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佐渡と歴史に関するSaYaのブックマーク (3)

  • 史跡佐渡金山【新潟県】旅行サイト『プチたび』 - puchitabi.jp

    佐渡金山は1601(慶長6)年、鶴子鉱山の山師たちが新しい鉱脈を求め、大露頭(ろとう)を発見したことに端を発するが「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」はそれが2つに断ち割れた露天掘りの跡。坑道の総延長は400km、388年間で78トンの金を産出したといわれる。当時の坑道がそのまま見学コースになっている「宗太夫坑」で、金採掘の様子を再現。金山展示資料室では佐渡小判の製造工程を詳細に展示している。売店、茶処も併設。

  • 妙宣寺【新潟県】旅行サイト『プチたび』 - puchitabi.jp

    順徳上皇に仕え、のち阿仏房日得となった遠藤為盛とその・千日尼の開基と伝えられる佐渡市真野地区の古刹。ふたりは佐渡に流された日蓮に仕えたとも伝えられている。寺には日蓮上人書状(国の重要文化財)など貴重なものが残されている。また羽茂の工匠が2代、30年がかりで完成させた五重塔は新潟県唯一の五重塔で国の重要文化財。境内が城郭のような雰囲気なのは、かつてここが竹田間氏の居城でもあったことから。

  • 直江兼続が指揮し、実質支配した佐渡国【特集】旅行サイト『プチたび』 - puchitabi.jp

    上杉景勝の時代、佐渡国は越後とは別の国で、守護代・間氏の支配下にあった。間氏は、相模にルーツをもつ国人衆(鎌倉時代の地頭から発した在地武士)のひとり。一族を各地に配置して佐渡全域を支配した。しかし同族間での内紛が後を絶たなかったという。その中で最有力だったのが、北佐渡の河原田間氏と南佐渡の羽茂間氏。「御館(おたて)の乱」で越後の盟主となった景勝は、この群雄割拠した佐渡領有を目論むが、秀吉は自らの裁定による天下統一のため、「惣無事令」により大名間の私戦を禁じた。 つまり各地の戦国大名は、かつてのように自分の意志で他国へ侵攻することは許されず、領地の安堵、裁定は、すべて一括して豊臣政権の手に委ねられるというシステムに、世の中がガラッと変わってしまったのだ。そんなわけで秀吉の手前、上杉は目の前で金銀を産する「金のなる島」佐渡に、水面下では工作を続けながらも表立って手を出せずにいた。 しか

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