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ブックマーク / ashizu.hatenablog.com (13)

  • 2009年のベストアニメ作品――ゼロ年代の終わりにアニメの未来について考えてみる - metamorphosis

    アニメ(ブロガー・twitterアニメクラスタたち)の饗宴、あるいは2009年アニメベスト/ワーストのススメ(反=アニメ批評) http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20091220/1261317064 アニメブログ年末合同企画(EPISODE ZERO) http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20091220/p2 上記の企画に参加。 2009年のベストアニメというか、もし仮に2009年のアニメの中からひとつだけ見るべきものを選べと言われれば、僕は迷いなく、『エンドレスエイト』の名前を上げることだろう。『エンドレスエイト』は、『涼宮ハルヒの憂』のアニメのひとつのエピソードとして考えるべきではなく、独立したひとつの作品として捉えられるべきである。 つまり、2009年のベストアニメは『エンドレスエイト』である。以上。 これで

    2009年のベストアニメ作品――ゼロ年代の終わりにアニメの未来について考えてみる - metamorphosis
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    REV 2009/12/28
    「「憂鬱」で克服の対象だったものがセカイ系という名のパラノイア的な誇大妄想だったとすれば、『エンドレスエイト』で克服の対象になっているのは、日常生活への依存・嗜癖・中毒といったものである。」
  • 『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis

    毎度のことだが、新作アニメの消化がスムーズに進まない。前クールのアニメもまだかなり残っている。 そんな中でも、話題の『けいおん!』は見ているのだが、すでにネット上でかなりの人がこの作品について語っているので、別に今この作品をあえて問題にしなくてもいいかなあ、と漠然と思っていたのだが、昨日、たまたまYouTubeにアップされていたオープニングの曲を歌詞を見ながら何度も聞いてしまって、その歌詞があまりにも良かったので、それに引きずられるような形で、『けいおん』のアニメについて、現在思っていることをちょっと書いておきたい。 今のところ、三話まで『けいおん』を見たが、僕は、この三話だけで、この作品を完全肯定していいと思っている。それは、アニメの出来不出来という問題の他に、個人的な思い入れももちろんあるのだが、そこら辺のことをちょっと書いてみたいと思う。 以前に書いたことであるが、僕は、『らき☆すた

    『けいおん!』と現在時の肯定――京都アニメーションにとってのチョココロネ - metamorphosis
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    REV 2009/12/24
    移行対象、という言葉を思い出した。
  • アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

    アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ

    アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して
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    REV 2009/04/04
    動ポモが汐ちゃんつくって上がっちゃったのが印象的。/母親も一人の人間 VS 父親も一人の人間/ 街の超越性がテーマの一つだったのかもしれないけど、印象には残っていない
  • サブカルチャーと政治的なもの(その1)――すでに常に部分的なものであるというアイロニー - metamorphosis

    今、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいるのだが、江藤淳のサブカルチャー観を問題にする次のような記述に、僕はかなりガツンとやられた。 ところで江藤がここで「サブカルチュア」をいわゆるアニメやコミックといった具体的な領域を指して言うのではなく「全体文化」から乖離した「部分的な文化現象」の意味で用いていることに注意したい。このような文脈でサブカルチャーを語る時、江藤の中ではやはり「全体文化」の存在が所与のものになっていることをここで確かめておきたい。「サブ」すなわち「部分」なる語は否応なく「全体」の所在を証明してしまうことになるからだ。 しかし、そもそも「全体文化」とは何なのか。例えばここで江藤が「全体文化」ではなく「上位文化」と記していれば理解し易い。その場合はただ文化的なヒエラルキーの中で上位にくる高級な文化を思い起こせばいいのであって、例えばいわゆる「文学」を多くの人はその中に加

    サブカルチャーと政治的なもの(その1)――すでに常に部分的なものであるというアイロニー - metamorphosis
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    REV 2009/02/20
  • 『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis

    最近、偶然にも、アンデルセンの『人魚姫』を現代風にアレンジした二つの作品を見たり読んだりした。ひとつは、宮崎駿の最新作『崖の上のポニョ』であり、もうひとつは、桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をマンガ化した作品である(漫画:杉基イラク)。言ってみれば、これらの作品の作者は、『人魚姫』という古典的な作品から現代的なリアリティを読み取ったわけだが、いったい、この『人魚姫』という作品のどこに現代的なリアリティがあるのだろうか? アンデルセンの『人魚姫』のストーリーに忠実なのは『砂糖菓子の弾丸』のほうである。この作品では、最後、海野藻屑という名の少女が、その名の通り、海の泡になってしまう。これに対して、『ポニョ』のほうでは、ポニョが泡になることはない(つまり原作の物語の展開とは異なる)。この差異はいったい何を意味しているのだろうか? 『ポニョ』において、ポニョが海の泡になることはないが

    『人魚姫』の持つ今日のリアリティ――『崖の上のポニョ』と『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』について - metamorphosis
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    REV 2008/08/02
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ - metamorphosis

    共通前提の崩壊の問題と不快な他者の侵入の問題との間には密接な関係があるように思える*1。つまり、他者が、たとえ善意からだとしても、何か介入的な行為をしたときに、そうした行為をひとつの越権行為、自分を害するために行なわれた攻撃的な行為と見なす、ということがありうるだろう。例えば、『らき☆すた』の第1話で、チョココロネのべ方に対して、みゆきがこなたに行なったような介入は、場合によっては、不快な他者の侵入として感じられることだろう(「うざい」などという言葉が示しているのは、まさに、このような他者の不快な侵入のことだろう)。 ここにおいて、つまりは、許されている行為と許されていない行為との区別があるわけだ。しかしながら、その境界線がまったくはっきりしないということ、そうした境界線が常に流動的であるということをこれまで述べてきたわけである。 不快な他者の侵入の最もよい例は喫煙である。喫煙についてし

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その4)――自明性の回復というオタク的な努力、見た目と語りとの間のギャップ - metamorphosis
  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis

    以前、このブログで、アニメ『まなびストレート』を取り上げて共通前提の崩壊について語ったことがあったが(共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に)、もちろん、共通前提の崩壊という現象は、『まなび』という作品だけに見られるものではなく、最近のあらゆるサブカルチャー作品にその片鱗を見出すことができる。小さな物語を扱っている作品には、共通前提の崩壊を、少なくとも潜在的な形で、見出すことができると言える。まさに、その点で、逆説的なことながら、われわれの共通感覚を過度に強調しているような作品は、その背後にある共通前提の崩壊を暗黙のうちに示していると言えるだろう。 その点で、例えば、『らき☆すた』のような作品は、われわれの共通了解というものが、いったい、どのような領域で、どのようなレベルにおいて確認することができるのか(あるいは、確認することができないのか)ということを検証している

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その1)――オタクと非オタクとの間 - metamorphosis
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    REV 2008/05/02
  • 『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis

    『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しかしながら、過去のガイナックス作品のことを考えるのであれば、『グレンラガン』は、80年代にガイナックスが作った作品の反復である、とも言えるだろう(そもそも、ガイナックスの出発点は、過去のアニメや特撮をパロディにした作品を作っていたアマチュア集団である)。80年代にガイナックスの作った作品が、旧来のアニメや特撮の反復であるとしたら、『グレンラガン』は、まさに、そうしたガイナックスの行為の反復、「反復」の反復であると言えるだろう。 具体的に作品名を上げれば、『グレンラガン』は『トップをねらえ!』の反復であるように思えた(特に物語構造上)。他にも、『王立宇宙

    『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis
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    REV 2007/10/16
  • metamorphosis ■ 共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に

    前回は、日常と非日常との分節について、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と『涼宮ハルヒの憂』という二つの作品を主として参照しながら、問題にしてみた。日常と非日常の分節において、常にアクセントが置かれているのは、日常のほうであり、言い換えてみれば、それは、日常生活の分節の問題だと言っていい。つまるところ、非日常とは、日常生活に挟み込まれた節目の時であり、そうした節目の時を基準にして、日常生活がどのようなものであるかが俯瞰できるのである。 いったい、なぜ、このようなことを問題にしているのかということを、再度、確認しておこう。今日のサブカルチャー作品において決定的に問題になっていることは、リアリティだと言っていい。言い換えれば、それは、アニメやマンガを消費する人たちの共通前提とは何か、という問いである。この問いは、すぐさま、商業的な問いへと移行する類のものであるだろう。つまり、アニ

    metamorphosis ■ 共通前提の崩壊、学園ものの危機――『まなびストレート』を中心に
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    REV 2007/04/15
  • metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って

    前回は、アニメを見ることに関わる実存的な問題を少しだけ提起した。そこで問題になっていることは、生活のリズムを刻むこと、平板な世界にいかに起伏をもたらすか、ということである。これは、つまるところ、世界をいかに意味づけるか、ということである。あるいは、日常生活というものをいかにして再構成するか、ということである。 この日常生活の分節化の問題が、今日の非常に多くのサブカルチャー作品に見出されるということが、現在の僕の関心事である。何度も繰り返すことになるが、日常生活そのものを描くことはできないので、こうした作品において問題になっていることは、言ってみれば、日常生活における節目を発見することであるだろう。つまり、何かの終わりであると同時に何かの始まりでもあるような、そうした節目を様々なところに発見することが問題になっているのである。 現在は卒業式のシーズンであるが、卒業式というのもまた、ひとつの節

    metamorphosis:日常と非日常とを分ける節目の時――『うる星やつら』と『涼宮ハルヒの憂鬱』を巡って
  • metamorphosis -可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について

    ツガノガクのマンガ版『時をかける少女』を読んだので、この作品のモチーフから連想したことをいくつか書いてみたい。 僕は、原作の小説を読んだことがないので、このマンガがどれくらい原作に忠実なのかよく分からなかった。しかしながら、この作品のモチーフが現代的であるということには異論がない。従って、この作品が今年アニメ化されたのも非常に納得のいくことである。つまり、過去に戻るというモチーフが極めて現代的だと思うわけである。 よく、ファミコンなどのゲーム機に関連して、リセットということが問題になるが、そこで問題になっていることとは何なのだろうか? それは、もちろん、可逆性/不可逆性の問題である。時間は逆流しない。これは、死の絶対性の問題と関わっているが、しかし、厳密に言えば、やはり性質の異なる問題であるだろう。もし、人間が不死になったとしたら、時間の不可逆性の問題も同時に解決されるだろうか? これは、

    metamorphosis -可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について
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    REV 2006/10/08
  • 80年代アニメの土壌 - metamorphosis

    大状況と小状況との関わり、大状況の物語が空疎化し、それを補填するような形で小状況の物語が拡大していること。こうした物語の状況を、前回までは、様々なアニメ作品を通して見てきたわけだが、今回からは、同様の状況を、少し歴史的な観点から眺めてみることにしたい。つまり、80年代のアニメとそれ以降のアニメ(現在のアニメ)との差異という観点である。 アニメ作品を年代ごとに区切ってカテゴライズすることは、何か意味のある行為なのだろうか? 僕は、最終的にはこうした試みは何の妥当性もないと思っているが、便宜的にそうすることには意味があることだと思っている。多様なアニメ作品にひとつの流れを見出すこと、そのような包括的視点を差し出すことは、それによって多くのものが零れ落ちてしまうというリスクはあるものの、われわれがどこに立っているかという立ち位置をはっきりさせるためには、非常に有効な作業だと思うのである。 さて、

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  • 切断線のない物語 - metamorphosis

    前回は、今日のアニメ作品において、大状況が非常に空疎なものとなり、むしろ、その空疎さを補填するような形で、小状況が機能している、そのような現状を概観した。旧来の作品においては、大状況と小状況とは滑らかな接続の仕方をしていた。常にアクセントは大状況のほうに置かれていて、小状況は大状況を構成する部分的な要素であった。しかし、現在の作品では、このようなバランスが崩れ、むしろ、小状況のほうにアクセントが置かれるようになってきた。そのため、様々な作品において大状況が描かれるとしても、それは、一種の紛い物の様相を呈するようになったのである。 さて、今日もまた、大状況と小状況との関わりを見ていくことにしたい。今日、取り上げてみたい作品は、『ふしぎ星の☆ふたご姫』と『魔豆奇伝パンダリアン』である。これら二つの作品に共通して見出すことのできるもの、それは、大状況の価値低下である。 『ふたご姫』も『パンダリア

    切断線のない物語 - metamorphosis
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