ブックマーク / mojimoji.hatenablog.com (4)

  • 「十分/不十分な住居」への権利 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    ちなみに自立支援施設について、個室ではないという「プライバシー」は理由にならない。誰しも困難なときは一時的にせよ我慢することだからだ。プライバシーを理由にする人には知っておいてもらいたいことだが、経済的に苦しいとき、一時的に居住をシェアする人は国内外に多数いる。ルームシェアリングを紹介するホームページも存在する。10代20代の若い世代でも利用する人は多い。もちろん複数の他人同士が暮らすわけだから、共通の決まり事や規則を設けているのが一般的だ。 大阪市による行政代執行@ツジカド*1 このエントリには他にも突っ込みたいところはたくさんあるのだが、さしあたりこの引用部に限定して考える。二つ述べる。 「十分な住居」への権利 まず、プライバシーの権利の位置づけについて。結論から言うと、プライバシーの権利は「十分な住居」を構成する重要な要件の一つであり、それを我慢せよ、と言いえる根拠は(少なくとも国際

    「十分/不十分な住居」への権利 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    PAGZIN
    PAGZIN 2011/08/20
    「自立支援の基本は、自主決定の支援であり、ゆえに選択肢を用意して選ばせることが基本である」「(プライバシーの権利を含む)十分な住居が、その人の収入や資産と無関係に無条件に与えられるべき」
  • 「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。 『悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリムは表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があのに冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ

    「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    PAGZIN
    PAGZIN 2011/06/16
    『「それはヘイト・スピーチだ」という批判がなされてきたのだ。それに対して返されるべきは、「ヘイト・スピーチではない」という応答のはずだ』
  • バブル・金融危機・再分配 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    そもそも何が起こったのか。「反リフレの経済学」とも関連しますが、簡単に解説します。それと、そのときに予告した「処方箋」の話、もっとちゃんと書こうと思ったのですが、余裕がないので、この記事の末尾に簡単に書きました。 金融緩和とバブル 金利引下げは、「現在の支出を有利に、将来の支出を不利に」することで、現在の実需を増やそうとするものですが、そう簡単にはいきません。そもそもいらないものは買わない。足りている人は買わない。それよりは、「何があるか心配」だから、お金を取っておく。そのため、金融緩和で増えた資金がどこへ行くかといいますと、有価証券などのストック市場に流れ込み、そこでの価格上昇をもたらします。すると、価格上昇が、それらの有価証券の投資先としての魅力を高め、さらに資金が流れ込みます。これがバブルです。こうして実現した高い株価や地価が、企業や家計に対しては「資産が増えた」という認識を生み、そ

    バブル・金融危機・再分配 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    PAGZIN
    PAGZIN 2010/08/21
    概ね同意。累進課税の所得税はビルトイン・スタビライザーと言われているし。/再分配を目的ではなく手段にしてる点ではてサ受けが悪そうな気がした。
  • 「表現の自由」再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    表現規制の話で。 表現規制において踏みにじられる個人の表現の自由と表現の自由において流通するヘイトスピーチ*1に踏みにじられる個人の尊厳に関わる自由とで、どちらかを優先すべきとするアプリオリな序列づけはできない。まず、このことは大前提。このことを踏まえない議論は全部ダメ。 両方の自由に等しい重みを与えようとするなら、目指されるべきは両方の自由であり、そのためには表現の自由だけでは絶対に足りない。仮に、表現の自由自体には制限を加えないのであれば、両立のために「表現の自由」を使うこと、すなわち「ヘイトスピーチに実際に反対すること」が必要である。それも、そのターゲットになる人たちが十分な安心感と尊重が感じられる程度に大きな規模で。 つまり、(誤解したがる人が誤解するだろう表現を使うならば)、表現の自由はある種の義務を伴わざるをえない。ただし、この義務は、果たされなくても罰せられることのない義務で

    「表現の自由」再論 - モジモジ君のブログ。みたいな。
    PAGZIN
    PAGZIN 2010/08/06
    「表現の自由を広く取った上で、他者を攻撃する表現に対する自発的批判が十分になされること、それによってヘイトスピーチが無力化されること、そちらの道の方がずっと望ましい」
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