天草の乱の後の幕府の政策で、天草地方では一つの村の中で漁民と農民が異なった部落を形成し、両者の間には深い溝があり、農民たちは漁民たちを賤民視していた。また、狭い土地で人口が飽和していた天草からの漁民たちは、水俣に移住し、そこでも以前から定住していた農民たちとは隔絶された共同体を形成していた。同じ村の中でも、川一筋隔てると別世界になっていたという。 そのような閉鎖的な集団で、人々の生活に大きな影を落としていたいくつかの疾病がある。一つはハンセン病(土地の言葉で「こしき」と言われている)で、これに罹患した人々は村を追われるようにしてさらに孤立した部落を形成することもあった。家族のハンセン病の罹患が明らかになると、その家族は村の中での結婚などに影響を及ぼすので、患者の隠蔽も行われていた。もう一つが、孤立した共同体で幾世代にもわたって繰り返された近親結婚による(とされた)先天性の疾患である。だれそ