大切なことがあっても、その状況が書くことに隔離されているのであれば、実況や克明な保存は望めない。そして大概にして強くこころに残ること、言葉に残したいことは、書くことと離れた地点で発生し、逸れた進路を向いて継続する。そのおかけである強い感情の一回性が守られるという側面もある。言葉による感情の囲い込みがオーバーフローしてしまうのだ。したがって、臨場感、実況性、といったものによる印象は、ひとに語るに際して大きな障害となる。 では、書かなくてもよいのか。感情を霧散させて、またいつかくるであろう尊い体験のために、こころの受け皿をフォーマットするのも豊かな人生の方法である*1。ここをどう選択するかは個人の価値観や美意識によるので主張を試みるわけではないけれど、やはり僕は言葉に書きたい。残したい、伝えたい、大きくこのふたつの動機を天秤に乗せたとして、どちらに傾くかは自分でも定かではない。強迫、かもしれな
レジデント初期研修用資料 引っ越し前の旧blogです。新しいアドレスは http://medt00lz.s59.xrea.com/wp/ になります ネット世界には、知性のスカウター振り切っちゃってるような人たちと、それ以外の大勢と。 残り99% の「それ以外」が上位1% の本物のふりをして、知的を擬態するときのやりかたとか。 「それ以外」にとって知的とは何か 知的は眼鏡をかけている。難しそうな本を読んで、英語を話すこともある。 静かに語り、よく笑い、たまにオルガンを弾いたりする。 世の中の大部分を占める「それ以外」は、知的であるということを、 瑣末な記号の集積として理解する。 本当に知的な人にとっては、「知的であること」は結果。 「そうでない人」にとって、知的であるということは、 中身の問題ではなくてスタイルの問題。 結果を目的化した時点で、それはまがい物なんだけれど、 それを評価する
essaさんのわかることから書き始めてわからなくなるまで書くを読んで興味深く思った。 結城の書き方とまったく逆だったから。結城の場合には、「気になるけど自分でよく考えていないこと」からスタートする(たとえばこの文章自身がそうだ)。そして考えながら文章を書いていく。そうしていくうちに、自分の中になにかが形作られていくのを感じる。そして最後に、どんなに小さくてもいいから一つの「まとまり」になったところでやめる(そうでない場合もあるけれど)。 追記:以下、関連している文章。 別世界への扉 (2005年) 文章を、短く書くのは難しい (2002年) 本を書くのって、何でこんなに大変なのだろう (2001年) こんな本を書きたい (2000年) たぶんその問題は、対数関数が単調増加であることを利用するような気がする。両方の数の対数をとって指数を降ろしてくる。そして対数を有効数字2桁か3桁かで近似計算
ちょっと前に気がついたのだが、ブログを書くコツは「わかることから書き始めてわからなくなるまで書く」ということではないかと思う。 当然、人に読んでもらうためには、嘘やデタラメではよくないので、自分が良く知っていることを書くべきだ。しかし、知っていることだけ書いていたら、読んでいる人のタメにはなっても自分は面白くない。書いていて面白いのは、自分にもよくわかってないことを書くことで、その方が後で読んで面白い文章になることが多い。 私は、常にそういう矛盾の中でブログを書いているのだけど、それを長年続けているうちに自然と出来あがってきたパターンのひとつが、「わかることから書き始めてわからなくなるまで書く」だ。 私が書くことは、自分が知っていることと知らないことの境界線上にあることが大半だが、知らないことを書くと失敗するので、その境界線の内側から書き始める。だけど、自分の志向はわからないことに向いてい
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