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議論と自分に関するNOV1975のブックマーク (18)

  • 主張が文脈に依存していないかをもやもや感と共に考えてみる。 - novtan別館

    難しい。自分が他者に要求する、今そこにある危機メソッドは他者に要求されるとき実感のある切迫感を伴わないから、否定しがち。これを温度差と評価してよいのか。 モヒカン的には状況依存な議論はする価値がなく、全て脇に追いやるべきなのかもしれない。一方で見えている危機をスルーすることを非人間的行為と見做す視線に耐えなければならない。 実は、というか当たり前のことであるけれど、実際に起きていることと、べき論とを同じ文脈の中でごっちゃに語ることは意味がない。いや、あるけれど、事に対しての態度が明らかになるだけで、議論の中身は進行しない。 僕がある脅迫を切迫感のある事実と受け止め、一方である誹謗中傷を大きな問題と捉えないのは見方によっては明らかにダブルスタンダードだけれど、もちろんそれは文脈の中においては一貫している。しかし、他人の文脈に踏み込むのに相応しい主張なのか。 そう思ったとき、自分の言論は限りな

    主張が文脈に依存していないかをもやもや感と共に考えてみる。 - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2008/02/08
    タイトルがっ…修正っ…/なお、いろんな方面で考えたので特定の議論を指すものではありません。
  • 意見が変えられない件について補足 - novtan別館

    どうも真意が伝わってない気配があるのであらためて。 僕が思っている事としては、議論そのものは大いにすべき、なのですが、意外と議論自体意味ないと受け取られている気配があります。論点はそこではなく、それを通して相手の根的な考えを変えるのは困難だと言うことなのです。価値観や思考の方向性が違う人の間で議論をするのはなかなか難しいですが、そこで浮き彫りになる事(考え方の差異とか)は議論として非常に重要です。そのような差異の溝を埋めていくのが議論の目的とも言えるのですが、お互いに譲れない一線に抵触したときに、それをどう扱うか、と言う所でこの問題が出てくるのですね。 あくまで相手の考え方を認めず、自分の見方で相手を解釈するのは、確固たる考え方をもっている人としては気持ちのいい行為かもしれないし、なんで分かってくれないのだろうというもどかしい気持ちかもしれないし、まあ色々あると思いますが、それは通じ合う

    意見が変えられない件について補足 - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/12/02
    ↓そそ、そうですね。どうしても相手の考えが自分の価値観に照らして正しいところまで変わらないと我慢できないみたいな人はいるものです。
  • 「人を殺すこと」と比較すること - novtan別館

    曰く、無断リンク禁止論はなぜ人を殺してはいけないかに類似している 曰く、著作権侵害*1は人を殺すことに匹敵する取り返しが付かないこと これ、気で言ってるの? 「大変な問題であること」を表現するのに「人の死」を持ち出すのは議論としては大変気持ちが悪いと思う。 極論としてこれが出てくるのはわからないでもないんだけど、それを言ったら人間の社会生活っていうのは全てそこに集約されて行って、議論にならない。とりあえず僕としてはなぜ比較するのかに対して心底納得の行く説明を聞いたことがない。その状態でこれを聞くというのは、一方的な道徳の押し付けにも思える。へたすりゃ校則レベルだよ。 そもそも、「人を殺してはいけない」ですら、社会の中で、常に適用されるものではない問題であるのに。 こういったものになぞらえないとその重大性を説明できないのであれば、それは質的には重大ではない問題だっていうことをかえって証明

    「人を殺すこと」と比較すること - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/09/14
    ↓あー、それははっきりしないといかんな。ちなみに著作権議論方面では結構いる印象。
  • 医療と訴訟の先に - novtan別館

    小倉先生経由で知ったのだけど、某弁護士のブログが小倉先生曰くの医療従事者によるコメントスクラムに襲われているらしい。 訴訟があるから医師が減るという事実から目を背ける積もりはない。しかし、訴訟を減らす努力は、訴訟した人たちを、バッシングすることであってはならないと思う。もっと他に方法が有るはずである。 当に気の毒な事案があるのも事実なのである。 コメントを送ってこられた方たちは、一生懸命頑張っておられる人たちなのだろう。しかし、杜撰な医療行為をしている医者や病院があるのも事実なのである。そういうところで発生した医療過誤について、被害者は、どうすればよいのだろうか?杜撰な医療をしている病院や医師はまったくいないと言い切れると考えておられるのだろうか? http://machiben-nikki.at.webry.info/200708/article_1.html 通常の業務をしているだけ

    医療と訴訟の先に - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/08/29
    ここで一人炎上遊びでもやってみようかしら。
  • 俺の考えるルールと俺ルール - novtan別館

    もう一つ。 「俺の考えるルール」の正しさについて語ることはよいと思う。それは明確に他人に影響を与えることを目的として書かれていて、また、その人が人の意見を参考にすることがある人であれば、そのルールは進化しうるものになるし。 いわゆる「俺ルール」同士の正しさの度合いについて語ることは、それほど意味は無いと思う。あえて度合にしたのは、「俺ルール」って絶対的には正しい正しくないの判定はできないから。自分にとって正しいものであるから、もし、その正しさを語るとしたら、何か別のルールに対する相対的なものにしかならないはず。「俺ルールはこうなんだよ」「でも俺ルールでいうとこうなんだ」「でもお前の俺ルールより俺の俺ルールのほうが明らかにいいだろ」みたいな感じ?ちょっと違うかも。 繰り返すようだけど、否定にしても、肯定にしても、対象そのものについての議論はすべからく有用と受け取るべし、と思ってる。そこの境界

    俺の考えるルールと俺ルール - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/06/30
    kameda007さん、言いたいことがわかりました。議論か議論じゃないかをわかってない外野も、当人たちもわかってないこともありますね。なんでもが議論である必要はないと僕も思います。あくまで議論に対してってことで
  • はてブを読んだ人がエントリにどんな感想を抱くかなんてどうでもいい - novtan別館

    ほんとどうでもいい。むしろ集客に感謝する。馬鹿とだけ書いてあったときに、それを読んだ人は「どう馬鹿なのか見に来る」か、あるいは人の言うことをすぐ信じて「見る価値が無いと判断する」か、どちらかだろう。間違いが指摘されているようでその実その指摘自体が間違いであった場合は反論しなければならないかと言うと、それを鵜呑みにする人のリテラシーなんて大して期待できないんだから無駄な労力の可能性がある。つまり、反論しても正確に読んでもらえることがあまり期待できない。自分の論に確かに反論の余地があり、それに対する再反論を提示できるのであれば、そのコメントは単なるきっかけとして、論を進めることができる。人に対しての反論をする必要は無い。 はてブコメンター(コメントをしないブックマーカーもいるのであえてコメンターと)自身、単に言い放っているだけのようで、実際にはわりと厳しい評価に晒されている。はてなダイアリーを

    はてブを読んだ人がエントリにどんな感想を抱くかなんてどうでもいい - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/06/17
    念のためですが、僕が僕のエントリについたコメントに対してどう思うかと言うのは別の次元の問題。それを見たほかの人がどう思うかを気にしてコメンターに文句を言うつもりはありませんということで。
  • 典型的な噛み合わない議論の原因 - novtan別館

    何について論じているのか一方あるいは両方の当事者が理解していない 論点についての提示が無いのにいつのまにか議論らしきものに レトリックをレトリックとして認識していない 現場の人間が言っているんだから絶対正しいという現場が実は特殊 全く違う観点について話しているのに用いているアイテムが一緒 一方の目的が事実を明らかにするのではなく、相手を否定すること 一方の目的が論理的に勝利するのではなく、倫理的に勝利することまたはその逆 論点が一方の倫理に抵触する 自分が正しいことのみを主張したい来訪者 クリリン

    典型的な噛み合わない議論の原因 - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/06/04
    ちなみに、4番目と9番目のあわせ技の議論をみてウンザリしたので書いてみたのです。
  • 議論と対話とエントリと - novtan別館

    僕の書くエントリは基的にネタです。ネタと言っても「ネタでしたー。釣られた人乙!」っていう話じゃなくて、話の種として。僕が僕の考えをアウトプットするのは、もちろん考えたことを伝えたいという思いがあってですが、自分ひとりでは考えが及ばないところを更に深めて行きたいと言う意図もあります。僕はプロの思索家でも批評家でもありませんから、自分の考えのみを信じ、それを普く伝えることが使命だとは思っていません。 なので、当然その不完全な考えかた、不完全な文章に、反発・反論がなされる、あるいは既に尽くされている議論を提示される、そのようなことは普通にあると考えていますし、特に反発に対しては、そこから新しく何かが生まれる可能性があれば、なんとか拾い上げて行きたいと思っています。 このブログの主たるid:NOV1975という仮想人格の、それが芸風なのです。コメントしていただく方、特に他の人の感情的なコメントや

    議論と対話とエントリと - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/05/18
    例のエントリのコメント欄から引用。いつも上手くいくとは思わないけど、こういうスタンスで接したいです。少なくともこの世界の中では。↑いつもは過激じゃないすよ(笑)。罵倒が来ても対話の可能性を探りたい。
  • novtan別館 - カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人は今すぐ自殺したほうがよい コメント欄

    追記:いきなり追記ですが、タイトルは煽りすぎでした。が、タイトルへの違和感を中心としたトラバがついてしまったので変更しないでおきます。文内では「考え直した方がよい」くらいの話になっています。追記終わり。 たまたまb:id:Marco11のとこで特集wしてたんで、言及しとく。 僕は大学では心理学を学んだ。まあ、いわゆるモラトリアムと言う奴だ。そちらの道に行くつもりはなかったし、完全に興味位。しかもうちの大学は完全に実験系で、当時は臨床の教授もいなかったくらいだから、当然臨床心理士とかカウンセラーとか、そっち方面は関係ない。それでも、ちょっとは臨床のことを学ぶわけだ。発達も行動もやるしね。そこで知ったことは、人の心のあまりの脆さと言うもの。ガラスのハートっていうけど、繊細じゃなくても砕けない心なんてないよ。もし砕けないように見えたらきっとその心は既に崩壊しているに違いない。 恐ろしいものを

    novtan別館 - カウンセラーやりたいって軽い気持ちで言う人は今すぐ自殺したほうがよい コメント欄
    NOV1975
    NOV1975 2007/05/16
    ↓力になるってのは病院連れてくかどうかジャッジするくらいのことね。素人カウンセリングしないでね。約束だよ。↓悩みを聞いてあげることはよいことです。外的要因なら解決してあげられるしね。
  • 土俵の件、補記 - novtan別館

    ひとつ気になるコメントがあったので補記 2007年04月24日 kmizusawa お作法 議論したいわけでもないのにその話題に言及する人に対する批判だと思って読んだが、議論したくない人は「これは感想です」って書いといたほうがいい? それとも感想じたい言ってはダメ? その点に関して言うと、あまり上手く書けてませんが、両方の態度において、いうなれば「空気読めてない」というところがあるよね、ということを言いたい部分があります。単に感想を言っている人のところに降りて行ってわざわざ叩きのめしたり、周辺の議論を吸収して今まさに議論を哲学に昇華しようとしているところに昇って行ってわざわざ程度の低い話をしだしたりすることは、自分のステージを見極めていれば避けられるはずで、それは上の人も下の人も同じということです。いや、上下なんてないといえばないんですが… 僕の持論としては、ただの感想であっても公開するこ

    土俵の件、補記 - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/04/26
    そのへんは難しいですよね。こちらから突っ込むことがなくてもあちらからやってくることもあるし、なんとも。予防線をはっても来るときは来ちゃいますしね。それこそスルー力が大事な気がします。
  • 議論という土俵 - novtan別館

    土俵の上で試合をするためにはそれ相応の実力と資格が必要になります。しかし、ネット上での議論の土俵において、そのことが意識されないことによる悲劇が良く起こります。 横綱の仕事というのは稽古ならともかく、勝負の場で序二段をちぎっては投げ、ちぎっては投げすることではなく、幕内の格下の力士を堂々と寄り切ることであります。そもそも仕組み上それほどの格差がある者たちが戦い続けるようなことは出来てはいけないし、すべきことだと思う方がおかしい。弱いものをなぎ倒すのではなく、実力の拮抗するもの同士で戦い、勝ちあがっていくことで実力を表明するわけです。もっとも、はじめから横綱級の実力があってもいちばん最初は下から駆け上がるという行為をする必要がありますが。 さて、そもそも入門できない人たちがいます。草相撲は取ることが出来るものの、国技館の土俵に上がるのは許されない。しかし、ファンとして相撲にけちをつけることは

    議論という土俵 - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/04/22
    結構言葉が足りないと思って色々書き加えたんだけど、その観点は忘れてた。うまく書ければあとで書いておこう。
  • 下手な反論は相手を補強する - novtan別館

    反論が反論になっていないとき、それを論破するのは非常にたやすく、論破されたことで元の論が正しいのではないかという印象を与える。 A⇒Bである いや、A⇒Cじゃね? A⇒Cであることは〜のためありえない。よってA⇒Bである A⇒Bである A⇒Bじゃないのは〜の理由で否定できる 〜の理由は正しくない。よってA⇒Bである A⇒Bである でもB⇒Aじゃないよね A⇒Bは成り立つがB⇒Aが成り立たないのは自明である。よってA⇒Bは否定されない etc... 「よって」の部分はもともとの主張にはない部分であるから、反論があることによってかえって補強材料が生まれた、と言えるのだろうか。よく見ると、この「よって」は全然元の論を補強する根拠になってはいないのだけれども、一見反対論者が論破されたように見えることによって元の論が(よく読めてない野次馬に)あたかも正しいかのように受け取られてしまう可能性があること

    下手な反論は相手を補強する - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/03/01
    ↓わざと隙を見せて相手を誘い込むというのは確かに有効な手段かもしれませんね。けれんは正攻法には弱そうですが、正攻法って大変ですしね。
  • 原則論に拘泥する人は本当に原則論のみを正しいと思っているか - novtan別館

    そんなわけないですよね。ケースバイケースという言葉を全く排除してしまうことはそうはありません。理念と運用は別だ、とおいてから理念について語り、また運用をできるだけその理念に近づけるというのが現実です。だから、原則論というのは大抵の場合、(比喩的な意味の)哲学という言葉に置き換えることができます。 ところが原則論を相手にしたとき、ついついその部分を忘れて重箱のすみ的な反論を行い、議論を台無しにしてしまうということがあります。そんなことは原則を唱える人だってわかっているのです。だからといってその運用のところはある意味妥協でありますから、原則の中に含有させることはできません。原則論にそういった反論を試みる場合、「運用できないから間違っている」と言っているのとあまり変わりがありません。運用は別だってわかっているのに。 もちろん、原則に対する正当な反論はあってしかるべきです。変化する状況に応じて運用

    原則論に拘泥する人は本当に原則論のみを正しいと思っているか - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/02/10
    ↓まーそうなんですけど、実際の場面では批判したいから細かい点のみを突いてくる、てことのほうが多いかなあ、と思って。
  • 実名論者が求めるものと匿名論者が求めるもの - novtan別館

    この二つの立場において、特に過激な立場を取る人においては建前と音(あるいは必然的に発生する効用)が正反対になることが多いように思います。 実名であるべき論 建前:実名であることで、根拠のない*1誹謗中傷などを無責任に行うことを防げるし、行われたときに訴える相手が明確 音:実名であることで、社会的地位や実名が持つ実績による議論の前提的力関係を強く維持することが出来る 匿名であるべき論 建前:議論はその内容のみで評価されるべきであるから、当人の社会的背景などのバイアス無しに純粋な議論が出来る 音:罵倒して怒らせても最悪消して逃げればいいや。キな人に絡まれてもこっちが消えればよいのだし もちろん、純粋に音の部分だけで主張している人もいると思いますし、全部が全部これに当てはまっているとは思いません。が、この二つのべき論は議論の質においては全く意味を成しません。内容を評価するのであれば、そ

    実名論者が求めるものと匿名論者が求めるもの - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/02/10
    「本音と建前」という対立構図はあまり良くなかったかも。どっちも本音にも建前にもなりうるわけですし。直接対立しない、次元の違う観点で反論して泥沼、ってな構図を表現したかったけど評価がはいっちゃったな。
  • 健全の反対は不健全か - novtan別館

    某発言は考えるきっかけに過ぎず、ここではその内容には関係ない議論をしたいと思います。 通常、何かを健全だと言うときは「来あるべき姿」を思い浮かべていることが多いと思います。ここで言う「あるべき」という思い自体が既にある特定の思想における価値観であることは感覚的に分かると思います。とするとこれは絶対評価であって、その思い描いた「健全」ではない状態のことなんか頭の片隅にもありません。単に「健全」と思いたいことが何であるかの表明なだけです。健全とは機能が上手く動いている状況ですから、色々な切り口で色々な健全さを示すことが出来ます。 じゃあ、その思い描いた「健全」に合わないものが「不健全」かと言うと、必ずしもそう思っているわけではないことが多いと思います。そのことを考えていなかっただけに過ぎないわけです。ただ、健全という言葉のニュアンスが、相対的に優れていることを示すように思えるということが対義

    健全の反対は不健全か - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/02/08
    ちょっと追記してみました。
  • 言葉の使い方に拘泥しない - novtan別館

    論旨について議論したいのに、言葉の枝葉末節を捉えて全体をも否定する議論となってしまうことはままある。非常に勿体無いと思う。ときに、指摘された方も逆切れし、完全に話が逸れてしまう。ときに印象操作といわれる。全体を見回してみれば決してそんなことを言っているとは思えないのに、ただその一点のみが非難の対象になる。 言葉の選択を誤ってしまう事は結構ある。例えば、それが社会に対して責任のある立場であれば、言葉の取捨選択を出来なかった時点でその責任を一部果たしえなかったと言って非難の対象になるのはある程度仕方がないことだと思う。気で言っているのでなければ速やかに謝罪し、議論を元の位置に戻すべきだ。気で言っているのであれば思う存分非難しよう。 最近の一部の議論を見ていると、指摘する方も意味がないと思うし、指摘される方もそんなところで受けてたたなくても良いのに、と思わせる反応をしている。やっぱり勿体無い

    言葉の使い方に拘泥しない - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/02/08
    ちなみに、書いたきっかけは「健全」ではなく「捏造・誇張」のほうです。
  • 議論がこじれた場合の心がけ - novtan別館

    とりあえず箇条書きにて整理中メモ。こういうことを考えなければならない議論はあまりしたくないけれども、避けられなくなったときに足元をすくわれないための確認ポイントとして。 自分がしたいのは、議論か考える 自分の主張を押し付けたいだけじゃないのか 相手をバカにしたいだけじゃないのか 相手のしたいのは、議論か考える 電波を発信しているだけじゃないのか こちらをバカにしたいだけじゃないのか 証拠を出せ!と言う前に考える 自分は相手の今まで提示したものを客観的に評価したのか ロジックの間違いを指摘するのに張り切るあまり、評価すべき点を切り捨てていないか 証拠ではないものを証拠と言い張られたときに、何故証拠にならないか説明したか 相手のソースを吟味せず否定していないか 既に相手のトリックに引っかかっていないか 証拠を出せ!と言われたら考える 今まで出してきたものについて、客観的に評価できるものであるか

    議論がこじれた場合の心がけ - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/01/11
    いくつかの指摘、ありがとうございます。しばらく継続して追加・修正してみたいと思います。
  • 本来の議論において、実名も匿名も関係ない - novtan別館

    議論と運動 「死ぬ死ぬ詐欺」問題をはじめとする匿名言論卑怯論は2ちゃんねるという環境の中で醸成されてきたいくつかの空気に対する反応ではないかと思っています。つまり、単に匿名というだけではなく、それに「数の暴力」が掛け算されたことによって起こる現象がどうにもなあ、という話なんじゃないかと。 これはどういうことかというと、以下のような話なんじゃないかと思います。 感想レベルの稚拙な意見であってもそれが共感を呼べば正義と化すことで、まっとうな意見を言っても工作員呼ばわりされたり人乙と言われてしまったり。もちろん、質を突いていることもありますが、どちらも仮説でしかないのに、個対多の戦いになってしまうことで客観的ではなく主観的に、すなわち数が多い方が合理的かどうかは問わず優勢になってしまうことがままあります。ある仮説が優勢になると、その裏を取ろうとする動きが始まります。公と私の微妙なラインまで踏

    本来の議論において、実名も匿名も関係ない - novtan別館
    NOV1975
    NOV1975 2007/01/08
    長いかあ。もうちょっと整理して書かないといかんですね。言いたいことはまとめのところだけではあるんですが。
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