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ブックマーク / akihitosuzuki.blog.fc2.com (6)

  • History of Medicine and Modern Japan アメリカ人類学者の精神医学的日本人論(1945年)

    2024.06 << 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 >> 2024.08 La Barre, Weston, “Some Observations on Character Structure in the Orient”, Psychiatry, vol.8, 1945: 319-342. 「人間に文化と言語の違いがあるからこそ、文化というものが存在し、そこに質があることを意識したのである」と語る文化人類学者のラ・バルは、第二次世界大戦という戦争を経て、アメリカを含めた文化という現象の質に迫ろうとするために、日ドイツの敵国も含めて、アメリカとは大きく異なった文化の心理学的な考察に取り組んだ。1945年に日論、1946年に中国論を上下で出版している。外国から視た「日像」の形成にとって重要であったこと、

    Ereni
    Ereni 2013/10/18
    文化人類学者のラ・バル“日本人が自国の達成を傲慢に誇る事例として、日本人は飛行機の発明者であること、サイクロトロンの発明者であること、そして、イエス・キリストは東北で生まれたという説の三つが紹介されて
  • History of Medicine and Modern Japan 台湾原住民(高砂族)の精神医学的研究

    2024.06 << 12345678910111213141516171819202122232425262728293031 >> 2024.08 米山達雄・分島俊「高砂族の精神医学的研究」『台湾医学会雑誌』vol.40, 臨時号、1941: 1-31. 民族の比較精神病学的な研究は、帝国医学の広がりや、クレペリンが20世紀の初頭に提唱したことなどから、世界各国で実施され、日でも戦前には盛んであった。もっとも著名なものは1930年代に始められた内村祐之のアイヌの精神病学的研究であり、30年代の後半には台北帝国大学が中心になって高砂族の精神病学研究が行われた。 この調査は昭和13年(1938)から始められたもので、関係警察官署に調査カードを送り、必要事項を記入して返却させたものである。直接精神科医が訪問したものではない。高砂族については徹底した管理の方式がとられていたので、精神病調査を

    Ereni
    Ereni 2013/10/16
    “ユダヤ人においては近親結婚が多いために遺伝的な素質に帰すべき疾患、たとえば躁病や分裂病や神経質が多いとのこと。日本の研究者にとっては、突き刺さるような鋭さを持っていた言葉に違いない”
  • History of Medicine and Modern Japan 台湾高砂族の精神病調査(昭和17年)

    FB更新. アイヌにはじまり、八丈島、三宅島、五家荘、東京池袋、小諸などのさまざまな地域で実施された精神病一斉調査。戦前で最も野心的なものは、1942年に台湾の高砂族を約4,000人にわたって調査したもの。 最大のポイントは、高砂族(特に対象となったブヌン族)の精神疾患、特に分裂病が著しく少ないことである。精神病一斉調査においては、総じて、未開民族がもっとも罹患率が低く、次いでヨーロッパ人、一番高いのが日人の順という結果が明らかにされていた。日の精神病医たちは、その科学的な調査によって、日人は他民族よりも精神病学的に劣性であるという結果を次々に明らかにしていたことになる。しかも、西欧よりも優れた大東亜の盟主であり、大和民俗の優秀性が絶叫されている時代に。

    Ereni
    Ereni 2013/10/16
    "その科学的な調査によって、日本人は他民族よりも精神病学的に劣性であるという結果を次々に明らかにしていたことになる。しかも、西欧よりも優れた大東亜の盟主であり、大和民俗の優秀性が絶叫されている時代に"
  • History of Medicine and Modern Japan 漁村の疾病

    天草の乱の後の幕府の政策で、天草地方では一つの村の中で漁民と農民が異なった部落を形成し、両者の間には深い溝があり、農民たちは漁民たちを賤民視していた。また、狭い土地で人口が飽和していた天草からの漁民たちは、水俣に移住し、そこでも以前から定住していた農民たちとは隔絶された共同体を形成していた。同じ村の中でも、川一筋隔てると別世界になっていたという。 そのような閉鎖的な集団で、人々の生活に大きな影を落としていたいくつかの疾病がある。一つはハンセン病(土地の言葉で「こしき」と言われている)で、これに罹患した人々は村を追われるようにしてさらに孤立した部落を形成することもあった。家族のハンセン病の罹患が明らかになると、その家族は村の中での結婚などに影響を及ぼすので、患者の隠蔽も行われていた。もう一つが、孤立した共同体で幾世代にもわたって繰り返された近親結婚による(とされた)先天性の疾患である。だれそ

    Ereni
    Ereni 2013/10/16
    岡山達明『近代民衆の記録7 漁民』ハンセン病、結核“チッソの責任というパラダイムが民衆の中に現れるまでは、水俣病は「こしき」「アチャ」「肺」とならぶ、もうひとつの「統」に基づいて差別される病気だった”
  • History of Medicine and Modern Japan 明治東京のスラム・クリアランス

    明治14年に東京防火令が出て、中央三区(神田、日橋、京橋)の主要街路および運河沿い家屋へのレンガ、石、蔵造りによる路線防火体制と、そのほかへの瓦葺き屋上制限の条例を発布し、それにかなわぬ既存家屋の改修を命じ、明治20年に完了する。明治に入ってからも、この三区で一万棟以上が消失する火災は三度もあり、特に14年の神田の松枝町に発した火災は1万5千棟以上を焼失させた。しかし、防火令が施工されたあとは、三区の大きな火災はあとを絶つ。 明治14年の火災の跡地を前に、神田橋町という「細民が輻輳する」街区のスラムクリアランスが行われる。この地は、陋隘の家屋が密集し、窮民に貸与された、当時の用語で言う「木賃宿」が集まっていた。「木賃宿」とは、通常は事がつかず、かろうじて雨露をしのぐことができる程度の部屋を貸すある種の宿屋であった。この種の宿泊施設は、日雇いなど定業がないものや無職のものたちが集まって

    Ereni
    Ereni 2013/10/16
    橋本町、文政年間以前から願人(アホダラ経)が集まっていた。"この地は悪疫流行のときに「救うべからざる惨毒」をもたらしたという。これはおそらく明治12年(1879年)のコレラのときの被害を言うのであろう"
  • History of Medicine and Modern Japan 明治19年の神田のコレラ

    明治19年の東京のコレラを、町名ごと・一日ごとに患者の数が分かる資料を見つけて、データペース化して分析している。1500くらいの町名に関して、だいたい3ヶ月間だから、14万件近くのデータということになる。 全体としては、神田、日橋、京橋、芝、浅草、所、深川という、ウオーターフロント系の地区に多い。 一つ一つの区の中で違いを見ると、色々と面白いことが分かる。 その中で、神田区で大きな流行を経験した町を地図の上にドットすると、神田区の東側に偏っている。これを、この前記事にした「江戸明治東京重ね地図」で江戸時代の地図の上に移し変えてみると、「内神田」と呼ばれた町人が居住する地域に集中していて、武士が居住していた「小川町」であった地域には、明治のコレラで高い罹患率を出した町はない。

    Ereni
    Ereni 2013/10/16
    木賃宿“「内神田」と呼ばれた町人が居住する地域に集中していて、武士が居住していた「小川町」であった地域には、明治のコレラで高い罹患率を出した町はない。似たような傾向は深川でも観察できるが、なぜだろう?
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