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2007年7月16日のブックマーク (3件)

  • 楽しい世界史≫インド史・東南アジア史≫インシャーアッラー

    <アラブ世界の"IBM"> I:「インシャーアッラー」(神が望みたもうならば) B:「ボクラ」(明日) M:「マーレシュ」(気にするな) よく、アラブ人のいいかげんさや無責任さの象徴として引き合いにだされるのがこの3つの言葉である。でも、当にアラブ人って、ルーズでどうしようもない人たちなのだろうか。 「インシャーアッラー」、イスラム教徒(=ムスリム)は、人と何か約束をするとき、必ず最後にこの一言をつけ加える。 「それでは、何月何日に会いましょう」 「はい、インシャーアッラー」 「このお金はいつ払ってくれますか」 「明日です。インシャーアッラー」 「おまえ、今度からこんな間違いはしないでくれ」 「わかりました。インシャーアッラー」 万事こんな調子なので、外国人は、「神がそれを欲し給うなら、約束を守るというのであれば、神が欲しない場合は平気でそれを破るのか」と考えてし

  • 死因が心臓あるいは血管でなければそれでよいのか。【今】【私の目の前】でなければそれでよいのか。 | 夢見るかえる 

    自分のやっていることに疑問を感ずる時がある。 ひとは誰しも死ぬ。それは古今東西覆らぬ絶対的事実だ。 とすれば医療は、ひとつの死因を別の死因にすり替えているだけなのではないか。 心筋梗塞死を免れた人は、3年後交通事故で死ぬかもしれぬ。 大動脈破裂死を免れた人は、半年後肺炎で死ぬかもしれぬ。 今目の前のこの病で死ぬのは許せぬが、一月後の朝、布団の中で死んでいるのは大往生と呼ばれる。 このすり替えに、遺族と我々の自己満足、あるいは予定された死の恐怖からの逃避以上の意味があるとすれば、それは時の生み出す価値である。 3年の猶予、半年の延長。 今日ではなく、明日。 今ではない、いつか。 その猶予の価値。 その時が今ではない、ということの在り難さ。 今日は別れなくともよい、ということのかけがえのなさ。 私は私の死が、今ではなくいつかであることの重みを、どの程度知っているだろうか。 ::::::::::

    死因が心臓あるいは血管でなければそれでよいのか。【今】【私の目の前】でなければそれでよいのか。 | 夢見るかえる 
  • 「変な社会」のつくり方 - レジデント初期研修用資料

    レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります 昔挫折した犯罪小説のプロット。見たことがあるような人が出てくるのは、たぶん気のせい。 きっかけはたぶん、疲労感から。 大きな夢と、志を持った技術者と。 毎日の徹夜。繰り返される学園祭前夜。 生み出される新しい技術。拡大していくコミュニティ。 目新しいベータリリースが賞賛されたのも今は昔。 新規技術は発表と同時に既知のものとして消費され、 技術進化の対価は、賞賛から罵詈雑言へと変貌した。 「コードどんだけ書いたの ?」という声を聞いた。 「あの人は、会社というコードを書いているんだよ」という声も。 社会のコードを書こうと思った。 舞台立て 「犯人」役が主人公。某IT 企業の取締役で、ものすごく忙しい人。 事件が起きた時点でも世界中を