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ブックマーク / tukinoha.hatenablog.com (13)

  • 徳川綱吉の再評価について - tukinoha’s blog

    世の中のほとんどの人間は、馬鹿でもない代わりにさほど賢くもなく、独創的なこともしない代わりに独りよがりなこともしない、ということは我々が日々実感するところですが、こと歴史に関しては「名君/暗君」「文明/野蛮」「進歩/退嬰」の二分論で切り分けたくなるのもまた然り。専門の歴史学者もこうした二分論から完全に自由にはなっていないのですが、しかし、これはちょっと如何なものかと。 いま使われている歴史の教科書では聖徳太子の事績や実在に疑問がつけられたり、鎌倉幕府の成立が1192年ではなくなっている。「いいくに作ろう鎌倉幕府」は今や「いいはこ(1185年)作ろう鎌倉幕府」になっているのだ。 そして、教科書の変化で目に付くのは、人物評価の「上がった人」「下がった人」の明暗である (中略) 劇的に評価が上がったのが、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉である。1988年版にはこうある。 〈生類憐みの令をだして犬や鳥

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    Imamu
    Imamu 2013/04/15
    『生類をめぐる政治――元禄のフォークロア』
  • 司法は社会秩序を守らなくてはならないのか - tukinoha’s blog

    大阪市平野区の自宅で当時46歳の姉を刺殺したとして、殺人罪に問われた無職大東一広被告(42)の裁判員裁判で、大阪地裁は30日、求刑の懲役16年を上回る懲役20年の判決を言い渡した。 判決理由で河原俊也裁判長は、約30年間引きこもり状態だった被告の犯行に先天的な広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響があったと認定。その上で「家族が同居を望んでいないため社会の受け皿がなく、再犯の可能性が心配される。許される限り刑務所に収容することが社会秩序の維持にも役立つ」と量刑理由を説明した。 ――「姉殺害に求刑超え懲役20年判決 発達障害で「社会秩序のため」」『47news』2012年7月30日http://www.47news.jp/CN/201207/CN2012073001002297.html―― このニュースを読んで思い出したことを少し。 犯罪人類学という、いまやほとんど忘れ去られた、法

    司法は社会秩序を守らなくてはならないのか - tukinoha’s blog
    Imamu
    Imamu 2012/08/01
    フーコー「19世紀司法精神医学における『危険人物』という概念の進展」/『「法の外から持ち込まれる利益=社会秩序の維持など」と「法の内=法典の体系性」との緊張関係が』
  • 東浩紀と「幽霊の複数性」問題―松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」を読んで - tukinoha’s blog

    かつてアリストテレスが名指された。名「アリストテレス」は、そこからさまざまな経路を通り配達される。それゆえ名「アリストテレス」はいまや、複数の経路を通過してきた複数の名の集合体である。必然的にそこではさまざまな齟齬が生じる。・・・・・・だからこそ、名「アリストテレス」にはつねに訂正可能性が取り憑く。固有名の単独性を構成し、かつ同時に脅かすその訂正可能性を、ここで前章の議論をうけ「幽霊」と呼ぶことができるだろう。名「アリストテレス」はつねに幽霊に、つまり配達過程で行方不明になってしまった諸々の「アリストテレス」に取り憑かれている。そしてそれら幽霊はネットワーク(伝達回路)の不完全性によって、様相性と複数性の徴のもとで現れる。(強調引用者) ――東浩紀『存在論的、郵便的』新潮社、1998年、128頁―― 東浩紀によると、ある固有名は、他の固有名と混同されたり、内容の異なる複数の名の集合体であっ

    東浩紀と「幽霊の複数性」問題―松尾隆佑「確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために」を読んで - tukinoha’s blog
    Imamu
    Imamu 2010/09/22
    複数/唯一「理論の仕事は、複数的なものを一貫したパースペクティヴで捉えること」「否定神学的でない理論など考えられないという意味で、理論はつねに脱中心化されている」中野昌宏『貨幣と精神』
  • 『涼宮ハルヒの消失』についての雑感 - tukinoha’s blog

    近所の映画館で観てきました。観ようかどうか迷ってる……という人は観にいきましょう。座席数が少なかったりスクリーンが小さかったり観客のマナーが悪かったりしましたが、それでもなお、2時間40分を短いと思えるくらい濃厚な時間をすごすことができました。京アニの良いところが全て出ていて、しかもちゃんとした映画になっている。最近は長いテレビアニメのような劇場用作品が多いので、余計にそう感じました。あまり疲れを感じないのは、カットの繋ぎ方がやわらかいからでしょう。 SOS団のメンバーが揃う後半以降も面白いのですが、特に前半が良かったと思います。一番良かった場面は、キョンが色々な人にハルヒのことを尋ねて回るシーン。原作でも、独白やくり返し表現が多用され、見知らぬ世界に放り込まれたキョンの不安がひしひしと伝わってくる、非常に印象深い場面でした。 もつれがちの足を叱咤激励し、俺は這うように廊下へ進み出た。 ま

    『涼宮ハルヒの消失』についての雑感 - tukinoha’s blog
    Imamu
    Imamu 2010/02/08
    『長門がキョンに示す露骨な好意に含まれるもののうち、キョンは半分しか受け取ろうとしない』「原作のキョンは典型的な「信用のできない語り手」~ロングショット主体~客体化~モノローグと行動の乖離を強調」
  • アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog

    アニメにおける基的な技法である「モンタージュ」は、しばしば遠く離れた2人をすぐ近くに存在するかのように描きます。『ガンダム』では1つの画面を2つに分割する技法が頻繁に用いられますが、これもモンタージュと同様に、離れた場所にいる2人が同じ場所で向かい合っているように見せかける技法であると言うことができるでしょう。 一方で、『ef - the latter tale.』のデモに見られるように、他者との対比や画面構成によって「近いようで遠い」距離感を表すことも、アニメは得意としています。 では、全然近くない、遠く離れた2人を描くにはどうすれば良いのでしょうか? 背景を変える、言葉を変える、服装を変える……理屈の上ではわかるのですが、どれも心情に訴えかける効果的な表現とは言いづらいような気がします。つまり、アニメというメディアは「近さ」と「微妙な遠さ」を描くことを得意としながらも、心理的あるいは

    アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog
    Imamu
    Imamu 2009/09/13
    一方が他方の時間を支配する(電話)、あるいは無視する(メール)という「個人的な」性質』//携帯電話の「現前性」『親密さを図るものさしとして「距離」の重要性が薄れ、代わって「同時性」が』
  • カフカと手紙 - tukinoha’s blog

    アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinohaの絶対ブログ領域 昨日もお知らせしましたが、ぶっちゃけ誰も読んでないみたいなので、加筆部分(の一部)だけ転載。 作家のフランツ・カフカは、恋人に向けて書いた膨大な量の手紙を残していますが、その中には「手紙について書かれた手紙」も存在しており、コミュニケーションに関する彼の鋭い洞察がうかがえます。例えばこういう内容。 「われわれはあまり一緒にいませんでした、それは当ですが、しかしたとえわれわれが一緒にいたとしても、ぼくはあなたに(ただし実行不可能なことですが)ぼくを手紙から判断するよう、直接の経験からそうしないように頼んだでしょう。手紙にひそむ可能性は、僕の中にもひそんでいます」 ― 1915年3月25日付 ― これをカフカの対人恐怖症の表れだと考えても、必ずしも間違いとは言えません。ただ、ここでは最後の「手紙にひそむ可能性は、

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    Imamu 2009/09/13
    『何かを、それについて考えたり話したりする対象にしようとすることは、私とその「何か」を引き離すことでもある』
  • アニメへの「翻訳」という考え方 - tukinoha’s blog

    http://d.hatena.ne.jp/tokigawa/20090804/p1 原作至上主義とアニメ至上主義はどちらが正しいのか?という話。 少し前からtwitterで「翻訳」という概念について考えているのですが、それが間接的にこの問題への答えにもなっているような気がするので、ちょっと転載してみます。 ベンヤミンの『翻訳者の使命』も読まずに原作付きアニメの脚を論じるとか・・・という某氏の発言にgkbrだったので、ええまあ、読みましたよ。硬質な文体と「純粋言語」なる秘境的・メシア主義的概念に困惑。 全部理解できたとはとても言えないのだけど、大枠はつかめたと思う。つまり「純粋言語のために翻訳者は母国語の腐った垣根を取り払う。ルター、フォス、ヘルダーリン、ゲオルゲはドイツ語の境界線を拡大したのである。」とか「翻訳者たるもの、懸け離れた言語から翻訳する場合には殊に、言語の究極的な要素、語・

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    Imamu
    Imamu 2009/08/12
    『「翻訳translate」するということは、媒体Aを媒体Bに置き換えることではなくて、むしろ決して媒体Bには置き換えられない過剰性をバネにして媒体Cを生み出すことではないか』
  • 「反復」と「ループ」―前置きの長い「エンドレスエイト」論― - tukinoha’s blog

    「エンドレスエイト」について細かく説明する必要はないだろうが、要するに「ループもの」の作品として同じエピソードを(演出を変えながら)毎週繰り返し放送しているわけである。作画オタクは作画監督ごとの個性について、演出オタクは「今週の絵コンテは〜だった」という話題について盛り上がる一方、(管見の限りでは)大半の視聴者は「同じことの繰り返しだ」として退屈を感じている、というのが現状である。 ただ、crow_henmi氏が既に書いているように、極めて純粋な「ループもの」であるためにかえって大多数の「ループもの」とは区別される奇妙な作品となっている、という逆説的な事態については、まだ十分な考察がなされているとは言えないだろう。そこでこの記事ではジル・ドゥルーズ『差異と反復』を手がかりに、「反復すること」と「ループすること」の間にある微妙な違い、そしてそれぞれの成立要件について見ていきたい。それによって

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    Imamu
    Imamu 2009/07/21
    『「反復‐ループ」構造はドゥルーズの言う[かけがえのないもの]「特異性」の存在によって初めて成立する』
  • ■ - tukinoha’s blog

    明日にでも電車に乗って、尾道まで遊びに行こうかと思います。青春18きっぷの日帰りで。道中はじっくりを読むと決めているので時間の無駄はないはずなんですが、何というか、物理的に移動すると、それだけで充実した時間を過ごせたという錯覚が得られてしまう恐ろしい罠があるわけで。中国の内陸部に入り込んだ旧日軍みたい。この比喩はイマイチか……。 最近、サイクリングとか、普通列車の旅とか、好きなんです(やばいなぁ)。 『コードギアス』の谷口悟朗監督が、日経ビジネスオンラインで制作側の考えを「解説」していることに対し、『新・アニメ・批評』のK・ワークスさんが厳しい批判を加えています。僕としては的を得た良い批判だと思ったですが、現在では何故か記事が消されている。なので記憶違いがあるかもしれませんが、僕の考えを少し書いておきます。 K・ワークスさんが言うには、制作者が自らの作品に言及することに対し、映画とテレ

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    Imamu
    Imamu 2008/09/07
    『映画とテレビアニメとでは異なる倫理性が要求』→ジョン・フィスクが『テレビジョンカルチャー』(「テレビジョンの出来事は現在起こっているという感覚が、視聴者と同じ時間尺度で進行するからこそ可能になる」
  • アニメにおける「縦の構図」と「垣間見」の精神 - tukinoha’s blog

    以前からこのカットが気になっていました。 『CLANNAD』第2話より、近景のクローズアップと遠景とを組み合わせた構図。上のカットの場合、視聴者に見せようとしているのは明らかに中央奥の人物であるにも関わらず、それを直接見せるのではなく、前方の遮蔽物越しに「垣間見」させている。このような構図を一般に「縦の構図」と呼びますが、これはどういった狙いで使われているのか、またどのような文化的背景から生み出されたのか、ということについて考えてみたいと思います。 最近のアニメ作品において、この「縦の構図」を多用したものとして『ef - a tale of memories.』が挙げられます。 前方の遮蔽物とにの比較によって、奥に描かれている人物との距離感、その小ささが強調されています。ここで僕たちはまず、二次元のアニメからどのようにして三次元の情報である「奥行き」を感じているのか、ということについて確認

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    Imamu 2008/02/29
    『一方的に見る(覗き見る)ことはしばしば見られる対象の価値を高め、そこに真実があるという幻想を僕たちに与えます』
  • 最近の『桃華月憚』がすごい!−第21話に見るアニメと色彩表現の可能性 - tukinoha’s blog

    『桃華月憚』がここ3話ほど素晴らしい話が続いており、逆再生ばかりに気を取られていた不明を恥じると共に、改めてそのクオリティの高さに注目しています。特に第21話「園」には驚かされました。 この通り、冒頭から何故かモノクロ、全国100万人の視聴者がいっせいにテレビを叩いて直そうとしたために、翌日は家電屋さんが大繁盛という伝説を……という話ではなくて、部分的には色がついているのでわざとなんだろうな、ということはわかるものの、物語は何の説明もないままモノクロで進んでいきます。 桃花のモノローグがこれでもかというくらい流れて、何だろう、もしや一昔前の文学っぽさ演出するためのモノクロかしらといぶかしんでいたところでこのシーン。 部屋に反物が広げられるたびに、空間が色を取り戻していきます。それ自体鮮やかな色彩なのですが、それまでのモノクロ空間との対比でより一層素晴らしい色彩感覚を演出しているのです。こう

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    Imamu
    Imamu 2007/09/10
    最初TV壊れたかと思った。そんで最後に能登さん脚本でさらにびっくり
  • 『まなびストレート』―「まなび」は何を語り、僕たちはなぜ「まなび」を語るのか― - tukinoha’s blog

    今回は『がくえんゆーとぴあ まなびストレート!』を通して、作品に用いられる「言葉」、作品を語る「言葉」について考えてみたいと思います。 「言葉」には様々なジャンルがあります。親しい友人と話すとき、会社の上司と話すとき、それぞれの状況で僕たちの「言葉」は語彙もイントネーションも一変することでしょう。 そのため、僕たちは様々なジャンルの言葉を「違うもの」として認識します。「モノローグ(独白)」と「対話」、「丁寧な言葉」と「フランクな言葉」は全く違うものである、という風に。この認識は、ある意味では正しいでしょう。しかし、その一方で僕たちを縛る制約ともなります。「敬語は偉い人に向けて使うものである」「フランクな言葉は友人に向けるものである」と。 今回取り上げる『まなびストレート』においても、それは例外ではありません。主人公の天宮学美を例にとっても、全校生徒の前で話すとき、親しい友人たちと話すときで

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    Imamu
    Imamu 2007/03/08
    『言葉単独で意味を決定することが不可能であることを前面に押し出すことで、コミュニケーションによって意味を決定することを求めようとする、という共通原理』
  • 『Kanon』に見る「家族」の終焉 - tukinoha’s blog

    昨日実家から京都へ戻ってきたのですが、誰もいないアパートの部屋が広く感じられた……何てこともなく(事実狭い)、割と快適に過ごしています。家族と暮らすメリットというのもある、けれど、ひとりで暮らす人生がつまらないというのは偏見だ、と僕は思うのですよ。 いきなり自分語りから始まりましたが、つまり現代では「家族」を無条件で肯定するような見方はリアリティを失いつつある、という話です。「家族」がユートピアであるための条件はあまりに多く、もし「家族」がユートピアであると思うのであれば、それは誰かの努力によって必死に支えられているか、あるいは単なる思い込みじゃないの?と。 「家族や絆をテーマとして取り上げることが多い」とwikipediaに書かれている麻枝准、そしてkey作品においてもそれは例外ではありません。いや、むしろ家族を肯定しようとするkey作品においてこそ、家族という概念は変質せざるを得ないの

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    Imamu 2007/02/21
    『血縁関係、公権力による承認は重要な問題とはされていません』「父親の不在」
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