ところで、鄭成功は、2万5000もの軍勢をもって台湾へ移ってきましたから、食糧増産をしなければ軍を養っていけません。それで、台南を中心としながら、北は嘉南平野へ、南は高雄平野へと軍隊を分けて屯田開墾を進めさせることとしました。この地域にみられる、左営、新営、柳営、林鳳営などの「営」のつく地名や、前鎮、後勁などは、いずれも、もとは鄭氏の軍隊が開いた開墾地なのです。(p.72-73) 台湾の地名は(その歴史に示される通り)、外来の支配者が台湾に入ってきたときに原住民と外来の者たちがどこで生活したかということと関係が深いものが多いように思われる。 当初、芝山巌に設置されたのは、国語伝習所、つまり日本語教育の学校でした。その三年後、1898年には、名称が公学校に変更され、各地に広く設置されていきます。 そこでは、修身、作文、読書、習字、算術、唱歌と体操の授業が行われました。一方、先住民に対しては、