沖縄県本部町内で、地名や店名を平仮名で「もとぶ」と表記する企業や事業所が増えている。観光客や県外の取引先に「本部(ほんぶ)」と誤解されるのを避けるためというのが主な理由だが、平仮名で親しみやすさを狙うケースも多い。6月10日は町のPRデー「むとぅぶ(610)の日」。
www.asahi.com まずはじめにお断りしておきますが、本稿は「日韓の草の根交流」や「韓流ファン」それ自体を批判するものではありません。私が批判したいのは、日本のマスメディアや国民が、日本による朝鮮の植民地支配という負の歴史を忘れるために「日韓の草の根交流」や「韓流ブーム」を利用することです。 本稿の冒頭でリンクした朝日新聞の記事は、「日韓の外交関係が徴用工をめぐる問題などで『過去最悪』ともいわれる中」という書き出しで始まり、「国同士難しい問題はあるのは知っていますが、全然気になりません」という若い日本人旅行者の声を紹介しています。また、そうした若い日本人旅行者が「政治の壁を越えて交流を支えている」のだといいます。 もちろん、日本社会に蔓延する「嫌韓」に影響されない若い日本人旅行者が、「日韓の草の根交流」を支える大切な担い手であることを否定するつもりはありません。しかし、日本の戦犯企
首都圏~京阪神間、あるいは首都圏~仙台間といった高速バスの「大都市間路線」では多数の業者が競合し、サービスや価格の面でしのぎを削っています。しかし、その市場は近年になって開発が進んだものでした。 歴史は古いが… 苦戦した東名、東北区間 高速バスどうしの競争が最も激しいのが、首都圏と京阪神、名古屋、仙台を結ぶ区間、つまり「大都市間路線」です。そう聞くと、「日本を代表する“大動脈”だから当然」と思うかもしれません。しかし、実際はその逆です。「地方から都市への足」として成長してきた高速バス業界のなかで、長い間、大都市間路線は市場開拓が遅れていました。近年、ウェブマーケティングの登場で急成長し、それがちょうど規制緩和と重なったことで、多数の新規参入事業者が競い合う特別な市場を作り上げたのです。 拡大画像 JRバス各社は東名・名神の路線に2階建てバスを多く投入した。写真はジェイアール東海バスの車両(
鉄道網の維持について議論が続いている北海道。かつては全道に鉄道路線網が張り巡らされていました。その往年の姿を、昭和33年の地図で見てみましょう。 和楽路屋「最新 鉄道旅行図」 以下の地図は、昭和33年(1958年)の北海道鉄道路線を示したものです。鉄道地図として一時代を築いた和楽路屋「最新 鉄道旅行図」。横長ワイド折り畳み式鉄道路線図の、北海道エリアを切り取ったものです。 和楽路屋「最新 鉄道旅行図」昭和33年2月修正版 北海道じゅうに、鉄道路線が張り巡らされています。赤線に太フチが「国鉄幹線」、赤線が「国鉄本線」、黄土色が「国鉄普通線」、水色が「会社鉄道線」という凡例です。 国鉄幹線は、函館~旭川の函館本線、旭川~稚内の宗谷本線、滝川~根室の根室本線の3線のみ。函館を起点に、北海道最北端と最東端を結ぶ路線が、当時は最重要幹線とみなされていたようです。戦後の地図ですが、樺太、千島を領有して
九鬼 喜久男(くき きくお、1918年(大正7年)7月31日[1] - 2005年(平成17年)10月31日[1])は、日本の実業家、政治家。第12代四日市市長(1966年(昭和41年)1月22日 - 1972年(昭和47年)11月18日)。九鬼産業グループの経営者。三重県松阪市飯高町(当時の飯南郡波瀬村)の出身、四日市九鬼家の婿養子で、旧姓は田中。四日市公害(四日市ぜんそく)裁判の引き金を引いた政治家である。 飯南郡波瀬村の旧家(大山林地主)田中家で田中彦左衛門の二男として誕生する[2]。婿養子として結婚する前の姓名は田中喜久男であった。三重県知事(1955年 - 1972年)を務めた田中覚とは同族で、遠戚関係にあった。 四日市市の名門家系である四日市九鬼家は、九鬼水軍を率いた九鬼氏の末裔で、江戸時代に商業に転じて栄え、製油業の九鬼産業グループを経営していた。四日市九鬼家の当主は代々九鬼
名古屋の北側でJR東海道本線と中央本線を東西に結ぶ東海交通事業城北線。線路は複線の高架橋ですが、日中は1両の列車が1時間に1本走るだけです。沿線人口は多いのにローカル線のようなのは、国鉄時代の「ルール」が影響していました。 1両のディーゼルカーが複線を走る 名古屋駅からJR東海道本線の下り普通列車に乗って、ひと駅先の枇杷島駅(愛知県清須市)で下車。ここから名古屋市西区を東に進んで11.2km先の勝川駅(愛知県春日井市)に至る、「城北線」という鉄道路線があります。運営しているのは東海交通事業。JR東海の子会社です。 拡大画像 城北線を走るディーゼルカー(2019年4月6日、草町義和撮影)。 2019年4月6日(土)、枇杷島駅から城北線に乗ってみました。ホームに停車しているのはモーターで動く電車ではなく、エンジン音を響かせるディーゼルカーで、1両だけ。客も10人くらいしか乗っていません。沿線の
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています 年配の方の中には、保健室でひざ小僧に塗ってもらった人も多いかもしれません。“赤チン”の俗称で知られる薬「マーキュロクロム液」が、2019年5月31日をもって日本薬局方(厚生労働大臣が定めた医薬品の規格基準書)から削除されます。2020年12月31日には「水銀による環境の汚染の防止に関する法律」によって国内での製造も規制される予定で、最盛期には100社ほどが生産していたという赤チンが、手に入れられなくなるのも時間の問題となってきました。 国内メーカーによる最後の赤チンとなった三栄製薬「サンエイ-S」 日本薬局方から外れた薬は現行の「日本薬局方」を記載したパッケージでは売れなくなり、あらためて承認審査を通さなければなりません。それでも2020年まで、マーキュロクロム液を局方外医薬品にリニューアルして製造販売し続けることを決めた製薬会社が
東京都北区王子の住宅街に、柵で囲われた廃線があります。踏切の跡や古びた鉄道施設が残り、巨大なマンションの前で途切れるこの線路、地域の移り変わりを物語る証人ともいうべき存在です。 紙が運ばれた「北王子線」 東京都北区にあるJR京浜東北線の王子駅より、線路の東側に沿って北へ歩いていくと、1本の線路が右前方へ分かれます。 拡大画像 JR東北本線(京浜東北線など)から王子の住宅街へ延びる廃線(2019年3月、乗りものニュース編集部撮影)。 戸建てやマンションが立ち並ぶ住宅街へと続く、この線路。雑草が生い茂り、いくつかある遮断機のない踏切には、線路内へ入れないよう柵がしてあります。つまり、もう列車が走らない「廃線」です。踏切を通過するクルマも、一時停止する様子はありません。 やがて線路は、マンションの駐車場前にある踏切跡で途切れます。また、そのマンション駐車場の先で、再び線路と踏切の跡地と思しき土地
戦後に開発された、国内最大規模の住宅地「多摩ニュータウン」。小田急電鉄の多摩線と京王電鉄の相模原線が乗り入れています。かつては西武鉄道の多摩川線も乗り入れるはずでしたが、中央本線のある問題により実現しませんでした。 西武多摩川線をニュータウンへ延伸 東京西部の稲城、多摩、八王子、町田各市にまたがる多摩丘陵に整備された、人口約22万人の大規模住宅地「多摩ニュータウン」。東京都心とは小田急多摩線と京王相模原線で結ばれていて、両社の競争が繰り広げられています。 拡大画像 多摩ニュータウンに乗り入れている小田急(左)と京王。ほかに西武も乗り入れる計画があった(草町義和撮影)。 しかし、多摩ニュータウンの構想が持ち上がったころ、西武鉄道もニュータウンに乗り入れようと考えていました。もし小田急と京王に加えて西武の「3社体制」だったら、競争はもっと激しくなっていたかもしれません。 東京都は1963(昭和
この道で2キロを超す車の渋滞が起きると想像した人は皆無だったに違いない。元号が平成になるまでは――。 1989年1月7日、岐阜県武儀(むぎ)町の税務課長補佐だった若田鉄三(てつみ)さん(68)は土曜出勤をし、新元号発表の会見を当直職員とテレビで見ていた。午後2時36分、小渕恵三官房長官が掲げたパ…
九州、北陸、北海道新幹線といった「整備新幹線」は、最高速度が260km/hです。ほかの線区では320km/h運転も実現しているなかで、なぜこのスピードなのでしょうか。「260km/h」に決まった経緯を探ります。 整備新幹線の最高速度より速くなった初期の新幹線 一気に60km/h、引き上げられることになるのでしょうか。JR東日本が東北新幹線 盛岡~新青森間の騒音対策工事を行い、5年後(2024年)をめどに最高速度を現在の260km/hから320km/hに引き上げる方針を固めたと報じられました(2019年1月14日付け朝日新聞東京朝刊など)。 盛岡~新青森間は、鉄道建設・運輸施設整備支援機構(鉄道・運輸機構)が建設してJRに貸し付ける、いわゆる「整備新幹線」として整備された区間です。1996(平成8)年に新青森までの建設が正式に決定されました。 岩手県二戸市付近を走るE5系電車。ここを含む東北
東京都交通局が運営している、上野動物園の懸垂式モノレールが消えるかもしれません。経営上は黒字ですが、過去にもあることが原因で存続問題が浮上したことがあります。なぜ維持が難しいのでしょうか。 経営上は黒字だが… 「日本初のモノレール」が存続の危機です。東京都の交通局と建設局は2019年1月23日、上野動物園(東京都台東区)のモノレールを11月1日から休止すると発表しました。 上野動物園モノレールの40形電車(2018年5月、恵 知仁撮影)。 上野動物園モノレールは、東園と西園を約1分半で結ぶモノレールです。全長はわずか0.3km。車両は1編成(2両)だけで、予備の編成はありません。 交通局によると、現在の車両(40形電車)は運行開始から17年が過ぎ、経年劣化が顕著に進んでいるため、法令で定められた検査の実施時期を迎える前に運行を休止することにしたといいます。休止期間中は電気自動車などによる無
三重県四日市市のぜんそく患者がコンビナート企業に勝訴した四日市公害訴訟の原告のうち、唯一の存命者だった野田之一(のだ・ゆきかず)さんが25日、気管支ぜんそくのため死去した。87歳。四日市市出身。自宅は四日市市塩浜2839。通夜は26日午後6時から、葬儀・告別式は27日午後1時から四日市市芝田1の5の31、四日市中央斎奉閣で。喪主は妹しづゑ(しづえ)さん。 野田さんはコンビナートの近くで漁師をしており、四大公害病の一つ「四日市ぜんそく」を発症。34歳で認定患者になった。1967年、患者8人と共にコンビナート企業6社を相手取り、大気汚染による健康被害の損害賠償を求めて津地裁四日市支部に提訴。支部は5年後の72年7月、判決で企業側の責任を認めて約8800万円の支払いを命じた。 野田さんは当時「判決で青空がすぐに戻るわけではないから、ありがとうの言葉は控えさせてもらう。青空が戻ったときにありがとう
時代に翻弄され最後には廃止された薄幸な鉄道路線「武蔵野競技場線」が、東京都内に眠っています。実働は約8か月間だけ。なぜ敷設され、なぜ短命に終わったのでしょうか。 三鷹駅から北へひと駅だけの支線 東京の新宿から15分ほどの所に、時代に翻弄された、不運な鉄道路線が眠っていることをご存じでしょうか。 拡大画像 三鷹駅西側の三鷹跨線橋から西側(武蔵境方面)を望む。保線車両の基地がある所が、かつての武蔵野競技場線跡(2018年12月、栗原 景撮影)。 それは、国鉄(現・JR東日本)中央本線の三鷹駅(東京都三鷹市)から分岐していた、通称「武蔵野競技場線」。中央本線の支線で、三鷹駅から北へわずかひと駅、全長3.2kmの路線でした。開業は、1951(昭和26)年4月14日。終点、武蔵野競技場前駅の横には、プロ野球球団「国鉄スワローズ」(現・東京ヤクルトスワローズ)の主催試合も開催された「東京グリーンパーク
「韓国がパクった」て話がネトウヨは大好きや。 日本企業かて海外の人気ブランドにインスパイアされた製品をたくさん出してるのにな。 ネトウヨはとにかく言いたいだけなんかもしれん。 「また韓国がパクりやがった!」 Gloster F.5/34(1937)とゼロ戦(1939)について。「本機(グロスター F.5/34)の外見は零戦とよく似ているとし、性能値に漸近した点が話題になることもある。」(Wiki)より。つまり、性能を追求した結果、両者の外見は近づきあったのではないかということやな。General Mills BUGLES(1965)ととんがりコーン(1978)について。ハウス食品は米国の General mills 社の技術提携を受けて、1978年にとんがりコーンの発売を開始した。Ducati Monster(1993)と Honda VTR(1998)について。ミゲール・A・ガルーツィと
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