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はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
「科学的」を理由に物事を信じることに意味はあるのだろうか? 一般人は科学者でもなければ研究者でもない。 現実に対して、そんな厳格さを求める理由はないんじゃないんだろうか? 日本人は科学的じゃないから幽霊や妖怪は信じないという。 偶に妖怪を信じると言えば、まるで馬鹿かのように扱われる。 しかし、そもそも科学的というのはどういうことなんだろうか。 私にはまるで妖怪のように見えてくる。 不思議なことや知らないものごとに現れて最もらしい説明をして消えていく妖怪カガークテキ。 どうでもいい話だが、妖怪というのはとても可愛い。 小豆あらいなんて小豆を研いでるという、意味が分からない。 ばたばたと言う妖怪は畳を叩くような音をだすと言う、何がしたいのだろうか。 サンタを信じるのは夢があるが、子供っぽいと言う。 なぜ、子供っぽいのだろうか。 本当はないものを信じるから? そんなことを言えば、未だ私は宇宙を見
いったい僕らが迷うのはすべて、何をするべきかがわからないからだ。何をするかが正しく判断できれば、何も苦しむことはない。 世の中には4つのものごとがある。 1.したい。そしてしたほうがいい。 2.したい。でもしないほうがいい。 3.したくない。でもしたほうがいい。 4.したくない。そしてしないほうがいい。 このうち、1と2を、3と4を見分けるのが難しい。 例えば俺が、別れた元彼女にメールを何十通も送って、返事が来なくなっても送りまくって、結局その彼女の今の彼氏にむちゃくちゃ怒られてとても恥をかいた今では思い出したくないあの事件のときさえも、俺は自分の行動を2ではなく1だと思っていたのだよね。彼女は本当は俺を待っているはずだ。彼女は俺といるほうが本当は良いのだ。そのためには多少の強引さを可能にする勇気が必要なのだ。って思ってたもん。どうしたら正しく判断できるようになるのでしょうか。ごめんなさい
はてブをボーっと眺めていると「これはすごい」タグを付けている自分がとても頭が悪そうに見えた。 見えるだけではなく、本当に「自分は実はバカなのではないか?」 と思ってしまった。 自分でも不思議だったが、「これはすごい」タグをつけようがつけまいが、それは自身の頭の良し悪しには何の関わりもない事はよく分かっているつもりだ。 「めがっさにょろにょろ」とか「カリカリモフモフ」とか「マスゴミ」とかとか、もっと頭の悪そうなタグだってたくさんある。 にも関わらず、こんなたかだが「これはすごい」タグ如きで何をいちいち悩んでるんだろう。 外部から見える自分を取り繕った所で自分の内部は何も変わらないのに。取り繕って諂って見栄を張ってみたところでいつか本質には気づかれるのに。 いちいち増田書くたびに、はてブでコメントつけるたびに、Mixiで日記書くたびに、レスの有無で一喜一憂する自分なんて捨ててしまいたい。 こん
うまくいかない日に仕込むラペ 「あぁ、今日のわたしダメダメだ…」 そういう日は何かで取り返したくなる。長々と夜更かしして本を読んだり、刺繍をしたり…日中の自分のミスを取り戻すが如く、意味のあることをしたくなるのです。 うまくいかなかった日のわたしの最近のリベンジ方法。美味しいラペを…
このブログでは過去に何回か「自由意志」をネタにしたエントリを書いたことがありますが、もう何を書いたのか忘れているので、あえて読み返さないでまた書いてみます。 さて、まず「自由意志」の定義です。とか言うとおおげさになるので、まぁふつうに、「いろいろな状況に際して、アレをするコレをするなど、自分の判断で行動を選択できること」くらいにしておきます。お昼に何を食べるかとか、休みの日にどこへ行くかなどを、自分で決められること。まぁそんなでいいでしょう。 で、人間の精神とか意識とか、そう言われているものについて。これは、現在の脳科学では「脳活動の随伴現象」という解釈が主流だと思われるので、ここでもその説を採ります。随伴現象、したがいともなう現象とは、まぁ自動車のエンジンと速度計みたいな関係ですね。エンジンの回転が上がれば速度計の針も動く。しかし針を指で動かしてもエンジンの回転は上がりません。そういった
巷で蔓延するニセ科学批判。多くの人間の共感を呼んでいるが、実は問題はそう簡単なことではない。 確かに、追試により証左を求めることが出来ない科学は全て『ニセ科学』だ! と、定義できればこれほど簡単なことはない。 実際、そのような定義が正しいとは思う。 しかし、科学者自身がニセ科学を批判するには人類が築き上げてきた科学は脆弱すぎる。 科学がニセ科学を糾弾できない真の理由はを知るには『進化論』問題を見れば解るだろう。 なぜ進化論がニセ科学かは、具体的に事例を出してゆ行けば自ずと結論がでるのだが、これは実に根が深い問題である。 ◆進化論のニセ科学的側面・現在の科学では動物の種の壁を越える手段を持ちえていない人と猿は近い種と考えられているが子供を作ることは出来ない。そこには明確な断絶があり、どのような手段で『進化』がこの壁を乗り越えることが出来たかは今だ明確な説明できない 猪から豚が、狼から多種多様
あのころは加藤智大がいたhttp://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080611/p1 事件を風化させないために秋葉原の通りを加藤智大通りにしろと書いて案の定フルボッコにされてるわけだが元々が善人のhokusyuが露悪的な態度を取ってもどっかで無理が生じるわけでこういうのはトニオとか西田三郎とかホンモノに任せておけば良かったのにと思う で、この件でinumash方面から切断操作だ、いや切断じゃない、そもそも切断して何が悪い、とか騒がしくなってるわけだがこの場合の切断って「加藤は悪いオタク、俺はいいオタク」ってことなんだろうどうせなら「オタクは人を殺さないので加藤はオタクではない」みたいなオタクの定義を塗り替える論説が登場することを期待したんだがまぁそれはともかくとして疑問なのはオタクってそもそも切断でアイデンティティを確立してる人種じゃないの? ってこと オタクが同好の
【はてブ】は、ブクマ対象リソースから、先頭から数行とか内容を転載しているわけですが、これを blockquote 要素としてマーク付けをしています。とゆーことは、引用だよ、というワケです。で、引用が引用として成り立つには、引用の為に転載された部分が、主従関係で言うと「従」に相当しなければならず、それに対する言及等が「主」とならなければなりません。 つまり、コメントやタグが転載引用部を上回る必要があるわけで、皆、一所懸命「これはひどい」「ぶっ転がるぞ」等のタグをたくさん付けて、出来るだけ長文でコメントしないとイクナイんぢゃあるまいか。 などと。
前からずっと思ってたんだけどさぁー はてブのコメント欄でさぁー [めか〃っさにょЗにょЗ] とか [ヵリヵリモフモフ] とか [ぁとτ〃ょむ] なんてタグをつけるギャルでヤングなはてなユーザーはいないの? 一人くらいいてもよさそうなのに、一度も見かけたことないんだよね。 「ぁたUもそぅぉもぅ!これゎすこ〃<ぃぃ!!」 こんな感じで強烈に異彩を放つコメントを見てみたいんだけど、これは叶わぬ願いナノヵナ?
ぶっちゃけソースコードと言葉は違う。言葉は見た瞬間自動実行されるバイナリみたいなもの。 これは非常に鋭い指摘だと思う。というか、rnaさんと議論していてなかなか解けなかった謎が「見た瞬間」に氷解した感じ。 確かに私は、ネット上に書かれた言葉を「ソースコード」に近いものとしてとらえている。つまり、それが与える影響を読む人が管理できるものだと思っている。 だから、自分の所でも他人の所でも、無意味な誹謗中傷の類があっても、それを実行可能な状態にすることなく捨ててしまう。だから、それは私に影響を及ぼすことはなくて、私にとって存在してないのに等しい。 自分にとって意味があって有用な影響を及ぼす言葉だけを私は「コンパイル」して実行する。つまり、自分に影響を及ぼすことを許す。 私にとって、見た瞬間に自動実行される言葉には2種類あって、ひとつは、まさにこのrnaさんのコメントがそうであるように、「知識」あ
坂本龍一の「ジャージが不愉快」「一人でご飯を食べている人も不愉快」という発言に対して、ブログを辿ってみたら「そんな人だとは思わなかった」という意味のコメントが載っていて驚いた。ぼくは特に坂本龍一が好きでも嫌いでもないけれど、彼は常に「そんな人」だったと思う。 坂本龍一は、昔も今もあんな感じだと思う(ココロ社) 私も、糸井重里と坂本龍一を好きでも嫌いでもない。だから言いたいことはわかる。だけど、これじゃあ「お前ら昔の教授を知らないの?m9(^Д^)プギャー!!」にしかならないんじゃないの、という疑問を持つ私だ。 たとえば話題になったジャージの文章を読んでみよう。 坂本 他人に対する、何ていうのかな。 境がわかってないっていうか。 それに近いものを感じる。 http://www.1101.com/kyoju/03.html なるほど、ジャージはむきだしだと。これではジャージでコンビニに行く
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