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清須会議に関するzusannnu4のブックマーク (2)

  • 織田信長の兄、織田信広とはどんな人?一度は叛いたけど、その後は忠義を尽くした織田家の頼れるアニキ

    何かと比較される兄と弟ですが、戦国時代は父親が同じでも母が違う場合には、兄が弟の家来になるというケースも普通にありました。戦国の風雲児織田信長の長兄、織田信広(おだのぶひろ)も、そんな家督を継げない長男の1人でした。 織田信長の兄の生涯とは、どんなものだったのでしょうか? 監修者 kawauso 編集長(石原 昌光) 姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。 コンテンツ制作責任者 おとぼけ(

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  • 【書評】清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?

    通説における清須会議 では、最初に従来信じられてきた清須会議について要約してみましょう。 1:清須会議に出席した織田家の重臣は羽柴秀吉、柴田勝家(しばたかついえ)、丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)の4名で滝川一益(たきがわかずます)は上野(こうづけ)から伊勢に逃亡したので参加できなかった。 2:織田信長の後継者候補としては、信長の次男織田信雄(おだのぶかつ)、三男織田信孝(おだのぶたか)の両名がいたが、三男の信孝を押したのが柴田勝家である。 3:それに対し、羽柴秀吉は信長の嫡男で二条御所で討ち死にした織田信忠の嫡男で、当時三歳の三法師(さんほうし)が後継者に相応しいと主張し、丹羽長秀と池田恒興も秀吉に賛同した。 4:次男の織田信雄を推す重臣がいないのは、そもそも他家を継いでいて家督継承の資格がない事、それに信孝のように柴田勝家のような有力な宿老がいない為である。 5:織

    【書評】清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?
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