何かしらの文章を書いて,ブログに載せる。受けたい。ブクマがほしい。アクセスがほしい。理解してほしい。共感してほしい。頷いてほしい。感想がほしい。意見がほしい。言及がほしい。きっと,欲しいものはいろいろあるのだろうけど,ほんとうは,ただ,ぎゅっと抱きしめてほしいだけかもね。この言葉たちをね。(id:kira-laさんのところにコメント入れたとき,ふと思いました)
何かしらの文章を書いて,ブログに載せる。受けたい。ブクマがほしい。アクセスがほしい。理解してほしい。共感してほしい。頷いてほしい。感想がほしい。意見がほしい。言及がほしい。きっと,欲しいものはいろいろあるのだろうけど,ほんとうは,ただ,ぎゅっと抱きしめてほしいだけかもね。この言葉たちをね。(id:kira-laさんのところにコメント入れたとき,ふと思いました)
何か一言でも言おうものならものすごい勢いで「それはあなたの価値観でしょう! 価値観の押し付けはやめてください!」とか言われるのがブログ界の常であり、それを回避する最善の策が感想メソッドだということは、ブログどっぷりの皆さんならとっくにおわかりのことと思う。「〜と思った」、コレ最強。吉岡さんが○○のことを△△だと思うことを誰も止められない。にも関わらず、吉岡さんが○○のことを○○だと思うことは自分に対する価値観の押し付けだと主張する西山さんがいたりするのでブログ界はなかなか侮れません。実を言うと、感想メソッドは押し付けから最も遠い位置にありながら、洗脳合戦の有効な武器として働いているので、西山さんの主張も全く間違いだと言い切れないわけですけども。でも西山さんが騒げば騒ぐほど、吉岡さんの武器は有効に働くので、それはそれでいいのです。
日曜コラムです、こんばんは。 はてなブックマークで「あとで書く」というタグをよく見かけます。 これは文字通り、対象の記事に何かひと言言いたいことがあって、 「これに関する記事をあとで何か書きますよ~」という意思表示です。 私の記事でも、ブクマして頂いた際にときどき、この「あとで書く」タグを 付けていただくことがあります。そんなとき私は、 あとで書くキター! wktk ということで、「あとで実際に何が書かれるのか」を楽しみに待っていたり します。ところが、ところが、この「あとで書く」タグは、結構な確率で あとで何も書かれなかったりします。 えー、放置プレイですか 。・゚・(ノД`)・゚・。 「あとで書く」という宣言に拘束力なんてあるハズがありませんし、 そもそもこの「あとで書く」という意思がどの程度の強い気持ちを持って 書かれているのかはわかりませんが、少なくとも、私が自分で確認したもの を
webそんなわけでパソコンが壊れ、新しいパソコンが来るまで、暫くの間借りているノートでネットをうろうろすることになったわけですが。「借りているパソコンだから」という意識もあり、RSS購読やはてなバーのインストールをしないで使ったら、まぁブックマークしないしない。「はてブニュース」と「はてなブックマーク」をお気に入りに追加するも、ホッテントリに並んだ記事を見て、閲覧してもよほどの事がないとクリップしない。 ほんの少しでも、今まで遣っていた状況と異なってしまうだけで、ネットと自分の距離に開きが出来るというか「ブックマークしておこう」とか「これをネタにブログを」というモチベーションが変化してくる。 「ハマる」というのは楽しいことだ。だけれど、同時にそれは「ハマっていない状況、状態」を観察出来ていないことと同義語なのかもしれない。人は同時に複数の状態、状況を当事者の立場に立った状態の儘観察すること
あなたがWEBに書いたその文章ですけど。 誰かに伝えたくて書いていたとあなたが思うのならば、誰かに伝わらなくちゃ本当とは言えない。伝わりさえすればその文章も本望のはずです。伝わる相手が誰であろうとも。 誰か見知らぬ人に伝わった段になって、叩かれてこき下ろされてそしてビビって「べ、別にあなたのために書いたわけじゃない」とか「すんません、こんなことチラシの裏に書くべきでした」なんて言って伝わることを否定したり文章を取り下げたりしたなら、それはあなたの文章に対して失礼だ。いや失礼なんていう言い方では軽すぎる。伝えるために書いた文章に対して「伝わらなければよかった」と宣言することは、その文章を殺したことと同じです。あなたは自分で生み出したものを自分の手で殺すことになる。 あるいは。 そもそも、あなたが誰かに伝えるつもりもなくただ漫然とWEBに文章をあげているのならば、誰かに伝わってしまうことは事故
私はときどき嫌われるために書くことがあります。 個人でブログを持っている人のほとんどが、本名ではなくハンドルネームでブログを運営していると思う。ハンドルネームという匿名の文化は非常に便利で、実社会の友人にさえ言えないようなことまで書けてしまう。誰にも相談できなかった悩みをウェブ上に書いたことはないだろうか?書き手が実社会の自分とリンクしない限り、意外と抵抗なく書けてしまうものです。しかし、ブログをある程度続けていると、自分のサイトに常連さんができたりして、コミュニティが広がっていきます。オフ会に参加したりもします。全く知らなかった人ばかりだった読者が、名前(ハンドルネーム)を知ってる人、いつもコメントをくれる人、会ったことある人、・・・とステップアップしていくものです。このステップアップは非常に楽しい反面、読者がほとんどいない頃に書いた「顔見知りには言えないようなこと」を読まれると非常に恥
例えばテキスト越し、回線越しでしか知らない、あの人が気になり始める。そんな事態に陥り、気になるあの人に気持ちを伝えたいとき、なんでおれたちはメールではなくWEBで記事にするんだろう。しかもはっきり気持ちを伝えるわけじゃなく、なんとなくぼやかして記事にする。伝わるか伝わらないかわからない可能性の中でテキストに落とす。アンテナ鋭いブックマーカーが跳梁跋扈するこの世であることを多分わかっていて文字に残す。 かってに推測するに、はっきり伝えるのが怖くてうすぼんやりとでも伝わってくれたらいいなーだとか、公共の場で告ったほうがダメージが少ないよなーだとか考えてるからなんじゃないかな? 中学のころとか、クラスの端っこでちょっぴり聞こえるように彼女のこと話題に出してみたり、告白するにしてもみんなのまえで冗談ぽく言うことで逃げ道を用意してたあの感じにも似た。 なんてことを考えていたら、あとあとじゃあじゃあオ
最近ブログを読んでいて、まあ特にブログ論がらみのブログを読んでいて「つまらないなー」と思う事が多い。なんでだろう?と考えてみると、そこには ・感動したー! ・腹が立ったー! ・つまんねー! ・面白いー! ・ばかやろー! とか、無駄にびっくりマークが付くような感情、魂のソウルが無いからなのだった。 なんでみんな、ブログ論を書く時にはそれを他人事のように、「俺はなんでも知ってるんだもんねー」という感じ、一歩引いたような書き方をするのだろうか?かくいう僕自身にもそのような傾向があったのだと少しだけ反省するフリも見せておく。 あのさあ、ブログ論って「俺はこんなブログが面白いと思う!」とか「こんなブログはつまんないから、もっと面白いこと書こうよ!」とか、そういう物だと思うのですがどうですか、みなさん!? 根底にあるのは「僕はこんなのが面白いと思う」という「俺のオモロ論」であって、それって他人事じゃな
■[Y氏への手紙]アドルノと共に考える――良い文章とは何か 19:47 恐らく、文章やブログを書いている人の多くは、大抵は「良い文章」の条件というものを聞いたときに「難しいことを解りやすく書いている」ということを条件に挙げると思う。私達には時間というものが無限大にあるわけではないし、有限の時間の中で何を考えなければいけないのだから、合理的に考えないといけない。「解りやすく」というのは、そのような合理性の産物だ。「難しい」ことには煩わされたくない、あるいは騙されなくない、ということだ。それは確かに正しいかもしれない。 その側面で考えるならば、アドルノという思想家の文章というのは「わかりやすいことを難しく書く」という最悪のパターンのように思われるし、実際最悪だ。どうやら向こうの言葉には「アドルノする」という言葉があるくらいで、要するに多分、彼の文章の異常な難解さを揶揄したものだろう。にも関わら
Unknown/いつまでヒマなことしてんだろなあ Unknown/いつまでヒマなことしてんだろなあ Unknown/いつまでヒマなことしてんだろなあ Unknown/いつまでヒマなことしてんだろなあ Unknown/あー Unknown/頭おかしすぎる Unknown/頭おかしすぎる Unknown/頭おかしすぎる Unknown/頭おかしすぎる Unknown/頭おかしすぎる
どうもゆがんだはしごさんが僕に対して汚い口調で意見するエントリを立てて、すぐさま削除したようなのですが…… 誤解なきよう書いておきますが、削除した物を晒してゆがんだはしごさんを嘲笑しようという意図ではありません。 相手を罵倒する事で成立するブログも(難しいとは思いますが)‘アリ’だと思いますし、その人との交流の度合いによってはコミュニケーションとして成立するでしょう。相手構わずに罵倒していれば、せっかく良い内容の意見を述べていても周りの人の同調を得にくく、相手とも幼稚な喧嘩になってしまいがちなので、お勧めはしませんが…… ゆがんだはしごさんが、罵り合戦になることを避けるために一度アップしたエントリを取り下げたのなら、僕はこの削除を評価しますが、気になったのは、その削除に対する弁明のエントリでした。 heartbreaking.:目上の人に対する態度は気をつけよう 何を言って良いか、何を言っ
はじめは種から始まり、やがて芽が出て花が咲く でも、一つの要因だけで花は咲かない 水だけをやっても花は咲かない 肥料だけやっても花は咲かない 土だけあっても花は咲かない 多くの人に支えられてはじめて花が咲く 花は実となり人に与え、そして新たな種を作る ゆがんだはしごさんの記事へのコメントで書いた俺の中のブロガーのイメージの改良版です。 はしごさんは育てる側と育てられる側の二分で考えてるわけですが、俺は誰もがどちらにもなりえるからこそ、webはおもしろいのだと考えている。そういう考えについて少し書いてみた。 ■育てる方法 俺自身ブログ初めて約3ヶ月なわけですが、初期に比べればそこそこながら見てくださる人は増えてます。それは取り上げてくれたニュースサイトの管理人さん達のおかげであり、はてブに導いてくれた人のおかげでもあるんだとおもいます。 影響からいえばLSTYさんの影響がやっぱり強いわけです
なんつうか、毎日紹介するんだったらフィルターの役割って意味ないじゃんとか。あとは単純に追っかけっぽくて気恥ずかしいというか。そこの人と普段からやり取りしてるならともかく。 SSMGの人の日記 - 私はこうしてニュースサイトをやめました ニュースサイトとブロガーの関係についてですが、追っ掛けなのか単に記事に惚れているのか、これは単純にイコールで表せるのではないかと。 ブロガーの顔は勿論エントリーであるわけで、エントリーが好きだからそのブロガーが好き、というのは三段論法的に見ても明らかなように思える。 で、追っ掛けという形容の仕方も実に正鵠を射ていて、自分がどこのニュースサイトよりも先に目を付けたブログには押し付けの恋愛感情を抱いてしまうもので、自らパトロンとして願い出たくなるものなのだ。 僕自身様々なブログを発掘してきたつもりだし、そういったブロガーの方を支援したいという気持ちは強かったと思
梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』を読みまして、次の文章を思い出した。 (前略)「どんなものでも九十パーセントはクズである」という、SFファンには有名な“スタージョンの法則”というやつがある。この法則が正しいとして、ネットサーフィンをしてみたAさんが(中略)クズだと言っている九十パーセントのページは、Bさんのそれとは一致していないはずなのだ。それどころか、Aさんが価値ある十パーセントに入れているページを、Bさんはクズだと思っているかもしれないわけである。WWWとはそういう特質を持った媒体なのだ。一般論で語ったときに取りこぼしてしまう部分にこそ、WWWの最大の力が隠れている。(中略)たいへん逆説的ながら、ほんの一部の人にしか役に立たない情報、ほんの一部の人しか面白いと思わない情報が流せるのが、WWWの重要な媒体特性のひとつである。(中略)それらは、一般的に
2006年4月20日 木曜日 at 23:37 コメント、トラックバックを受け付け中です。 トラックバックURL: (※ 本文中に当方へのリンクのないトラックバックは、無効送信として処理されます) コメント / トラックバック 10 件 yu_i Says: 2006年4月21日 at 13:45 「更新間隔が空いているのは、多分まぁそういうことです。本来サイトで満たされているべき承認欲求とか表現欲求とか自己実現欲求とかが、実社会で満たされてしまっている」 AdYandW Says: 2006年4月21日 at 23:51 サイトで満たしていた欲求が他でまかなえるようになった、と。そういうことでの休止なら、望ましいのかもしれないな。 another Says: 2006年4月22日 at 08:04 良いんじゃないでしょうか。 パ Says: 2006年4月22日 at 22:18 ま、い
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