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ブックマーク / number.bunshun.jp (12)

  • 「これでもアイドルだったのよっ」芸能界を引退し“男だけの”相撲界へ…元・高田みづえが32年間のおかみさん業を“卒業”するまで(佐藤祥子)

    2022年初場所を終え、あるひとりの女性が、相撲部屋のおかみさんを“卒業”した。人気大関だった若嶋津の伴侶である、元実力派アイドル歌手の高田みづえ――日高みづえさんだ。 1977年、『硝子坂』でデビューし、『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』で2度のレコード大賞金賞を受賞。85年に、当時大関だった同郷の若嶋津と24歳で結婚し、同時に並々ならぬ覚悟で芸能界をきっぱりと引退する。90年2月、千葉県船橋市に松ヶ根部屋(当時)を興した夫に寄り添い、華やかな芸能界と対極にあるかのような相撲界――男だけの修業の世界を裏から支える”おかみさん”となった。 2014年に、夫は一門総帥の“二所ノ関部屋”を継承。このたびの定年退職にあたり、32年の長きにわたり掲げて来た相撲部屋の看板を下ろした。夫と弟子たちを、小柄な体と底抜けの明るさで支えてきた“薩摩おごじょ”だ。「まだ、どうしても私の名前が目立ってしま

    「これでもアイドルだったのよっ」芸能界を引退し“男だけの”相撲界へ…元・高田みづえが32年間のおかみさん業を“卒業”するまで(佐藤祥子)
    aniyan53
    aniyan53 2022/09/11
    おもろい
  • 羽生善治九段が「一局指したかった」伝説の最強アマ ヤクザトラブル、金の持ち逃げ、駆け落ち…「新宿の殺し屋」と呼ばれた真剣師(小島渉)

    将棋界には“賭け”で生計を立てるものたちがいた――。「勝てば1万円、負ければ12万円」というようなレートで勝負を繰り返した“真剣師”とはどんな男たちだったのか? 「新宿の殺し屋」と呼ばれ、羽生善治九段も「不思議な魅力を感じた」という小池重明の人生を追う(全3回の2回目/#1、#3へ)。 「新宿の殺し屋」小池重明 平成初期でも現役だった真剣師に、「新宿の殺し屋」小池重明(1947~1992年)がいる。アマプロ戦は角落ちのハンデが妥当と思われていた時代に棋士を平手(ハンデなし)で転がし、「プロ殺し」の異名がついた。A級棋士で名人挑戦経験者、対局直後に棋聖の初タイトルを獲得した森けい二八段(現九段)にも勝っている。アマチュア大会では全日アマチュア名人戦で優勝2回、読売アマ実力日一で優勝1回の実績を残している。だが、駆け落ちするたびに世話人の金庫から金などを持ち逃げしたようで、賞金目当てに大会

    羽生善治九段が「一局指したかった」伝説の最強アマ ヤクザトラブル、金の持ち逃げ、駆け落ち…「新宿の殺し屋」と呼ばれた真剣師(小島渉)
    aniyan53
    aniyan53 2022/08/14
  • 【写真】「7二銀で詰みますよ!」藤井聡太三冠のスゴさと大はしゃぎに癒される… 観る将マンガ家が描く《9月の将棋ハイライト》(千田純生)

    「7二銀で詰みますよ!」藤井聡太三冠のスゴさと大はしゃぎに癒される… 観る将マンガ家が描く《9月の将棋ハイライト》

    【写真】「7二銀で詰みますよ!」藤井聡太三冠のスゴさと大はしゃぎに癒される… 観る将マンガ家が描く《9月の将棋ハイライト》(千田純生)
    aniyan53
    aniyan53 2021/10/03
  • 堀米雄斗は22歳で「年収億単位&ロスに豪邸」…スケボーはなぜ“食えるスポーツ”になったのか?〈10億ドル産業〉(梶谷雅文)

    7月25日、有明アーバンスポーツパークに日の丸の旗が高々と掲げられた。その光景を表彰台から見つめるのは、五輪新競技のスケートボード男子ストリートで金メダルを獲得した堀米雄斗。この偉業をきっかけに日でスケートボードの認知度が瞬く間に高まり、堀米に世間の注目が集まった。彼が地上波、ネットニュースやソーシャルメディアを賑わしたのはご存知の通り。「22歳にして年収は億単位」「移住したロサンゼルスに1億円の豪邸」など、さまざまな噂が巷を騒がしている。 「所詮、子どもの遊び」と見なされてきたスケートボード。現在、世界的に10億ドル産業と言われている。ではなぜ、このような大金を稼げるようになったのだろう。急成長を遂げたその背景を探るには、海を越え、スケートボード発祥の地であるアメリカ西海岸に目を向ける必要がある。 最初は「アウトサイダーの駆け込み寺」だった そもそも70年代から90年代半ば頃まで、アメ

    堀米雄斗は22歳で「年収億単位&ロスに豪邸」…スケボーはなぜ“食えるスポーツ”になったのか?〈10億ドル産業〉(梶谷雅文)
    aniyan53
    aniyan53 2021/08/05
  • 藤井聡太19歳に “泣きながら勝った小学校3年生”から10年弱で… タイトル経験者に「力負け」と言わしめる成長の源とは(NumberWeb編集部)

    雑誌「Sports Graphic Number」と「NumberWeb」に掲載された記事のなかから、トップアスリートや指導者たちの「名言」を紹介します。今回は19歳となった藤井聡太王位・棋聖(二冠)にまつわる4つの言葉を写真とともに紹介します。 <名言1> 強くなる、という目標は変わりません。 (藤井聡太/Number1010号 2020年9月3日発売) ◇解説◇ 2020年、コロナ禍の日列島を沸かせたのは17歳から18歳に差し掛かった時期の棋士・藤井聡太だった。将棋史上最年少となる数々の快挙は説明する必要もないだろう。 そういった実績や記録面以上に――棋聖と王位というダブルタイトルを手にしても、そのコメントは18歳に似つかわしくなく謙虚かつ冷静で、何より一意専心であることも人々の心を打った。 年齢による比較や段位などの肩書について興味を示すことはなく、見据えているのは「将棋を強くなる

    藤井聡太19歳に “泣きながら勝った小学校3年生”から10年弱で… タイトル経験者に「力負け」と言わしめる成長の源とは(NumberWeb編集部)
    aniyan53
    aniyan53 2021/07/20
  • 「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?(細田昌志)

    昨年秋に上梓した『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)の取材過程において、筆者は主人公野口修の口から、多くの人物の知られざる一面を聞いた。父親の野口進や“戦後最大の黒幕”児玉誉士夫。“ゴッドハンド”大山倍達。“キックの鬼”沢村忠や“国民的歌手”五木ひろしの前半生も興味深いものがあった。 その中において、責了後なおも筆者の関心を惹いて止まなかったのが、野口修が少年時代に出会った嘉納健治である。 射撃の名手「ピス健」=嘉納健治とは何者か? 大正から昭和前期にかけての神戸の大物やくざにして「ピス健」と呼ばれた射撃の名手。野口修の父・野口進も所属した大日拳闘会の会長。前稿でも詳述したように、日に拳闘(ボクシング)興行を根付かせた功労者の一人でもある。

    「山口組みたいなもん」「灘中の運動会で実弾撃ってた」日本にボクシングを広めた“大物ヤクザ”「ピス健」とは?(細田昌志)
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    aniyan53 2021/02/14
  • “名誉の切腹”を逃し、「川淵三郎」カードも失ったが…森喜朗会長後任問題、藤井聡太二冠並み“妙手の条件”とは(金子達仁)

    大昔、神戸市立乙木小学校将棋クラブ部長だった人間からすると、NumberWebに掲載されていた『藤井聡太はもはやAIを超えたのか? 衝撃の一手「△3一銀」を振り返る』は実に興味深い読み物だった。 なにしろ、藤井七段(当時)が23分間の考慮で指し、敗れた渡辺棋聖が勝敗の分かれ目だったと振り返った一手は、将棋ソフトに4億手を読ませても顔を出さず、6億手読ませると突如最善手にして現れるものだった、というのだ。 恐るべし△3一銀。だが、伝説となったこの一手も、一手早ければ、あるいは一手遅ければ、ただの凡手、もしくは悪手になっていた可能性がある。 森会長は冗談のネタにできると考えた だとすれば、森喜朗会長の女性蔑視ととられかねない発言から始まった一連の騒動は、一手ズレた『3一銀』なのかもしれない。20年6月28日に藤井七段が打った伝説的な一手とはいかないまでも、十分な効果を秘めたはずの一手は、妙手ど

    “名誉の切腹”を逃し、「川淵三郎」カードも失ったが…森喜朗会長後任問題、藤井聡太二冠並み“妙手の条件”とは(金子達仁)
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    aniyan53 2021/02/13
    金子達仁
  • 赤ん坊なのに「大人言葉」、毎日8冊超速読…父が明かす糸谷哲郎八段伝説【故・村山聖九段との指導対局も】(沢田啓明)

    「僕の東京駐在が終わり、哲郎が4歳のとき、広島へ戻ってきた。5歳の頃、哲郎と一緒にテレビを見ていたら、将棋が出てきた。で、『お父さん、将棋って何?』って聞くんだ。僕は将棋は全然詳しくなかったけれど、駒の動かし方だけは知っていた。それだけ教えたら、すぐに覚えた。それから、入門書を一生懸命読んでいた。 しばらく親子で対局していたんだけど、すぐに僕は哲郎に歯が立たなくなった。それで、会社の同僚から彼の息子が通っていると聞いて、広島将棋センターへ連れて行った。幼稚園が終わると将棋センターへ連れて行き、午後、仕事帰りに僕が寄って連れて帰った」 (※広島市の中心部にある広島将棋センターは、腎臓の難病に苦しみながら名人を目指し、志半ばにして29歳で壮絶な死を遂げた故・村山聖九段らを輩出した由緒ある将棋道場である) 哲郎は、負けてよく泣いていた ――なるほど。5歳にして、格的に将棋を始めたわけだな。

    赤ん坊なのに「大人言葉」、毎日8冊超速読…父が明かす糸谷哲郎八段伝説【故・村山聖九段との指導対局も】(沢田啓明)
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    aniyan53 2021/02/07
  • 野生児テベスが“貴婦人”に電撃加入。ユーべ10番の重責と大胆4トップ構想。(弓削高志)

    移籍市場の格解禁を前に、FWカルロス・テベスがユベントスへ電撃加入した。待望の大物ストライカー獲得によって、“貴婦人”は来る新シーズンにセリエA3連覇とCL上位進出を狙う。 ただし、昨年夏の前主将デル・ピエーロ退団以来、空き番とされていた背番号10が、テベスに与えられたことが波紋を呼んでいる。“ユーベの10番”を背負う意味は、決して軽くない。 テベスの実績は圧巻だ。2004年の得点王に輝いたアテネ五輪は、アルゼンチンの金メダル獲得に貢献し、'06年の渡欧後もCLやプレミアリーグ優勝、FAカップなどメジャータイトルを総なめにしてきた。クラブW杯もボカ・ジュニオール時代とマンチェスター・U時代に2度制覇している。 FWとしての能力も疑いようがない。173cmと小兵ながら筋骨隆々、類い稀なドリブル技術と距離を問わないシュートの切れは鋭い。無骨なれど得点感覚に優れ、センターフォワードから右サイド

    野生児テベスが“貴婦人”に電撃加入。ユーべ10番の重責と大胆4トップ構想。(弓削高志)
    aniyan53
    aniyan53 2013/07/12
    品行方正からはほど遠いテベス
  • F1で日本人エンジニアのバトルが!松崎淳と小松礼雄の頭脳戦を覗く。(尾張正博)

    バーレーンGPの決勝レース。前を行くフォース・インディアのディ・レスタと、それを追うロータスのロマン・グロージャン。 バーレーンで、2人の日エンジニアが、レース終盤に表彰台を賭けて戦った。 ひとりはフォース・インディアに所属する松崎淳である。フォース・インディアに移籍する前、松崎は日の企業に所属していた。F1がやりたくて選んだ会社がブリヂストンだった。 「就職活動をしていた大学4年生のころ、1冊のに出会って、モノづくりの面白さを再確認したんです。それは田宗一郎さんの著書で、F1への思いが強くなりました」 大学で物理を専攻していた松崎は、機械工学科の学生たちが多く採用される自動車会社ではなく、タイヤ会社を選択。当時、ブリヂストンはまだF1に参戦していなかったが、面接官とのやりとりから「近い将来、F1へ挑戦する計画がある」ことも確認していた。 松崎が入社して4年後、ブリヂストンはF1

    F1で日本人エンジニアのバトルが!松崎淳と小松礼雄の頭脳戦を覗く。(尾張正博)
    aniyan53
    aniyan53 2013/05/11
    チームの頭脳戦
  • F1界のプロフェッショナリズムとは?ヒュルケンベルグと可夢偉の有終。(尾張正博)

    ブラジルGPで、攻めに攻め続けたヒュルケンベルグがクラッシュした瞬間。ドライバーの安全性が高まったとはいえ、これだけアグレッシブな走りをするのは間違いなく“命懸け”のレベル。 ヒュルケンベルグの野望を砕いたのが、可夢偉だった。 その後、47周目まで29周に渡ってトップを走り続けたヒュルケンベルグ。しかし、このヒュルケンベルグの野望を打ち砕いたのが、可夢偉だった。 たとえヒュルケンベルグが優勝して25点を稼いでも、ザウバーも入賞して加点すれば、25点差を逆転されることはない。ヒュルケンベルグがトップを走っていたころ、可夢偉は入賞圏内を走行していた。 じつはザウバーにとっても、最終戦はコンストラクターズ選手権において重要な一戦だった。それは選手権5位のメルセデスAMGと12点差で迎えていたからである。 メルセデスAMGは中国GPで優勝しているため、ザウバーが逆転するにはブラジルGPで13点以上

    F1界のプロフェッショナリズムとは?ヒュルケンベルグと可夢偉の有終。(尾張正博)
    aniyan53
    aniyan53 2013/04/12
    #f1
  • <語り継がれる天才ライダー> 「ノリック、転ぶな!」~阿部典史、2つの鈴鹿グランプリ~(小堀隆司)

    生涯で残した成績を振り返ると、突出して速いライダーではなかった。 だが、彼のレースを思い出すとき、その印象は鮮烈としか言いようがない。 '90年代半ば、ノリックは紛れもなくレース界のスーパースターだった。 ファンに驚きと感動をもたらした'94年と'96年の鈴鹿のレースを 関係者の証言とともに再現する。 空前にして、絶後――。 国内で開催されたグランプリ最高峰クラスのレースで、観客が総立ちになって拳を突き上げるなど、後にも先にも見たことがない。視線を一点に集めた先に、ヘルメットから後ろ髪をなびかせた日人ライダーがいた。 ノリックこと、阿部典史。 '90年代のバイクシーンを、熱狂の色に染めた一人だ。とりわけ'94年と'96年の日グランプリは、ノリックの、ノリックによる、ノリックのためのレースだった。 彼はなぜファンの支持を一身に集め、時代の寵児となり得たのか。 まずは、'94年4月24日の

    <語り継がれる天才ライダー> 「ノリック、転ぶな!」~阿部典史、2つの鈴鹿グランプリ~(小堀隆司)
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