ポストモダン的状況下でライバル達に差をつける記号は何? - シロクマの屑籠 以上のテキストで指摘した通り、昨今の日本では、音楽でライバルに差をつけるのはあまり効果的ではないと思う。果てしなく細分化された文化ニッチ内でどれほど高位を得たところで、同好の士以外にはたいした感銘を与えない。むしろ音楽なり文学なりに時間・金銭などのリソースを集中させてしまった事の裏返しとして、色々なことが疎かになってしまい、キモいだとか世間ズレしているだとか後ろ指を指される確率が高いかもしれない。特定のhobbyに対する高い造詣を持ちながらも仕事・恋愛・その他の文化などへの適応力を十分維持し出来ている男性は、いかにも女の子受けがよさそうだが、そんなスーパーマンはそういるものではないし、凡人には出来るものではない。たいていの人は、趣味への資源配分を減らすか、趣味の代償として生活や適応力を犠牲にするしかない。 この傾向
久しぶりにネット内の話題について言及したいと思うが、それはなんというかずっと気になっていたのだが、ネット上での文化に関する言説についてである。まあいわゆる中二病とか高二病とかいうやつで、定義とかはよくわかんないんでそこらのはてなダイアリーのキーワードをたどってみればいいと思う。というかもうすでに言葉遊び的なネタになってる感があるから、統一した定義なんてものは希薄であるとは思うが。 しかしなにから話そうか・・・と、まずは俺自身と文化の関わりについてちょっと書いておこう。 まあ話はやっぱ中学からなんだが、中二くらいから洋楽ロックを聴きはじめていた。わかりやすく中二病ってことなのだが、本人的にはごく普通に(つまり他人と自分との差異を強調するためではなく)聴いていたのだ。たぶん深夜ラジオを聞くようになって(嗚呼なつかしやミリオンナイツ)、ビートルズとか興味もって、ゆっくりと洋楽を聴きはじめたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/VanDykeParks2/20060226/1140888403 http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20060304/1141461766 基本的にあらゆる文化の価値観は人を馬鹿にすることでなりたっていると自分は思ってる。 あのムハンマドの風刺画問題で一つ勉強になったのはフランスには人を馬鹿にする権利があるということだ。宗教的なことがらについてもそれがある特定の集団(例えばイスラム教徒やキリスト教徒)ではなく、ある宗教の象徴(つまり十字架とかコーラン)をならば馬鹿にすることがゆるされるらしい。 まあ日本がそこまでの表現の自由があるべきか否かはとりあえずとして、その話から俺は人の趣味を馬鹿にすることはそんなに問題はないと思っている。というか自らの趣味の価値を信じるならば、そこに他の趣味としての上下関係はあるのは当然
昔の記事にトラックバックやらコメントやらでちょっとうろたえてますが http://d.hatena.ne.jp/shinimai/comment?date=20050620#c http://d.hatena.ne.jp/samurai_kung_fu/20050907 一回書いたエントリを間違って消した時点、まあこの話どうでもいーやなんて思ってたんですが、思っていたいじょうに誤解、誤読のされ方が激しいのではとか感じたので改めて書きます。まあ文章が誤読されたりってのは仕方ないと思うけど、自分は他人と議論で理解しあうのをあきらめない性格なんで。主張が違うこと自体ならいいけど、お互いに相手の主張を誤解しながら断絶するのはいやだから。 以前もネットラジオしているときに「お前の話は簡単に説明できることをわざと難しい言葉を使って、俺らを馬鹿にしている。」と言われて、困ったことがあり、さらにそれに対し
すでにブックマークの方で話題になってるネタだが、これ http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050623#musicsense 反射的に加野瀬さんとこにコメント書こうと思ったが、良く考えてるうちに結構難しくなった。だから今日は仕事しながら一日中考えてみた。 まず問題を分けて考えてみる。 第一に前提として挙げられている「音楽というのはセンス競争がすごく強力」というのが妥当か否かという点。 センス競争ってのはなんだってあるし、程度こそ違っても映画や絵画、マンガ、テレビの趣味とかにもあるだろう。でもその違いhttp://d.hatena.ne.jp/kasuho/20050623/p3が言ってるような規模の違いってことに片付けられないと思う。俺も漠然と「音楽というのはセンス競争がすごく強力」ような気がするし、気がするだけってような気もする(笑)が、気がするってのはやっぱ音
くらやみのスキャナー 猫型蓄音機 7inch専用 - わたしはそれが大好きです! 「美学」の喪失 by室井尚 この三つを並べて何をいいたいのか自分でも判然としないのだが、以前から文化に対する非常に素朴な感覚的判断を批判してきた理由をちょっと書きたいと思う。 中二病とか高二病とかの趣味の卓越化のメタ・ゲームはまあ最初は多分ネタというか冗談みたいのだけども、それを冗談として着地する地点は「まあ趣味による卓越化とかってくだらないよねー。結局聴いて良いと思ったもんがいいよねー。」というある意味、民主的な?相対論的立場なんだろうと思う。まあそういう意見も半分までもわかるし、そのような立場だってあってもいいだろうとも思う。 ところがある音楽の良し悪しの話をしている時に、その時代状況とか地理的な話、いわゆるムーブメントとかシーンを説明すると、とたんに怒りだして「そんなことはこの音楽の良さ(悪さ)とは関係
いい回文できたから、たまにはネット上の話題に拙い口を挟んでみる。 http://replica-love.jp/sayonana/archives/000493.html からはじまる一連のネット上の「酷評」に関する議論。 http://d.hatena.ne.jp/ozric/20050514 http://chiruda.cocolog-nifty.com/atahualpa/2005/05/post_6a98.html 悪口に反応して、はてなに良く出没する菊地成孔はAmazonのレヴューで悪口を書く人のところにもメール出すそうな。さすが、菊池だ!(笑) ともあれ上のネットでの「酷評」の議論はいまいちそれぞれの観点がかみ合わない感じがするので思うところを書いてみる。 まず批評と売り上げの問題。菊池成孔は「売上低下に直結するからやめて欲しい」と言っているが、ポピュラー音楽の世界で基本的に
前回は社●で勢いで更新したが、今回もカフェのネットの時間制限との戦いで勢いで更新するかも知れぬ。まあ続きが読みたいという声がごくわずかあるので書くとしよう。 「ジャンルはなんであれ、内容が良ければ良いよね」というか端的に「良いものは良い」という意見は、良く聞く言葉であるし、非常に素直な態度かもしれない。まあ「J-POPなんてだせぇよ」とか「日本のロックなんて偽者だ」と最初から決め付けるよりはそれはそれで健全な態度だと、俺も思う。(例がどちらも音楽になってるが、まあなんについても言えることだと思う。) だがその態度の元にある発想は「我々はある対象を(外部の文脈などとは切り離して)ただそれだけで評価できる」という本質主義なのだ。その対象がたとえば食べ物の味とかなら、まあ俺も同意できるといってよい。(とはいっても食べ物の味に対する我々の評価が社会的に構築されていないということは極めて疑わしい)
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