溢れ出る感情の全てを言葉に代えることができたならば。 きっと私は、今まで以上に多くの事柄に言及してきたことだろう。 例えば、罪も無い人々の命がいとも簡単に奪われてしまうこととか。 例えば、“言葉の暴力”についてあまりにも簡単に語られてしまうことへの危惧とか。 私の中に芽生えた“ちいさな違和感”の大半は言葉にすることさえ出来ず、何度も何度も書き直しては結局封印されていった。 私には書けない。 私には無理だ。 劣等感ばかりが膨れ上がり、ますます私は自信を喪失していった。 やがて私は無理に言葉を探すことをやめ、迷うことなく「捨てる」ことを覚えた。 時が熟せば、言葉は自然に出てくる。 焦って書き記しても空回りするだけなら、潔く捨ててしまえばいい。 「吐き出す」ことより「伝える」ことを欲するようになった私は“言葉を寝かせる”ことを覚え、少しだけ冷めた視線で物事を捉えることを覚え
「裏表のない人格」に憧れる人は多い。 その人が発する言葉に“裏”はなく、それ故受け止める側は“額面通りに”受け止めればいい。 ある意味、これほど楽なことはないだろう。 かくいう私は「裏」も「表」もある。 時と場合(と相手)によって“言葉”を選ぶのは日常茶飯事。 これでも“T・P・O”を意識し、不器用なりに“自己演出”を試みている。 勿論私は私であり、“ある角度からの自分”を見せているに過ぎない。 相手を騙そうとする意図は微塵もなく、ただその場に応じた自分を提示したいだけ。 時にはそういった考え方が空回りし、心身共に疲れ切ってしまうこともある。 それでも、「裏表のない人格」にはなれそうにないし、仮になれたとしても敢えてそれを拒む。 “ありのままを見せない”こともまた、相手に対する思いやりになる。
私たちは無意識のうちに「自身の価値観」を押しつけ、「相手の価値観」を踏みにじっている。 「いや、私はそんなことをしていない」 何処からともなく声が聞こえてくるが、そういう人に限って言葉の端々に侮蔑を漂わせているのだ。 例えば、貴方が発した言葉に過剰な反応をしたとしよう。 それは忌まわしい記憶を呼び起こす“キーワード”だったかも知れないし、ただ単に“言葉に反応”しただけかも知れない。 いずれにせよ、貴方が何気なく発した言葉は私の心を深く抉った。 「私には悪気はない」「貴方が勝手に思いこんでいるだけだ」 言下に切り捨てるのはたやすいが、そんなに単純な話だろうか。 例えば、私が好きなテレビ番組について話をしたとしよう。 きっと貴方にすればくだらない番組で、それを真剣に見ている私が許せなかったのだろう。 「そんな番組の何処がいいんだ?」「他に見るべき番組があるだろう」 そうね
言葉の「裏」を読めない人が苦手だ。 そういう人は決まって「額面通りに」言葉を受け止め、背後にある微妙なニュアンスを読み取ろうともしない。 そればかりか、無意識に発した言葉が誰かを傷つけても「そういうつもりはなかった」の一点張りで謝ることを知らない。 “誰かを傷つける為に”言葉を発する人などむしろ少数で、“悪気のない言葉”が相手の心を容赦なく抉るのが現実なのに。 言葉の「裏」を読まない人が苦手だ。 知らず知らずのうちに“本音”が滲み出ている言葉。 話し言葉であれ、書き言葉であれ、あなたが思っている以上に“あなた自身”が露呈している。 それ故あなたが発した言葉に傷つく人がいて、その人はその人なりに不快感を伝える努力をする。 (けれども、あなたには届かない) きっと私は「過敏」なのだろう。 時に言葉は“ネッカーキューブ”と化し、様々な表情を私に見せる。 だからこそ「額面通り
昔から写真は苦手だった。 一時期ほどではないにしろ、カメラを向けられると瞬時に顔をそらしたものだ。 勿論、写されたからといって魂が抜かれると考えたわけではない。 自分でもわからないが、たまらなく不快感を感じただけだ。 (強いていうなら、写真写りが良くないことも原因の一つ) そういえば、こんなことがあった。 とあるオフ会での記念写真なのだが、たまたま隣に座っていたのが弱冠二十歳の女性。 まさか年齢差が写真に現れるとは夢にも思わなかったので、出来上がったそれを見た時は気絶しそうになった。(当時は三十代後半) 以来、若い女性とは一緒に写らないようにしている。 ところで、偶然見かけたその女性は鮮やかな黄緑色のスーツに身を包んでいた。 スカート丈は膝丈ぐらい。 素足にパンプスを履いていたが、決して細くはないその足が飛び込んできた瞬間、私は言葉を失った。 お世辞にも「細い」とは
乾いた文章が好きな人。 湿った文章が好きな人。 感情の起伏が伝わる文章が好きな人。 淡々とした文章が好きな人。 人それぞれに好みがあり、人それぞれに目指すものが異なる。 読み手の一人としては、やはり「人柄が滲み出た」文章が好きだ。 変に感情的になることなく、論理的で、それでいてほのぼのとした人柄が感じられる文章。 そういったものに私は惹かれる。 一方書き手としては、「乾いた文章」が書ける人間でありたい。 感情の起伏が非常に激しく、自身ですらコントロール不能になることが多いためか、せめて文章の上だけでも「乾いた」人でありたい。 勿論、無いものねだりである。 私がこれまで書いてきた文章を見ればわかるが、現実は「乾いた文章」には程遠い。 その時々の感情が言葉の端々に滲み出て、思わず苦笑してしまうことも少なくない。 それでも公開を止めないのは、そこにいるのが紛れも無く「私
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