また、『音楽の哲学入門』で取り上げられている曲を Apple Musicを使ってリスト化しました(2,3曲取り扱いがないものがありますが)。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090519/p2を承けて。 『生政治の誕生』でフーコーは、新自由主義を単なるスミス的な古典的自由主義の回帰ではない、と明言している。 アダム・スミス、マルクス、ソルジェニーツィン。自由放任、商業とスペクタクルの社会、強制収容所とグラーグの世界。おおざっぱに言って以上が、新自由主義の問題を扱う際に通常用いられる分析と批判の三つの母型です。(中略)私がみなさんに示したいと思うこと、それは、新自由主義はやはりそれとは別の何かであるということです。(162頁) 今日ではすっかり忘れられつつあるフライブルク学派の経済学・経済法学、旧西ドイツのオルドリベラリスムス、「社会的市場経済」を標榜する経済政策思想と、今日なお「新自由主義」の典型とみなされるシカゴ学派の経済学とをともに「新自由主義」とフーコーが呼ぶ理由は、単にその
はじめに 本稿は、芸術の存在論(ontology of art)は諸芸術をひとつに包括するような単一の説明を目指すべきではなく、わたしたちの実践の分析にもとづいた存在論として組み立てられることが必要であると主張する、哲学者エイミー・トマソンの論考のまとめである。ごく簡単な各章のまとめを記載している。 はじめに 書誌情報 本論 概要 イントロダクション 1. 近年の観点 2. 論争を評価する:わたしたちはなにをしているのか? 3. 答えられない問い 4. 改訂的応答 5. 結論 コメント どんな論文? 有用さ 発展性 関連文献 メモランダム 書誌情報 Thomasson, Amie L. "Debates about the ontology of art: what are we doing here?." Philosophy Compass 1.3 (2006): 245-255. 本
その名の通り、美学の入門書であり、複数のトピックについて基本的な議論が紹介され、各章末には練習問題と参考文献が付されている。 また訳注も充実しており、時に、いわゆる分析哲学における議論の進め方についての一般的な解説とでもいうべきようなものまで書かれている。 あと、表紙のデザインがよい。 ちなみに原題は、Aesthetics and the Philosophy of Art: an Introductionであり、分析美学の名はない。「現代英語圏における美学と芸術の哲学」といった方がよりよいのかもしれない(とはいえ、近年では非英語圏でもこのスタイルでの研究があるということで、この言い方も正確ではない)。 さて、美学と芸術の哲学ということで、本書も二部構成となっていて、一部が美学、二部が芸術哲学となっている。 Ch.1 はじめに 第1部 美学 Ch.2 環境美学――自然の美 Ch.3 〈美的
<訳者より> 本テキストは英国のウエールズ大学のダニエル・チャンドラー博士による記号論への入門書のオンライン版であり、インターネット上で公開されているものです。このオンライン・テキストは評判が良く、1995年公開以来のアクセス回数は56万回(2004年2月時点)にもなっています。 訳者は2002年4月まで35年間、企業の研究所に勤務していたシステム分析が専門の技術者ですが、記号論の本の中に、「システム」という言葉がたびたび出てくることから記号論に興味を覚え、インターネット上で調べていたところ本テキストと出会いました。記号論の主要トピックスをソシュールの記号学および構造主義をベースに、丁寧に説明しており具体的な例も多く観念的でないことから、記号論を勉強してみたいと思っている人、記号論の勉強を始めたがよく分からず挫折した人にとって良い参考書になるのではないかと感じました(残念ながら、日本では、
ベンヤミンは、法を創造する暴力(神話的暴力)に対置して、法そのものを廃棄する「神的暴力」なるものを置いた。前者のわかりやすさに比して、後者はわかりにくい。 「神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり贖わせるなら、後者は罪を取り去る。」(『暴力批判論』岩波文庫p−59) とはいえ、ベンヤミンが挙げる例は乏しい。政治目標の達成する手段としての「政治的ゼネスト」に対して、国家権力そのものの廃棄を実現する「プロレタリア・ゼネスト」の例とか、旧約聖書『民数記』16章のコラーの徒党に対する神の裁きの例が、かろうじてあげられているにすぎない。 前者は、ジョルジュ・ソレルの『暴力論』から借りられたものであり、「政治的ゼネストが法措定的であるのに反し、プロレタリア・ゼネストはアナーキスティックだ」(p−51)とされている。つまり、「プ
Peter Lamarque, "The Death of the Author: An Analytical Autopsy," British Journal Of Aesthetics, 40:4(1990), pp. 319-31. Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology, ed. Peter Lamarque, Stein Haugom Olsen(Blackwell, 2003), pp. 433-41. Aesthetics and the Philosophy of Art: The Analytic Tradition: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies) ラマルク「作者の死 - 分析的検死」という論文を
たしかこの内容は永井均の著書にあったのではないか。調べていないので、既存の学に基づかぬ文としておく。ローティだったかもしれない。 (あまりに論の運びが不明瞭だったのでちょっと修正。2009年7月29日) 相対主義に対して、よく、自己論駁的だという反論がなされる。相対主義の主張に基づけば、相対主義を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。 こんな反論は審級の違いを設定することで、あるいは相対主義の主張はふつうの主張と質的に異なるものだとする(指令だとする)ことで、簡単に対応しかえすことができる。 ところで、同種の反論が独我論に対しても行われることがある。独我論の主張に基づけば、独我論を主張することに意義はなくなるはずだ、というパターンのものだ。 しかし、独我論へのこのパターンの対応も、やはり筋の悪いものだと思う。独我論を主張することに意義がなければならないというのは、過当
前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 [ 分析哲学 ] 思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があることをみた。しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは現実性であって可能性ではない。そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの議論に移る。 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。それが現実の像(独Bild, 英picture, image)である。我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。そして、何かを理解するということは
出版準備中の本、ついに「あとはほぼ あとがき だけ」というところまで来てたんだけど、たった4000字書くのにひと月かかっちゃったよ。 追記:その後、4月に発売されました:ISBN:4779503140 (紹介ページ)おかげでこの間ほとんどなにも手についてない状態。 全方位的にあれこれ滞っていてもうどうしようもない。いろんなみなさま ほんとにごめんなさい。 というわけで、そろそろあれこれ再開しようと思うんですが、まずはちょっとリハビリもかねて、蒼龍先生のこのエントリを dissってみようかな、と思います: ハイデガーにおける論理学と形而上学 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20081115/p1 なぜこのエントリを取り上げようと思ったかというと、蒼龍先生のブログの読者は 認知科学に関心のある人たちだろうから。 認知科学に関心がある人なら その教養リス
* * * * * * * 訳者より ヴィトゲンシュタインは論理哲学論考の本文のはじめに次のような註を附している。 各文の番号としての小数は、当の文の論理的重要度、私の叙述においてその文に置かれているアクセントを示唆する。文 n.1、n.2、n.3 等々は No. n の文への註であり、n.m1、n.m2 等々は No. n.m の文への註、以下同様。 これに従って原文の一部とオグデンによる英訳全篇をハイパーテクスト化して公開しているサイト(www.kfs.org/~jonathan/witt)があるが、それを真似て日本語版をつくってみた。(なお、原文全篇をハイパーテクスト化して公開しているサイト(tractatus.hochholzer.info)もある。) 翻訳に際しては、edition suhrkamp の Tractatus logico-philosoph
相等性(1)は、それに結びついたそう簡単には答えられない問いによって、熟考を招き寄せる。それは何らかの関係なのか? 対象間の関係なのか、それとも対象の名称ないしは記号の間の? 私の概念記法においては、このうちの最後だと私は考えた。それを支持するように見える根拠というのは次の通りだ。a = a と a = b は明らかに相異なる認識価値〔Erkenntniswert〕をもつ文だ。a = a はアプリオリに成り立ち、カントによれば分析的と呼ばれ得る一方、a = b という形式の文は、しばしば我々の認識の非常に有益な拡張を伴い、アプリオリにいつでも根拠づけられ得る訳ではないのだから。毎朝ひとつづつ新しい太陽が昇るのではなく、いつも同じだということは、天文学における最も豊饒な発見のひとつだったのであり、今日においても、小惑星や彗星の再認はいつでも自明のことという訳ではない。ところが、相等性を名称「
論理とは何か? という前に、「それは非論理的だ!」という非難について考えてみよう。 何らかの主張に対して、それが非論理的だという非難は頻繁に行われるが*1、非論理的だという非難の正当だと思える使い方には二つある。一つは、ある主張が矛盾を起こしているとき、その矛盾を指摘して、それは非論理的だと非難することは正当だろう。もう一つが、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていない場合、それは非論理的だと非難することは正しくはある。 後者、つまり、ある主張が論理的に妥当な推論を行っていないことを非論理的と非難する場合、これは前述のとおり正しくはあるが、極めて限定された場合以外は、あまり役に立つ非難ではない。というのは、全面的に論理的に妥当な推論など論理学の演習問題以外では求められていないだろうし、論理学の演習問題以外ではほとんど役に立たないだろうからだ。 もちろん、どのような分野であっても、部分的に論
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