それはともかく、危機的状況でもちまちま原稿を進める。 読書 「魔法先生ネギま! 1~12」赤松健 実は一時期まで高校生の話だと思っていたくらい通して読んだことがなかったので、読んでみた。 一般より作り手側に評価が高いのですが、作者さんの計算には恐れ入る。読者層で一番多い微オタクさんが好む要素を徹底的に盛り込んでいる、あまりに手堅い構成、インダストリアルな手法。 読めない人が言いそうな「それだけではない、なにかがあるから売れる」という古典的な視点では、実はこの作品はなにも見えてこないと思われる。31人のヒロインや、巨大学園、魔法とラブコメ、という要素ではなく、設計と思想システム自体が優れていると思う(分からない人でも楽しめるようになっている。それがまた優れたシステム) 還元すると、頭のいい人間がデータと分析をもって作ると、中途半端な才能というものにはまったく意味がなくなるのではない
映画 「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」 映画館とDVDで見たけど、テレビでやっていたので見た。 数万のオーク兵。攻城戦での投石器の打ち合い。城門の撃破。武装トロル兵。数千人の騎馬の突撃。ナズグルの飛竜が騎馬兵を銜える。巨象。その牙で飛ばされた騎馬が、また別の象の牙に激突。飛竜の首が切り落とされる。騎馬で走っていって象の足の間を抜けつつ、双剣の刃で足の腱を切断、象が倒れる。レゴラスが象に乗って一頭丸ごと倒す。幽霊兵団による敵軍の一掃。巨大蜘蛛。サウロンの塔の崩壊。溶岩のなかに崩れる橋を飛び渡るフロドとサム。 ここらへんが強度のシーン(私が物語に対して言う強度は、他のシーンや人物でも置き換えられるけど、キャッチーだったりおもしろかったりする、という程度の定義。対して意味は他の人物やシーンで置き換えられない文脈性がある、という定義。ああ、めんどくせー解説) 強度を上げることができた
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。最近、作家さんに語ったことで思い出したけど、私にはダメな知りあいが多くいる。その中の一人を、仮にA氏としよう。 ・学生時代に「俺は天才だから、漫画家か映画監督かゲームのグラフィックのデザインをしたい」や「十年後、俺は有名人になっているね」と香ばしい発言。 ・「近頃の漫画はつまらん。俺が書いたほうがおもしろい」と毎週月曜日のジャンプに文句をつける。毎年「今年は賞に送るよ」と言うも、Aは一作も完成させたことはない。 ・校外学習のバスから見えた小学生に「うわ、足長い。いいわ、ああいう小学生」とペド発言。 ・免許を取りにいって、自分が運転する車に酔って壮大に吐く。 ・ナルシスト。でも顔は出川哲郎氏似。 ・学校卒業後、ゲーム会社に就職。しかし、デザイン画やらなんやらを提出せず、当然のように店舗に出される。本人は「なんで俺をグラフィックに使わないの
あー、なんか仮説。 現実では言われないことがネットでは流通する。だけど流通するのと流行るのと、また承認されることと通用することは違う。 たとえば、教室や職場でもいいけど、現実社会という場で発言を許されるのは十人に九人までだと思う(確率はそれぞれ任意にだけど、日本では人格の偏りは約3%の人間にあるといわれている) 残る十分の一、いわゆる「教室や職場の隅っ子の暗がりにかたまっている、キモいヤツのキモい意見」というのは、現実では発言を許されない。発言しても叩かれる、もしくは普通の感覚が少し残っているなら、話すとキモがられることを予測して話さない。 うん、私のネットでの意見も、あまり現実では言わないことが多い。アホすぎるから。 ただ、端っこのキモいヤツ、というのは実は唯一、民話におけるマージナルマン、社会という人間の枠組みと社会の外にある全体性の世界の間の境界に立ち、社会に警鐘を鳴らす役
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。作家さんや漫画家さん、イラストレーターさんと話したことで、作り手になる法則というか才能というものを考えてみた。なりかた、なる方法とはちと違うけど、まぁそれはそれで。 ・若い 宮崎駿さんが言った条件のひとつ。毎年どの業界でも新人さんが出ているのは、まぁ、年寄りの技術よりその時代の寵児のセンスのほうがおもしろいってことでしょう。 また、表には出ないけど、授賞者選考で言わないけど、年齢制限している賞があるのは事実。 ・貧乏 宮崎さんの条件の二。お金持ちやは物語を妄想したり、絵やギャグを工夫したりしないでしょう。他に気に入る娯楽がないから自分で作るという貧民根性が創作の元なんじゃないかな、と宮崎さんの言葉を翻訳。 ・ヒマ 宮崎さんの条件の三。忙しい人は余計なことを見ることもすることないです。余計なことが創作だしね。ナウシカで巨神兵がビームで
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。去年の一月六日に藤原祐さんと話したのですが、日記に残っていたので、以下、応答の一部を再構成。 藤原さん:以下F「最初に言っておきますが、僕は普通ですよ。こんな人間なんてどこにでもいますよ」 浅井ラボ:以下A「イヤーな発想はできても、それがギャグとして本や売り物になる人はあまりいないです。藤原さんはボクらの黒い太陽です」 F「そうでもないですよ。僕もみんなも、全部まとめて売り物にならないだけです。ありふれたクズです」 A「作家のペットスレで、みんなが和気藹々と猫話しているなかで『僕も猫の目は綺麗で好きです。だから集めたいです』とか答える人がありふれている、そんな世界はイヤです。作家全員がスルーしていましたが、私は見逃しません。綺麗で好きだから集める、その完璧な論理性に痺れました」 F「書いたかなぁ。ああ書いたかもしれませんね」 A「忘れるくら
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060304-00000021-sanspo-spo ↑日本人の感覚って不思議。飲酒と喫煙もその選手たちだけを外せばいいだけ。可哀想なのは関係ない普通の部員さんたち。 罪のない人たちに不利益を与えるって、それ、言葉は悪いけど冤罪。もっと言えば、校長さんが責任を取ったつもりの自己満足。 じゃあさ、部員の誰かが殺人事件を起こしたら、他の部員も軽い懲役刑くらいは受けるべきだとなるのですがね。親兄弟、親戚、友人や隣人は? 近代法思想の基本は本人責任ですね。関係ないものは罰しないようにしないと、変。 実体と意味なき連帯責任なんて、最終的には気持ち悪い相互監視社会、村社会を呼ぶよ。 現代で江戸時代の五人組かよw まぁ、世間や世間体、なんてものを気にしたのでしょうな。現代
週末のちょっとしたレジャーとしてプチ絶望をオススメ! 浅井です。 バンバンと日記を書いていこうと思います。 たまに人に「小説家or漫画家、イラストレーターになりたいんですが、どうしたらいいんでしょうか?」と聞かれます。 私が知るわけないです。知っていたら、もっと上手くやっています。歌人か俳人か忘れましたが、枡野浩一さんという人が言った言葉で「自分でプロのなり方を発明したものだけが、プロである」という意味の言葉があって、それが正解じゃないのかしら。かしら、かしらそうなんじゃないのかしら。 私は単に頭の中の映像を、無理やり文章にしているだけ。形式には興味ないでごわす。 まぁ、小説が好きで好きでたまらない、作家になりたいという人だけはやめとけとしか言わないです。小説家になりたいなら小説をあまり読むな、漫画家になりたいなら漫画をあまり読むな、ともよく言われるし。 私は動機から逆算して、
季節のお野菜いかがです? 季節の浅井もいかがです? バンバン日記を書いていきたいと思います。 えーとみんな大好き(嘘)な非モテとオタクの話題でも。 送り手の一人ではありますが、私は私のオタク性を肯定しない。少なくとも全肯定はしないです(べつに珍しくもなんともなく、作り手のある一定の割合はそうであるでしょう) 肯定しない理由は、一般基準から外れたことに、一定の含羞を持っているから。それがなくなると、実は娯楽の送り手としても良くないと思っています。一般人の感覚を見て「分かってないよ、あいつら」になると、あまり良くないと思うのですよ。 さてさて、いきなり脱線したけど、オタクと、非モテやキモメンやダサ男ということはまた違う。オタクであることと、他の美点は両立できるから。 モテのトップならファッション関係の人は服オタクだし、芸能人は魅力オタク。さらに言うと、勉強・上昇主義オタの別名、エリ
ロリ界の論争とか言った自分の言葉で、こんな妄想をしてみた。 連載少年漫画 「ロリの空」 第164回「修羅と羅刹」 で凍らされた幼女を、師匠が死ぬ間際に残した秘奥義でねぶりつくして溶かし、死闘を制したロリ乃助は、懐かしき日本に帰っていくのだが……。 「ああ、あややはいいなぁ」 商店街の本屋の店先で男はつぶやいた。立ち読みしていた雑誌のなかで、少女が微笑む。男は尾てい骨から脊髄へと駆け上がる、自らのロリー力の高まりを感じた。 紙の表面で微笑む少女の顔に影が差す。観賞を邪魔され、思わず振り向いた男。 「どけ、軟弱ロリ野郎」 そこには聳え立つ壁。否、割れた腹筋があった。男の視線が上がっていくと、分厚い胸板、太い首と続いていった。 幼女のために鍛え上げられた体は、くすんだ学ランに包まれていた。 上げられていく男の視線の最後、学帽の庇の間から覗くのは、煌々と光る隻眼。左目を日本刀の鍔の眼帯
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。原稿が一息ついたので、脳休めのために前にもしたと思いますが、意味と強度の話。いわば自分用の創作メモのようなものです。 あくまで個人的な見解なのですが、私が物語において見る要素は、意味と強度です。 まず、意味とは、物語や人物(造形や言動)や各種場面に仮託される寓意や暗喩。 当たり前ですが、物語とは意味の連鎖です。あるテーマを語るために、テーマを背負った人物が出て、テーマの問いであったり解決であったりという場面があるわけですな。 だいたい悪役がテーマを背負い、主人公がその解決(心理的な)役としてなんたらする、または主役が成長し変化(主に心理的な)するという物語が多いのはそういうことかなと。 事件の解決は秩序の回復、成長は未来への展望とかいう寓意や意味があるでしょうし。 心理的なとしたのは、娯楽というものが基本的に心と感情の娯楽である
ある作家さんが提唱し、他の方々も述べておられる小説の技術、Novel Hackをいつも感心して参考にしているのですが、自分なりに一つ。 他の人にはまったく役立たない方法だし、ある程度キモい妄想なのであしからず; 私の自著に対する最終的な判断基準は、ただの二人だけ。私ともう一人です。 それは、私が脳内で作り上げた、一人の仮想の女の子です。 仮にA子ちゃんとします。 A子ちゃんは14歳の女子中学生で美少女です。 しかも小さな時から、自分が美人でスタイル抜群なのを、資産で才能で武器だと理解し、表面的には人当たりのいい優しく家庭的な女の子を演じ、男が大好きなすっぴん、に見えるように入念なメイクをするくらいには頭がいいです。 たとえるなら、自分しか分からないご飯は自身が好きなものを食べますが、服は他人が好むものを着、言うことは他人に好かれる言葉ということを徹底している美少女です。イヤな
ライトノベル作家、浅井ラボが、テケトーに語ります。・追加考察。 男が、女性向けラブコメを見てはあまりキモく思わないのは、これは女性が女性を見る目、特にモテる女性を見る目はかなり厳しいからでは、と思います。 それゆえに少女漫画に出る女性は、同性向けを考慮されているからだと思います。 だから両性の好意に共通項的な造形である、と。 そこらの地味な女の子を捕まえて聞くと、男に媚びて上手くやっている女は大嫌いだと言うと思います。そっちのほうが楽だと分かっていてもプライドからできないという屈折した女性論理で。 フルーツバスケットの本田透さんの作り方が、それらの論理を考慮して、嫉妬や憎悪を買わないように考慮されています。 本田さんは、かなり天然というか善人に作られていて、ある程度恋愛経験のある人か普通にストリートな人には、変な造形だと思いますが、いろいろとエクスキューズ(母の死など)で担保され
さすがの編集さんも、催促を止めるほど夢も希望もない日々ですが、それだけでもなんなので。 それまでに決めないといけないことも多いので時間つぶしに。 つか、しばらく仕事をする気になれないしならないのでダラダラと。 アニメの「D.C.S.S」を見て考えた。 主人公の男の子が美少女たちにモテモテは、ハーレムラブコメの基本。主人公=読者の男の子が「自分がモテモテだったらいいな。なるべくとっかえひっかえ」という願望充足型の物語だからだ。 だけど、主人公が好かれることに男前だの賢いだのスポーツができるだのの「理由」があってはならない。 理由があっても、そこではなく主人公の「優しさ」やら「一生懸命さ」というどーとでもなりそうなものをラブコメの美少女たちは好きになるべきだろう。 主人公にスペック的に優れたところがあって、そこが好かれるとなると、容姿も勉強もスポーツも才能も内面もダメな男の子
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