迷走させている感じ。 経済学によらず、物理でも生物でもそうですが、ある「科学モデル」について説明するとき、そのモデルが最もうまく機能する「系(=条件の集まり)」を仮定します。 これを「理想系」といいます。 勘違い君が作ってくれたグラフだとか、こちらで「仮定」されている条件などがそれにあたりますね。 「理想系」内では、当然ながらモデルがうまく機能します。そりゃそうです。そのような系を作ったんだもの。 つまりこれは「現実の世界」を反映したものではなくて、「こういうリクツもありえますよ」、とプレゼンするための「お話」なのです。 これに対して現実世界に起こった出来事「現実系」を解析する場合には、モデル通りには行きません。なんせノイズ満載ですから。 かろうじて、実験できる系の場合

    「科学モデルの説明」と、「科学モデルを用いた現実の説明」は違うんですよ - 赤の女王とお茶を
    zonia
    zonia 2007/03/14
  • 赤の女王とお茶を - ネットにおける不完全性定理

    ネット上の言説は、その言説内においてネタかベタかを判断することはできない kikunosuke_a氏の陰謀 などから思いつき。

    赤の女王とお茶を - ネットにおける不完全性定理
  • 「空気の実装」としての「はてブ」 - 赤の女王とお茶を

    はてブは怖い そういえば先日、id:kmiuraさんが「最近『空気読め』的な応答は減ってきた」とおっしゃっていたけれど、これはもしかすると 「『空気読め』という圧力が減った」 のではなく、 「『空気読め』とわざわざ言う必要がなくなった」 のかもしれないなーと思ったり。 その要因はやはり「はてブ」ということになるのかな。 流行りの「はてブ最適化」というのはつまりブックマーカー間の「空気」を読むことだし、「注意」という資源が有限である以上、ブクマされない記事はある意味「黙殺」の憂き目を見る、少なくともそう感じる人が増えるのは確かでしょう。 まさしく「空気」システム。 はてな村も初めは日の空気に馴染まない「村長」と「村人」が仲良くやっていた風でしたが、やはり「空気」の圧力には敵わなかったということかもしれません。 キーワードリンクというはてな最初の売りは部分的関心を介した意外性のあるネットワー

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  • 赤の女王とお茶を - 抽象化できない体験は語られない

    からなあ。 私達は、自らの人生ゲームになぞらえる程にメタ化視点に慣れすぎている 語られる人生や体験というものは必然的に抽象化できる範囲に留まっています。逆に、その範囲に留まる人生はメタ化もゲーム化も容易となる。 そして、その人がどういうインターフェイス、メディア上で人生や生活を送るかによって、その体験がメタ化しやすいかどうかも決まってくるわけです。 言葉で描かれる人生は言葉で描くことのできる範囲を超えることはない。 システムで描かれる体験はシステムで描くことのできる範囲を超えることはない。 抽象化というのは切り捨てるということ。 つまり情報というものは常に何かを切り捨てて成立しているということであり、それを踏まえておけばその取り扱い方もなんとなく分かってくるような気がします。 思うに、人生を面白くする一つの方法は、「抽象化できない体験」をすることです。 科学には再現性が必要だけど、人生

    赤の女王とお茶を - 抽象化できない体験は語られない
  • 赤の女王とお茶を - 「科学としての経済学」のトリセツ

    が不完全競争? そうかもしれません。 じゃあアメリカは完全競争なの? ヨーロッパは? アジアは? 実は全て、不完全競争です。 そりゃあそうだ。だって完全競争とは 原子性。市場は小さな生産者と消費者がそれぞれ多数いて、それぞれの行動は大きな影響を他者に与えない。特に全てのプレイヤーがプライス・テイカーでなければならないことに注意。 均一性。すべての商品は同じ商品名である限りは完全に代替可能である。 完全情報。全ての会社と消費者はすべての商品の性質と価格を(他社のものまで)知っている。 平等なアクセス。全ての会社が製造技術へのアクセスを持ち、リソースや情報は完全に無料で移動可能である。 自由な参入。全てのプレイヤーが市場に自由に参入・退出できる。 こういうところのことなんですから*1。 あり得ない。 じゃあ経済学なんて無意味かというと、そうでもないのです。 どんな科学分野も、この世に存在し

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    zonia
    zonia 2007/02/20
    うむ。
  • 赤の女王とお茶を - 日本の理系が敗北するたった一つのシンプルな理由

    残業代を払えない経営者は無能である 有能な経営者を期待したら負けである なかなか面白くなってまいりました。 経営に関することは御大二人にお任せするとして、私はこれを一種の「理系哀歌」モノとして読みました。 ですが実は、日技術者や研究者の社会的立場がいつまでたっても弱く、「搾取」され続ける理由は明白なんです。 支持団体がないから これですよ。 もちろん瑣末な理由はいくらでも出して来れますが、社会的に観るならば間違いなくコレです。 例えば米国。 かの国には世界最大・最強の理系支持団体、 "AAAS (American Association for the Advancement of Science)" があります。 262の支部と1000万人の加入者を誇るこのNPOは世界最高峰の科学雑誌「Science」の発行元として有名ですが、ホームページを読めばその活動はまさに「アメリカ理系力」の

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  • 赤の女王とお茶を

    先日7月30日にScience誌に掲載された記事 ”Intrusive personal questions don’t belong in job interviews” に世界的に注目が集まっています。 https://www.sciencemag.org/careers/2020/07/intrusive-personal-questions-don-t-belong-job-interviews - Twitter Search というのも、この記事でははっきりと日を名指しし、その環境について批判しているからです。 その割には日国内での扱いは少なく、これでは日人のみが日の問題について意識しないという悪循環に陥ってしまうでしょう。 そこで個人的に、記事の日語訳を行い、ここで公開いたします。 ------------------------------------------

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  • 進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を

    科学が『ニセ科学』を糾弾できない当の理由 進化生物学者と似非科学論者との決定的な違いに関して 師走でバタバタしておりますが、レスしとくべきでしょうから。。 まず科学全般について。 先日「地図」に例えたように、科学とは自然・社会現象を抽象化した「モデル」です。 従って、質的に検証されたり反証されたりするのは個々の事実ではなく飽くまで「モデル」の部分なのです。 そもそも、現実を「抽象化」するのですから、必ず「切り捨てる」部分が生じます。地図が現実の土地でないのと同様ですね。どんな科学実験でも、100%理論と実験結果が一致することはありえませんし、重要視される「再現性」も、100%の一致という意味ではありません。完璧に同じ実験条件というものはこの世に存在しないからです。 あたかも盲人が象を撫でるがごとく、いろいろな人がいろいろな角度から検証してみて、やがてぼんやりとではあるが妥当と思われる世

    進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を
  • 赤の女王とお茶を - 空気読み競争やメタネタベタ争いはWeb2.0を殺す

    ってことですよね要するに。 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060414/1144999515 http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20060414/1144974195 http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060416/1145186891 「ネタかベタか」を気にするってことは、すなわち「空気読み競争」に参加することに他なりません。「空気嫁」を是としないのなら、「ネタ」だの「ベタ」だのを気にする必要はありません。そこで書かれたor言われたことそのものを静かに評すればそれでよろしい。ネタかどうかなど相手の

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