気づきと歴史に関するPuHaのブックマーク (16)

  • 東條英機 - Wikipedia

    1884年(明治17年)12月30日[注釈 1]、東京府麹町区(現・東京都千代田区麹町)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)の東條英教、母は小倉市出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。 東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷(現・千葉県鴨川市東条地区)の土豪で[8]、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である(知行は160石[9])。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。 青年期の東條 番町小学校、四谷小学校、学習院初等科(1回落第)、青山小学校、城北尋常中學校(現:

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    PuHa 2011/05/02
    東條総理を「怪物的な独裁者」とみるステレオタイプというか方便に惑わされてた。テロリストの指導者でもなんでも立派な考えをもってやってる場合が大多数だ。後から見て失敗と結果を評価されるかもしれないが。
  • フィナンシャル・タイムズ曰く、鳩山首相は普天間飛行場問題に歯を食いしばってチバリヨー: 極東ブログ

    鳩山首相が、4日、普天間飛行場撤去に伴う代替基地の沖縄県外移設公約を反故にし、前自民党政権による辺野古移設の修正案を飲み、沖縄県民に謝罪の一泊珍旅行を行ったが、これを世界はどう見ていたか。フィナンシャル・タイムズが早々に「Hatoyama’s retreat(鳩山の撤退戦)」(参照)の社説を上げていた。概ね、鳩山首相に好意的である。私の感想としては、フィナンシャル・タイムズの視点は、これまでの私の考えによく似ていて好感ももった。 なぜ鳩山首相はこのようなヘマな事態に陥ったか。フィナンシャル・タイムズは責任が鳩山首相にあることを明確にしている。 Predictably, this is an entirely self-inflicted wound. Mr Hatoyama courted popularity during the campaign by promising to loo

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    PuHa 2010/05/08
    移設先の名護市民の方々に伏してお願いする。それしかできないけれども。
  • 朝日新聞社説 沖縄県民大会―基地を全国の問題として - finalventの日記

    相手のある交渉事をすべてガラス張りにすることはできない相談だろう。しかし、首相は迫る期限に追い立てられ、苦し紛れの対応を繰り返しているようにしか見えない。 もはや時間は限られている。「県外」への道が開けなければ、当面は沖縄に負担を担ってもらわざるをえなくなってしまう。 首相は今、全国民に一度きちんと説明すべきである。県外移設にどう取り組んできたのか。安全保障上の要請と基地周辺の住民への配慮との接点を、米国とどう話し合ってきたのか。今後の沖縄負担をどう考えていくのか。 でないと負担を国民全体で分かち合おうとの提起さえも色あせてしまう。 朝日新聞はどうお考えですか。 県外移設説得のキャンペーンを張っていただきたいものですが。 ご参考までに⇒衆議院会議録情報 第140回国会 日米安全保障条約の実施に伴う土地使用等に関する特別委員会 第5号 ○野中委員長 この際、案に対し、鈴木宗男君外五名から、

    朝日新聞社説 沖縄県民大会―基地を全国の問題として - finalventの日記
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    PuHa 2010/04/26
  • こういう歴史もあるんですけどね - finalventの日記

    と、ウィキペディア⇒済州島四・三事件 - Wikipedia 済州島四・三事件(チェジュド(さいしゅうとう)よんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。 ちなみに日の独立は1951年。このあたり、どうも若い人と話していて、れれれ感があるけど、敗戦の45年から6年間日ってなかったんですよ。 流刑地だったことなどから朝鮮土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日統治時代の初期に朝鮮から日に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが

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  • この問題はちょっと錯綜するかな - finalventの日記

    先生⇒やはり村上陽一郎がおかしい - を償うにをもってせよ バカも休み休み言うがよい。だいいち、ビザンツというのはヨーロッパではないのかね。古代ローマ帝国の版図は、現在のヨーロッパ南部から、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキアまで広がっていたのであり、西ローマ帝国が亡びても厳然として東ローマ帝国はあったのである。「12世紀ルネッサンス」なるものは、西ローマの版図であった地域のフランク王国という、いわば当時はヨーロッパの辺境になりつつあった土地で、アリストテレスの文献がアラビア語から翻訳されたというエピソードに過ぎず、「ヨーロッパ人はギリシアの存在を知らなかった」などというばかげたことがあるはずがないのだ。むろん、プラトンにしても、ネオプラトニストたちによって伝えられた像しかなかったが、ではカロリング・ルネサンスは何だったのか。しかも村上は「ギリシア」だけでは物足

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  • 毎日社説 社説:沖縄戦学習 力合わせ実りあるものに - 毎日jp(毎日新聞) - finalventの日記

    沖縄戦は実際に現地で自分で調べた範囲ではかなり重要なことが依然わかっていない。古老の証言からは、通説と違う証言もある。 部分によっては右派左派にとっても都合の悪いさまざまなディテールがあり、こうしたイデオロギー的な枠組みをいったん除いたほうがいいと思うのだが、そうもいかないのだろう。 学童疎開船「対馬丸」撃沈の惨劇。そして今の中学、高校生の年代に相当する男女学徒らを「鉄の暴風」と呼ばれる戦場に動員した沖縄戦は、学校教育の場で児童生徒の心をより深くとらえ、考えさせる。 一般住民を巻き込み、犠牲を強いる総力戦。土決戦準備のための時間稼ぎをする「捨て石」とされた沖縄戦は、最後は住民も見捨て、集団自決にも追い込んだ。さらに戦後の米軍統治、復帰後も続く広大な基地の圧迫。今もあの戦いの延長上に沖縄はある。 対馬丸には以前少し触れた。 ⇒極東ブログ: 対馬丸メモリアルデー このころはまだ自分は沖縄生活

  • 団塊世代ちょっと下、1957年生まれの俺が通りますよ。 - finalventの日記

    ⇒団塊世代がいいとは思えないこれだけの理由 - タケルンバ卿日記 ぶくま⇒はてなブックマーク - 団塊世代がいいとは思えないこれだけの理由 - タケルンバ卿日記 団塊世代ちょっと下、1957年生まれの俺が通りますよ。 仕事が多種多様でしかも豊富 でも大半の労働環境は劣悪だったし、ほとんど非人道的という状態でしたよ。現代からあまり想像がつかないのは農家とかの嫁のシャドーワーク。「奴隷」という言葉が適切かもな状況。 低学歴から高学歴まで学歴に関係なく幸せを勝ち取ることが出来た 高学歴というのは実際には少なかったですよ。で、そのなかでサヨクは実はモテでした。乱交に近い感じ。 就職さえ出来れば終身雇用が約束された 当時も終身雇用制は全体からは低かったと思いますよ。 女が男を支えた それはそうかも。だからひどかったんだけど。 高度成長期でもありあらゆる分野での国家支援があった これはそうかな。それが

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  • テーラーカスカベ / シャツの下のシャツ

  • 「誕生日」を祝おう - H-Yamaguchi.net

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    PuHa 2007/05/05
  • 太平洋戦争中の食生活は?

    この時期の人々は既に高齢化しています。 私が昭和8年,1933年生まれ、戦争の終結が昭和20年,1945年。現在68歳 戦争の前線に出た人々は70歳を越えています。 私の体験は小学生の2年から6年まで、この間の体験は到底このようなところで 総てを書くことは不可能です。 育ち盛りの年齢、最後にはべ物の話になります。 生活していた場所、環境により違いはありますがことべ物については農村が 有利でした。 粟、稗こそべませんでしたが、大豆の絞り粕、小麦のふすま、かぼちゃ、 薩摩芋、干し杏、大麦、等が主の座を占めたことも有ります。 白米のご飯と梅干は最高のご馳走。肉などお眼にかかることも有りませんでした。 総ての生活物資は国の統制下、一人にどれだけかの割り当てが有りましたが、 戦争末期になるとこの割り当ても有名無実でした。 履物、衣類も総て同じ、年々大きくなる子供は履物には苦労しました。 右左

    太平洋戦争中の食生活は?
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    PuHa 2007/03/13
    回答1さん。「日本の大中都市に暮らした人々の殆どは爆撃の恐怖を体験し、衣食住総てで」
  • 青春の考古学 - finalventの日記

    ⇒青春万歳、へっ? 16:34 : 南無の日記 終風氏の団塊への憎悪や羨望はどこから来るのだろう。また、いつも何故こだわる必要があるのだろうか。 南無さんの言わんとするところはわかるし、それなりの言説の振る舞いも可能なのだが、この問題は微妙に簡単ではないというか……そこが難しい。 私の世代つまり、S32年生まれという世代は、早熟な子供はすべて団塊世代を見ていた。この見ていたというのは、団塊世代の親の世代に対して、子たるべき団塊世代という構図を見ていた。親の世代とは戦争であった。団塊世代とは戦後であった。そして、その双方が摩滅して消滅した荒土が私の青春だった。 ビートルズの音楽を聴くと吐き気がする、という感情は、どのように伝えたらいいのだろう? というか、その問いの設定がどう聞こえるだろうか。 そして、私の世代から下の世代は、ビートルズの解体のリアルを知らずに伝説を生きてしまった。ジョンレノ

    青春の考古学 - finalventの日記
  • http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C111252006/E693499669/index.html

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    PuHa 2007/01/30
    コメント欄「自分に都合の悪い情報から目を背けようとする傾向」「正しいことだと信じて読む純粋な人たち」
  • 東国原英夫宮崎県知事: 極東ブログ

    タレントそのまんま東が宮崎県知事選で当選したのには驚いた。この選挙に関心がないせいか泡沫候補ではないかと思っていたからだ。蓋を開けると大勝である。今日付の朝日新聞”宮崎知事選、そのまんま東氏が大勝 自公推薦候補ら破る”(参照)より。 宮崎県知事選は21日投開票され、無所属新顔のタレント、そのまんま東氏(49)=名・東国原英夫(ひがしこくばる・ひでお)=が新顔4氏を破り、初当選を果たした。官製談合事件に絡む前知事の辞職に伴う出直し選挙で、県政の信頼回復が争点になった。東氏は特定の政党や団体の支援を受けず、「しがらみのなさ」を強調。圧倒的な知名度を生かして無党派層や各党の支持層から幅広く支持を集め、政党の支援を受けた候補らを大差で破った。任期は同日から4年。投票率は64.85%で、前回03年7月の59.34%を上回った。当日有権者数は93万2127人。 投票率アップにそのまんま東立候補の影響

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    PuHa 2007/01/24
    談合事件とかゼネコンとか、そのまんま東と前の東京都知事とか、歴史の墓標的な味わいをかってに感じちゃうわけです。
  • バブルという時代を思い出す: 極東ブログ

    日経新聞のコラム春秋の今日の話題がバブル時代のことだった(参照)。枕はホイチョイ・プロダクションズの来春の映画「バブルへGO!!~タイムマシンはドラム式~」(参照)である。 800兆円まで膨れ上がった債務に悩む財務省が秘策の発動を決断した。極秘裏に完成させたタイムマシンで1990年の日に女性工作員を送り込み、バブル崩壊を阻止するという。しかし好景気にわく東京を初体験した彼女は浮かれ気分に取り込まれ……。 公式サイトの釣りはこう。 街中が浮かれ、踊っていたバブルの絶頂、狂乱の1990年3月の東京を舞台に、当時のファッション文化、風俗を満載! 人類史上最もハイテンションだった時代の男女が織りなす、底抜けに明るくノー天気で、恋愛あり、活劇あり、親子の絆ありの、グッとくる王道エンターテインメントを壮大なスケールで、笑いいっぱいに描きます!! あの時代を映像で見るだけでもなんかすごいものがありそ

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    PuHa 2006/11/27
    バブルという時代の感想。
  • 深町秋生の序二段日記

    「あの頃のこの国は美しかった。希望があった」 などと妙にうっとりする年配の方々を見ると「その美しい思い出と一緒にさっさとくたばれよ」と生きながら焼却炉に放り投げたくなるのだが、でもまあその気持ちもわからなくもない。美しい時代は確かにあったと思う。それは1950年代などではなく、80年代から90年代初め。もうバブル全盛。この頃の日がぼくにとっては美しい国であった。間違いなくマブかった。 その頃の日の激マブ度については、むしろ日人よりもアメリカ人のほうがよく知っているような気がする。世界の三船と島田陽子が出演していたアメリカのTVドラマ「ショーグン」(戦国時代にイギリス人航海士が日にたどり着き、日の武将に気に入られて乱世を生き抜くという、ラストサムライの元祖みたいなドラマ)が80年に爆発的な人気を博し、そこからアメリカで日ブームに火がつくのだが、それはアメリカ人の憧れと恐怖と憎悪を

    深町秋生の序二段日記
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    PuHa 2006/11/23
    エッセイだ。ギガンティックトウキョーなんて言葉が浮かぶ私はもうダークウィスパーのマニア。
  • 「クジラをおかずに、あっという間にご飯三杯」(小泉武夫)‥‥ホントにお止めになった方がいい!

    今晩の日経「あれば楽あり」コラムで小泉武夫さん。クジラはうまいと牽強付会されているが、無理があるように思う。また、ご自身も健康診断を受けられた方がいい。 クジラは小さいときにしょっちゅうべた。それしかタンパク源はなかったから。給 は言うの及ばず、学校から帰ってからのおやつもクジラのベーコンを挟んだサンドウィッチだった。当時はこれがとても美味しいと思った。でも、懐かしいなぞ とは全く思わない。これしかべられなかった悲しい時代を思い起こすだけだ。 た まにイナカからおばあさんがやってきて、その度に風呂敷いっぱいの料品をもらった。戦後の都市部には料がなかったから、とてもうれしかった。ある時ウ グイのみそ焼きをたくさん持ってこられて、こんなにうまいものはったことがないと大喜びで皆してったものだ。おばあさんは、イナカではあまり珍重され ない魚だけれどと、なんか都市住民を気の毒がってお

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    PuHa 2006/11/10
    伝統的には「特殊な地域は別としてクジラなんかは食わなかった」らしい。へぇ、だから食べ出したからクジラの数が減ったのか。って常識か。
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