文学理論の事の次第(下) 富山 英俊 この一文の前回は、文学理論の事の次第の若干を語ったわけだが、その骨子は、(一)いわゆる 「(ポスト)構造主義」の教えの中心は「主体の脱中心化」説と、「諸対象は構成されたものである」という説であったこと、(二)だが問題はそこでどんな諸 構造(主体の統御の外にあるはずの)が措定され、有効な分析の枠組みとして機能するかであり、期待はずれの「構造」の一例がヤコブソン的な「メタファー/ メトニミー」概念であったこと、(三)そもそも「文学批評」という実践は必ずしも「文学」や「批評」についての「理論的」理解を要求する種類のものでな く、(まさに「(ポスト)構造主義」が教えるとおりに)主体の意識を多くは経由しない種々雑多な言語ゲームの集合体であること、(四)そしてその一部は人 間の自然史に属すると言ってよい卑近・日常的なものであり、「メタファー」、「