ブックマーク / note.com/okinawabus (64)

  • 89番・糸満線の航空隊経由の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    89番・糸満線には、メインである「那覇西高校経由」のほかに「航空隊経由」が設定されている。「航空隊」とは、那覇空港に隣接して拠点を置く航空自衛隊那覇基地のことである。 この航空隊経由は、2024年7月現在では1日2のみとかなり少ないが、かつてはメインの系統であり、1日70近く運行されていた時期もあった。 航空隊経由のルートは米軍基地内であった航空隊経由のルート上には、米軍の「那覇空軍・海軍補助施設」が立地しており、大半のエリアは土復帰直後の1972年5月15日時点でも未返還であった$${^1}$$。 那覇空軍・海軍補助施設と国道331号 OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributorsこの未返還のエリアのうち、後のバスルートとなる軍桟橋前~第二ゲートの国道331号の区間は、国道には指定されていたものの、米軍基地内にあることから、県民が利用

    89番・糸満線の航空隊経由の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス
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    zu2 2024/07/07
    開南バス停でバス案内員のおじさんが「那覇高良糸満」とか「那覇航空隊糸満」ってアナウンスしてたなあ。PX前は記憶にない
  • 泡瀬には無い東陽バス泡瀬営業所|昔の沖縄の路線バス

    東陽バスの泡瀬営業所は、同社の中部における拠点となるバス営業所である。泡瀬営業所と名乗るぐらいなので、沖縄市泡瀬にあるのだろうと普通は思うが、所在地は「泡瀬」どころか「沖縄市」でもなく、「うるま市前原」である。 このような住所とは異なる名称を営業所名に採用する事例は、豊見城村名嘉地に立地しながら、那覇市の地名を名乗る小禄営業所(那覇交通)でもみられた。 ただ、豊見城村名嘉地と那覇市小禄は隣通りの地区である一方で、うるま市前原と沖縄市泡瀬は隣接しておらず、間に「沖縄市古謝」「沖縄市桃原」を挟んでいるという点で事情が異なっている。 うるま市前原の泡瀬営業所前述の通り、東陽バスの泡瀬営業所はうるま市内にあり、正確な住所でいうと「うるま市字前原386-2」である。 敷地が少しでも沖縄市に入っているということはなく、完全にうるま市内である。 東陽バス泡瀬偉業所 2010/12/18撮影 (国土地理院

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    zu2 2024/07/04
  • 41番・つきしろの街線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    「つきしろの街」とは、ディベロッパーであった沖縄大京観光株式会社(現・株式会社大京の沖縄支店)によって、佐敷町、知念村、玉城村(現在は合併して南城市)にまたがるエリアに造成された住宅街である。 1976年より入居が開始され、翌1977年からは、佐敷小学校・中学校への通学用スクールバスが、造成主である沖縄大京観光により運行を開始している$${^1}$$が、その2年後には那覇方面への一般路線バスも乗り入れを開始した。 1979年9月に路線バスが乗り入れ開始つきしろの街へ乗り入れを開始したバス路線は、沖縄バスの「41番・つきしろの街線」である。住民の入居から約3年後、スクールバスの運行開始から約2年後の1979年9月から運行を開始した。 1979年09月 41番つきしろの街線運行 沖縄バス60年のあゆみ(2011年3月 沖縄バス発行)p.31運行開始当初のルートを以下に示す。 運行開始当初の41

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    zu2 2024/06/28
  • 今は無き「企業名が付与されたバス停」|昔の沖縄の路線バス

    この制度導入に伴い、今後は企業名であるバス停が増加していくことが想定されるが、1977年当時の路線図$${^1}$$を見てみると、今以上に企業名が付与されていたバス停が多くみられる。当時はネーミングライツ制度は無かったであろうから、目印代わりになるものとして企業名が付与されたのだろう。 ただ、この当時から会社の移転等により現状にそぐわない名称があったようで、1978年ごろにその多くが地名由来のバス停名へと改称されている。 "730"に向けて前照灯取り替え、道路工事など急ピッチで進められているが、先月からバス停の名称もあちこちで新しい名称に変えられている。 (中略) バス協会の変更届によると、変更の理由は「従来のバス停名称は部隊前、商店前など所在地があいまい。また、何々会社前とあってもすでにその会社が移転しているのもある。このためバス停名称としては不適当」というもの。 バス停 あちこちで改名

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    zu2 2024/06/24
  • 初代・東陽バスの会社設立はいつ?|昔の沖縄の路線バス

    2024年6月現在の東陽バスは、2代目・東陽バスであり、2012年5月18日設立である$${^1}$$。 これに対して前身となる初代・東陽バスの設立日は、東陽バスの社の変遷を紹介する記事では「1951年6月1日設立」とされた資料を引用していたが、実は別日が設立日とされている資料が幾つかある。 設立日の候補は3ついろんな資料を見ていくと、以下の3つが会社設立日の候補である。 1951年6月1日 1951年8月7日 1951年9月28日 いずれも1951年ということには変わりがないが、6月1日以外はどれも中途半端な日付である。それぞれの日付が設立日とされている資料について、整理してみた。 6月1日説1951年6月1日を設立日としている資料は下記の通りである。 沖縄 交通機関の歩み 戦前・戦後編(1979年7月 大城辰雄 著)p.192 東陽バス公式Webサイト(2011年1月29日時点のWe

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    zu2 2024/06/13
  • 105番・糸満(南部病院)線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    沖縄県立南部病院は、1982年4月1日に沖縄県糸満市真栄里に開院した県立病院である。2006年4月1日からは民間に譲渡され、社会医療法人友愛会南部病院となったのちに、2020年8月3日に豊見城市に移転し、2024年6月現在は豊見城中央病院となっている。 約40年間もの間、糸満市真栄里に存在した総合病院であるが、県立南部病院時代に、約10年間ほど路線バスが乗り入れた時期が存在した。乗り入れていたのは、琉球バスが運行していた105番・糸満(南部循環線)線である。 開院1年以内に運行を開始105番・糸満(南部病院)線は、1983年3月末時点のバス路線一覧$${^1}$$には記載があるが、1982年6月末時点のバス路線一覧$${^2}$$には記載がない。県立南部病院の開院は、冒頭でも書いたように1982年4月1日のことなので、開院直後は運行されていなかったものの、開院から1年以内である1982年7

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    zu2 2024/06/10
  • 移転を繰り返した那覇交通の本社|昔の沖縄の路線バス

    那覇バスの前身である那覇交通は、那覇市西に社を置いていたが、この社は1976年からの使用であり、6代目の社である。 創業時の初代から6代目に至るまでの、那覇交通の社の移転の歴史を調べてみた。 4年で3回移転した社公営バスを前身とした沖縄バスや、沖縄協同バスを前身とした琉球バスや東陽バスは、前身の事業者から土地や建物を引き継いで誕生したが、那覇交通は前身の事業者が存在せず、初代社長である宮城善兵氏がゼロから設立したバス会社である。そのため、規模の拡大に合わせて営業用地を確保していったため、設立してからの数年間の社は移転を繰り返していたようであり、創立記念誌から把握できるだけでも、創業から5年以内に3回社を移転している。 初代社は那覇市美栄橋町1丁目那覇交通創立30周年誌によると、1951年4月の会社設立時の社は那覇市美栄橋町1丁目だったようである。 当社は協同、沖縄、首里バ

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    zu2 2024/06/02
  • 那覇バスターミナルの歴史(前編)|昔の沖縄の路線バス

    那覇バスターミナルは、設置されてから1回の移転、2回の建て替えを行っている。建て替えも代変わりとすると現在のバスターミナルは4代目となる。初代から4代目に至るまでの歴史を整理してみた。 初代は現在の那覇市役所がある場所に建設初代那覇バスターミナルに関する情報は、那覇市議会録が一番詳しいと思われる。 まずは、1954年8月の議事録から。 審査に当りましては最初に主管部当局からバスセンター設置に関する今日迄の経過を聴取致したのでありますが、この問題は當初、政府工務交通局としては陸運行政面から警察局は交通取締り面から、市当局は都市計画面から總ゆる角度から十分なる検討を加え、前後数回に亘って三者合同会議を持って今日の成案を得た、即ち「バスターミナルの設置場所を武徳殿裏側に設置することとし、完成後の牧志街道については、車の発着場は認めるが、停留所を数ヶ所設置することとし尚路線についても例えば国頭、石

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    zu2 2024/05/29
  • かつて運行されていた浦添市内一周線|昔の沖縄の路線バス

    浦添市は、那覇市に隣接する県内第4位の人口を有する都市であるが、第2、第3の都市である沖縄市、うるま市に向かうバス路線のルート上にあることから、路線バスの路線数、運行数でみれば、那覇市の次に充実しているものと思われる。ただそれは点と線での話で、多くのバス路線が、幹線道路である国道58号と国道330号(バイパス)に集中しているため、面的には路線バスが走っていないエリアも多く存在し、市内の4割は公共交通空白地域である$${^1}$$。 この状況は昔から変わらなかったようで、1980年代に空白地域を埋めるために、市内を循環するバス路線が運行された。 1983年に市内一周線が運行開始前述の通り、既存の路線バスが走っていないエリアを網羅することを目的に、1983年3月15日より浦添市内一周線が運行を開始した。運行は琉球バスが担当した。 浦添市内一周バス路線が15日開通した。浦添市はこれまで、国道5

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    zu2 2024/05/29
  • 那覇空港と路線バスの歴史|昔の沖縄の路線バス

    県外から沖縄島に来る際には、ほぼ確実に利用することになるのが那覇空港である。今回は那覇空港と路線バスの歴史について整理してみた。 旅客ターミナルの完成と路線バス乗り入れはほぼ同時戦後、那覇空港に最初の旅客ターミナルができたのは、1959年(昭和34年)とのことである。 昭和34年 旅客ターミナル完成。旧国際線ビル、現在の第2ターミナルの位置。 (出典)那覇空港プロジェクト―那覇空港のうつりかわり那覇交通創立30周年誌によると、空港への路線が認可されたのも1959年(昭和34年)のようなので、ターミナル完成とほぼ同時に、路線バスも乗り入れを開始したようである。空港線は、当初は14/日のみの運行であったが、その約5年後の1964年には50/日にまで増便されている。なお、土復帰の1972年5月15日までこの1路線のみの乗り入れであった。 空港線(上之蔵-空港-上之蔵) 21.1粁 4両 

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    zu2 2024/05/29
  • 120番・空港リゾート西線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    なお「那覇空港と路線バスの歴史」でも書いたが、運行開始当初の120番・空港リゾート西線は、那覇市内においては、クローズドドアシステムが導入されており、那覇市内のみの利用は不可であった$${^3}$$。これは運行を開始した翌年の1993年11月19日をもって廃止され、以降は那覇市内を含めて全てのバス停での乗降が可能となっている$${^3}$$。 浦添市浦添市内では、2ヶ所のバス停に停車していた。 浦添市内の停車バス停 OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors浦添市内にはリゾートホテルが立地していないこともあり、ホテル敷地内への乗り入れは無かった。また、停車していた屋富祖と第二城間(現・SCSK沖縄センター前)の2ヶ所のバス停も、観光客向けというよりは、一般の利用者向けに市内中心部への乗り換えを考慮した選択だったようだ。 宜野湾市宜野湾市内

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    zu2 2024/05/29
  • かつて運行されていた深夜バス|昔の沖縄の路線バス

    残業規制強化の2024年問題等により、県内の路線バスの運行数は減便傾向であるが、減便と共に最終便も繰り上がっており、2024年5月現在の那覇バスターミナル発の最終バスは、23番・具志川線の22時00分である。 かつては、今よりも1時間以上も遅い23時20分に那覇バスターミナルを出発し、日付を跨いで24時37分に具志川バスターミナルに到着する便が運行されていたことがあったが、それよりもさらに遅く、那覇バスターミナルを24時以降に出発する「深夜バス」が運行されていたことがあった。 2か月間の試行路線として運行を開始県内初の深夜バスの運行は、1997年4月3日のことである$${^1}$$。沖縄県警からの「飲酒運転抑制」を目的とした運行要請に応えた形であり、特定の1社が運行するのではなく、111番・高速バスなどと同様に、琉球バス、沖縄バス、那覇交通、東陽バスの4社による共同運行であった$${^1

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    zu2 2024/05/08
  • 7番・空港首里城線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    那覇市首里にある守礼門は、かつて「日3大がっかり観光地」の1つとなっていた。これは守礼門の先の殿が存在しなかった(復元されていなかった)ためであるが、首里城殿が復元され、汚名返上のきっかけとなる首里城公園の開園は1992年11月3日のことである$${^1}$$。 この開園と同時に、那覇市中心部からアクセスするバス路線が運行を開始していた。 1992年に運行開始7番・空港首里城線の運行開始は、1992年11月3日である$${^2}$$。冒頭でも書いたように、この日は首里城公園の開園日であった$${^1}$$。 開園と同時に首里城公園のインフォメーションセンターである「首里杜館」の地下には、県営駐車場が設置されたが、開園当初はバス優先の駐車場となっていた$${^3}$$。加えてまだ民間の駐車場が周辺には少なかったことから、路線バスの開設により、一般車での来訪を極力防ぐ目的があったようだ。

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    zu2 2024/05/07
  • 玉泉洞と路線バスの歴史|昔の沖縄の路線バス

    「玉泉洞」は沖縄県南城市にある鍾乳洞である。「おきなわワールド 文化王国・玉泉洞」の園内にある観光施設の1つに過ぎないのだが、園内のメイン施設が「玉泉洞」であったためか、最寄りバス停名は「おきなわワールド前」でも「文化王国・玉泉洞前」でもなく、過去から現在に至るまで「玉泉洞前」である。 開園は1972年4月28日のことであるが、開園当初からバス路線が運行されており、2024年4月現在でも、4路線がアクセス路線として存続している。 開園当初は54番・前川線が唯一のアクセス路線開園から約2年後の1974年に玉泉洞を会場に開催されたメキシコサーカスを案内する新聞広告$${^1}$$には、交通アクセス手段として、琉球バスの54番・前川線の記載がある。別の新聞記事$${^2}$$だとやや読み取りづらいが時刻表も掲載されており、ほぼ同時期の1975年当時の時刻表$${^3}$$の54番・前川線と一致し

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    zu2 2024/04/29
  • 中城湾港マリンタウンへ路線バスが走っていた|昔の沖縄の路線バス

    「中城港湾マリンタウン」とは、沖縄県西原町と与那原町にまたがった埋立造成地である。1993年から造成事業が開始され、2007年より埋立地の分譲が始まったが、その直後の2008年3月1日より約6年間のみだが路線バスが走っていた。 東陽バスが乗り入れを開始乗り入れたのは東陽バスである。2008年3月1日から「57番・那覇マリンタウン馬天線」と「59番・那覇マリンタウン線」の2路線の運行を開始した。 57番・那覇マリンタウン馬天線57番・那覇マリンタウン馬天線は、那覇バスターミナルを起点として、マリンタウン内を経由して、南城市の馬天営業所を終点とする路線であった。既存の37番・那覇新開線を、マリンタウン経由としたほか、開南経由ではなく、壺川経由となっていた。 57番・那覇マリンタウン馬天線と37番・那覇新開線の運行ルート OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap co

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    zu2 2024/03/23
  • 37番・知念線と37番・那覇新開線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    2024年2月現在、37番という系統番号は、東陽バスの「那覇新開線」に充てられている。この路線は、那覇バスターミナルから与那原、新開を経由して、南城市佐敷の馬天営業所または南城市役所へ向かう路線である。 だがかつては、37番は「知念線」という路線で、那覇バスターミナルから与那原、新開を経由して、南城市知念へ向かう路線であった。端的に書くと、「37番・知念線」を南城市佐敷止まりとした路線が「37番・那覇新開線」であり、これを聞くだけだと、「知念線」を路線短縮する形で「那覇新開線」が誕生したようにも聞こえるが、両路線は連続して存在しておらず、37番が欠番だった時期が約10年ほど挟まっている。 1960年時点では運行を開始東陽バスが創業した当初の1951年9月9日の新聞広告$${^1}$$には「20分毎に佐敷へ(朝7時より)」という記述がある。「佐敷」は「知念」より那覇側にあった村なので、那覇か

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    zu2 2024/03/06
  • 15番・寒川線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    那覇バスが運行する15番・寒川線は、沖縄県南風原町の新川営業所を起点とし、那覇市の真地団地、寒川を経由して、三重城を終点とするバス路線である。 このバス路線は、運行開始当初は那覇市内線であったものの、後に那覇市外線となり、再び那覇市内線となり現在に至っている。 1982年に那覇市内線として運行開始15番・寒川線の運行開始は、1982年1月4日のことである$${^1}$$。当時の運行ルートは、三重城営業所(現・三重城)を起点とし、商業高校前、牧志(現・てんぶす前)、寒川を経由して、真和志高校前で折り返すルートであった。 運行開始当初の15番・寒川線の運行ルート OpenStreetMap®を元に作成 ©OpenStreetMap contributors現在の坂下琉生病院前から那覇インター前までの、金城ダム通りを通る約2kmが独自ルートであった。 運行開始当初の15番・寒川線の運行ルート(寒

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    zu2 2024/02/26
  • 101番・平和台安謝線の歴史を調べてみた|昔の沖縄の路線バス

    沖縄県那覇市の具志営業所と、浦添市の沖縄中央卸売市場を結ぶ101番・平和台安謝線は、かつて10番・安謝線と101番・平和台団地線という別々の路線であった。 そんな別々の路線の時代から、現在に至るまでの101番・平和台安謝線の歴史を調べてみた。 10番・安謝線の歴史まずは10番・安謝線の歴史から。 1966年に西町~牧志~安謝のルートで運行開始那覇交通創立30周年記念誌によると、安謝線の認可は1966年6月7日とのことである。具体の運行開始日に関する記述は無いが、1966年には運行を開始したのではないかと思われる。 1966年6月7日安謝線10台110回が認可になり7月末総認可台数155台(小型3台含む)保有台数139台となった。 那覇交通株式会社創立30周年記念誌(1981年4月 那覇交通発行)p.811968年~1970年頃の琉球政府の陸運関係資料$${^1}$$によると、当時社があ

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    zu2 2024/02/26
  • かつて那覇市首里に存在した市内線専用のバス停|昔の沖縄の路線バス

    沖縄県那覇市には、那覇市内線専用および那覇市外線専用のバス停が存在する。具体的には国際通りにあるバス停のことであり、「てんぶす前」「松尾一丁目」の2バス停は市内線専用、「牧志」「松尾」の2バス停は市外線専用のバス停となっている。 2024年2月現在はこの4バス停のみとなっているが、かつては那覇市首里にも1ヶ所だけ、市内線しか停車しない市内線専用バス停が設置されていた。 市内線専用だったプール入口バス停市内線専用バス停は、那覇市首里桃原町に設置されていたプール入口バス停である。 地図で示すと以下である。現在の桃原バス停(下り:儀保向け)の近くに立地していた。 バス停名である「プール」とは、1952年6月に竣工され、1994年10月に廃止された「首里プール」のことである。廃止されてから約30年が経過していることもあり、首里プールの跡地は完全に住宅街となってしまったが、この首里プールから約200

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    zu2 2024/02/26
  • 「後乗り前降り」時代があった那覇市内線|昔の沖縄の路線バス

    那覇市内のみを走る那覇市内線は、前の扉から乗って、先に運賃を支払い、後ろまたは中央の扉から降りる方式である。いわゆる「前乗り後降り」と呼ばれる方式であり、どこで乗ってどこで降りても運賃が同額である那覇市内線だからこそ成り立つ方式である。 長らく那覇市内線はこの「前乗り後降り」方式であるが、かつて出入口が逆となる「後乗り前降り」方式だった期間が約5年ほど存在した。 730を期に後乗り前降りに変更那覇市内線の乗降方式が、これまでの「前乗り後降り」から「後乗り前降り」に変更されたのは1978年7月30日のことである。この日は、交通方法が右側通行から左側通行へと変更された日、いわゆる730(ナナサンマル)である。 730以前の那覇市内線は、現在と同じく「前乗り後降り」方式であったが、730以後は、乗降時間が短くなるとして「後乗り前降り」へと変更された。当時の新聞記事によると、大阪市営バスを参考とし

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    zu2 2024/02/14