慶応4(1868)年の鳥羽・伏見の戦いで、兵数的に優勢だった旧幕府軍は薩長軍に完敗した。その理由として、旧幕府軍の総大将である徳川慶喜が戦意を喪失したことや、薩長軍が新型小銃を装備していたことを思い浮かべる読者は少なくないだろうが、それは史実に反している。 大阪城にいた徳川慶喜は、1月3日に戦端が開かれて以来、少なくとも翌4日までは特に動きを見せていない。しかし、5日になると前線から敗報が届くようになり、さらに6日には敗残部隊が続々と大阪城に退却してきたために、同日夜に軍勢を見捨てて脱出したのである。つまり、慶喜が戦意を喪失したせいで敗れたのではなく、鳥羽・伏見の戦いに敗北したから、慶喜が戦意を喪失したという構図である。 また、薩長軍が新型(欧米列強では既に旧式だが)の前装式ライフル銃(いわゆるミニエー銃)を装備する一方で、旧幕府軍には、会津藩兵や新選組などの刀槍を主装備とする旧態依然の部