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アキハバラ発―〈00年代〉への問い 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/09/26メディア: 単行本購入: 8人 クリック: 136回この商品を含むブログ (52件) を見る 今年のことを振り返る時にどうしてお避けて通れないのは秋葉原で起きた連続殺傷事件だろう。 あの事件が起きた時、ネットでは多くの人が事件と犯人の加藤智大の経歴に衝撃を受け、何とか自分達の問題として、言葉にしようとし、おそらくそれと同じくらい、関わりたくない、できれば避けたいと思い沈黙、あるいは語ること自体を牽制し合った。僕はどちらかというと後者の側で、事件が起きた時、ショックを受けてる人に対し、どこか冷めた目で見ていた。 その理由は簡単に言うと、それが秋葉原で起きたオタクが殺された通り魔殺人だからで、例えば、その数日前に僕が以前住んでたアパートの近くで起きた福岡の某所での老婆が殺された通り魔事
水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』は、<普遍語>と<現地語>に、近代文学と結びついた<国語>が対置されるという構図になっています。簡単に言うと、<普遍語>が万人に通じる普遍的な知の世界だとすると、<現地語>というのは日常的なおしゃべりの世界です。たとえば、かつてならラテン語が、いまなら英語が<普遍語>として考えられる。知を一極的に集中し管理することのできる言語がひとつ決まっていて、あとはその下層で<現地語>のおしゃべりが生まれては消えていく。そういう二極化が、現代のグローバルな情報環境の下で進んでいる。それが水村さんの見立てです。いわば、近代以前の中世的な世界になっているわけです。そこでは、日本語は知を担う言葉というよりも、おしゃべりの言葉としてのみ生き残ることになる。 そして、水村さんの構図では、本来その両者の中間的な存在として<国語>がある。<国語>とは、知的でありながら日常的な言
新宿ロフトプラスワンで行われたパネルディスカッション「秋葉原通り魔事件 絶望する社会に希望はあるか」のレポの続きです。(1)はこちら。 (承前) 東:宮台氏の言っていることは、民主主義が不要ということ。そのことを宮台氏は分かっているはず。民主主義的な言論の戦いとは自分の信者を安心させるだけで、実際はロビイングで決まる。 宮:(メモ不整)自分はラディカル・デモクラシーは大事と考えている。意思決定は皆の合意の上にやってはいけない。意思決定はパターナリズム、つまりお節介が行う。しかしこれは異議申し立てに対し開かれていなくてはならない。 東:それは分かる。大きな問題が今はなくなって、シングルイシューしかない。大きな問題が「ない」ということで連帯しようという議論もあったが、それは失敗した。 宮台氏は政治的なアリーナとは必要と思っているのか。宮台氏の言葉をそのままなぞれば、民主主義も論壇も言論も要らな
新宿ロフトプラスワンにて、秋葉原通り魔事件についてのパネルディスカッションがあるというので、事件の現場に居合わせた者として、先月に同じロフトの阿佐ヶ谷でやはり行われたトークライブにも行きましたし、今回も何とか時間をやりくりして行ってみました。 今回のイベントの主旨と参加者は、ロフトのサイトから書き写すとこんな感じです。「秋葉原通り魔事件──絶望する社会に希望はあるか」 秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分──若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか? 【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、月乃光司(こわれ者の祭典)、タダフジカ(ギタリスト)、
犯罪の引鉄になったかもしれない事実はいくつもある。 ・【秋葉原無差別殺傷】人間までカンバン方式 - 何かごにょごにょ言ってます ・秋葉原通り魔事件が例外的犯行だと思えない理由 - 狐の王国 ・秋葉原無差別殺傷事件について雨宮処凛さんと赤木智弘さんにコメントを伺いました。 - 革命的非モテ同盟 歴史的に貧困と犯罪発生率の高さは概ね比例する。けれども、ぼくには秋葉原の件は少し違って見えている。貧困社会に犯罪が多いのは「物盗りが増えるから」という側面が少なからずあると思う。それは端的にいって「パンを奪う犯罪」である。本当に食い詰めたなら、そうなるのが自然だろう。その点、件の容疑者はパンを狙ったわけではない。無差別殺人である。鬱憤を晴らしたり、世間の耳目を集めたりする効果はあっても、腹を膨らませる効果はまったくない。だから、貧困による犯罪という文脈であの通り魔事件を語ることに、ぼくはいくばくかの抵
福島の少年には心底、同情する。 彼の破滅に泣くものがいなければ、私が泣こう。 これは二重の意味での悲劇なのであり、決して卑俗なエンターテイメントの文脈での「悲劇」ではない。 しかし、既に「精神的な不安定さ」が取りざたされている以上、これが「心の闇」という規定路線で「処理」=「料理」=「報道」されるであろうことは想像に難くない。 それは引いては、真の原因を隠蔽するという第三の悲劇、社会にとっての悲劇となるはずなのであるが、その悲劇に気づくものは所詮少数派でしかなく、多数派はその悲劇すら「悲劇」として消費していくだろう。 かくして、悲劇は再び、三度、万度繰り返される。 この破滅を瀬戸際で救うのが、かつては宗教という回路を通じて社会に還流されていた哲学なのであるが、もはやそれが望むべくもないことは過日の言及のとおりである。 この破滅の淵に立ったものが寺に連れられたとして、そのものと正面から論を交
ロリコン化する社会雑考@G★RDIAS 個人的にも大事な論点だと思っててブックマークしたら、ブクマが8つもついてしまった。kanjinaiさん曰く、「軽く書いたのに、なんかいきなりブックマークで注目されてしまってあせってますが・・」。スイマセン。責任とって記事書きます。…とはいえ、以下に書くことは、僕自身の問題意識であって、文責は当然僕自身にあります。 kanjinaiさんのコメントを、少し引用する。 私が具体的に法的規制を提案しているのは、幼い少女(少年)の実写イメージについてです。絵柄の法的規制までは今回は訴えてはいません。今回訴えたかったのは、「萌えは健康だよ〜」「萌えには性的意味はないよ〜」「萌え図柄を社会にばらまいても誰も傷つけたりはしないよ〜」というのは<嘘>だということです。マスコミは、その嘘に乗っかったうえで、萌え記事を発信しているが、これは問題視したほうがいいというが私の
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