1980年7月17日、大阪球場で行われた南海戦に先発したロッテの奥江英幸投手。だが、それよりも注目してほしいのは3塁側のスタンド。見事なまでに観客がいない! ちなみにこの試合の観客数は9000人と発表になっている 2020年のプロ野球が始まった。6月19日、神宮球場のヤクルト-中日戦。1回裏、中日のダヤン・ビシエドがヤクルトの左腕石川雅規から2020年の初本塁打を打った。打球は人のいない右翼席で弾んだ。この光景を見て、年配の野球ファンは懐かしいような感情を覚えたのではないか。 昭和の時代、プロ野球で観客席がいっぱいになるのは巨人戦だけ。他のカードは当日行って入れないことはまずなかった。特に、パ・リーグの試合は、いつも閑古鳥が鳴いていた。 南海ホークスは野村監督の時代は多少ともお客が入っていた。大阪球場を入ってすぐの駐車場には、野村監督の愛車、モスグリーンのリンカーンコンチネンタルが止まって
老害張本勲は、これまでの歴史から鑑みると、基本的に野村克也氏が嫌いで嫌いでしょうがないんですよ。 老害張本勲は最多安打3085本と盗塁は凄いけど、それ以外は野村克也氏の方が圧倒的にすごい成績を残してるからね。しかも老害張本勲の経験したことのない、監督でも野村克也氏は成功してるわけですから。 野村克也氏が亡くなった状況で、ネガティブな話題は必要ないと思うけど、結局故人に対してもマウント取りたいんでしょう。けつの穴の小さい老人だ。 まあ、老害張本勲と野村克也氏の関係をよく表すお話を、野村克也氏の講演から引用します。 昔のパ・リーグにはいろんな個性的な選手が居ました。名前は出せないんですが、誰もが名前を知っている大打者の話です。 彼と私とではチームが違ったんですが、どっちも若い頃からオールスターの常連だったんでそういった舞台では同じチームの一員として戦ったんです。 オールスターゲームが終わったあ
金田正一さんが亡くなった。享年86。現役時代は国鉄スワローズ~読売ジャイアンツを通じて通算400勝298敗、365完投、奪三振4490、投球回数5526と2/3。打者としても38本塁打(うち2本は代打)を放ち、ピッチャーなのに8回も敬遠されるなど、叩き出した数字のすべてが規格外。まさに球界のレジェンドオブレジェンドである。 観る者をヒヤヒヤさせる「カネやん」の記憶 記録以外にもその徹底した健康管理術や走り込みを中心とした練習法など逸話の多い金田さんだが、引退したのは50年前の昭和44年なので、現役時代を知る方は若くても50代後半以上ということになる。それより下の世代の野球ファンにとっては、何かというと判定に抗議し、乱闘騒ぎをしょっちゅう起こし、時には審判や相手選手に蹴りを入れた2度のロッテ監督時代、自らが立ち上げた名球会入りする選手に記念のブレザーを着せてあげる姿、そしていつも豪放磊落にふ
国鉄から巨人へと加入した金田正一(中央)。ONという偉大な打者と対戦して、そのすごさを実感したからこそ移籍を決断した。 後年の野球ファンから見れば、金田正一は長嶋茂雄、王貞治などとともに「昭和の大選手」というカテゴリーにひとくくりにされることになる。 しかし、金田正一は当時、ONとは別格の存在だった。それだけに、猛烈な敵愾心を燃やして2人と対戦したのだ。 金田がプロ入り前から高い注目度を誇っていたエピソードがある。1950年の春、金田はまだ享栄商の野球部にいた。すでにその豪腕ぶりは鳴り響き、南海、中日などのスカウトが触手を伸ばしていた。 この年に創設された国鉄スワローズの監督、西垣徳雄は、その目で金田の投球を見て驚き、当時の国鉄総裁・加賀山之雄に直談判をして20万円という支度金(契約金の一部)を用意して金田の父を説得したという。 その年の1月に1000円札が初めて発行されたが、当時はまだ普
こんにちは。佐藤奨(さとうつとむ)です。 最近のスポーツチームのSNSを見ていて、「読売ジャイアンツ」ヤバい、最強と思ったので、本日は、その辺りを書きます。 最近のジャイアンツのSNSが最強な理由 最近のジャイアンツのSNSで発信される情報が最強すぎて震えている。もう、これで、過去のレジェンドとかも含めた高い品質のコンテンツまでSNSで流しはじめたら、同じ土俵で勝てるチームは存在しなそうです。ジャイアンツがより人気になるようにフィットしてきた。まだ、ジャイアンツのYoutubeは伸び代ありまくりに見えますけどね。 ここで言うSNS情報とは、何を指しているのか。2つご紹介します。 今季で引退を発表した阿部慎之助捕手の、最後のスタメンマスクをかぶるところまでを抑えた映像をSNSで発信。はい。最強です。 今季限りでの引退を表明している #阿部慎之助 選手が、 #東京ドーム 最終戦のきょう、158
西武×ヤクルト "伝説"となった日本シリーズの記憶(15) 【指揮官】ヤクルト・野村克也 前編 (前回の記事はこちら>>) 四半世紀の時を経ても、今もなお語り継がれる熱戦、激闘がある。 1992年、そして1993年の日本シリーズ――。当時、"黄金時代"を迎えていた西武ライオンズと、ほぼ80年代のすべてをBクラスで過ごしたヤクルトスワローズの一騎打ち。森祇晶率いる西武と、野村克也率いるヤクルトの「知将対決」はファンを魅了した。 1992年は西武、翌1993年はヤクルトが、それぞれ4勝3敗で日本一に輝いた。両雄の対決は2年間で全14試合を行ない、7勝7敗のイーブン。あの激戦を戦い抜いた、両チームの当事者たちに話を聞く連載の8人目。 第4回のテーマは「指揮官」。前回の西武・森祇晶に続き、今回はヤクルト・野村克也のインタビューをお届けする。 1993年は長嶋茂雄監督率いる巨人とペナントを争った野村
スワローズが好きな理由はいろいろあるのですが、外せないのは、マスコットキャラクター・つば九郎の存在。「野球のルールはよくわからないけど、つば九郎は知ってる」という方もいるのではないでしょうか。 <つば九郎プロフィール> プロ野球チーム、東京ヤクルトスワローズのマスコットキャラクター。マスコットキャラクターでありながら、選手や始球式で登場した芸能人をいじったり、他球団のマスコットキャラクターにいたずらしたりと、その自由すぎる言動とキャラクターが人気を集めている。 つば九郎の魅力は、かわいらしい外見だけではなく、自由奔放な性格にあります。声を出してしゃべれないため、スケッチブックに文字を書いて発言するのですが、スワローズの選手をいじったり、時事ネタを取り入れたブラックジョークを言ったりと、球場の笑いをかっさらうこともしばしば。「スケッチブック芸」は、今や試合前の見どころの一つです。 しかし、尖
1994年にスーパーファミコン用ソフトとして第一作が発売されて以降、来年にはシリーズ25周年を迎える『実況パワフルプロ野球』(以下、『パワプロ』)。 最新作『パワプロ2018』では「VRモード」が実装されるなど、シリーズを重ねるごとに新たな要素が追加されているが、第1作目からずっと変わらないものがある。 それは、実名のプロ野球選手に“能力データ”が設定されていることだ。 自分がひいきにしている選手の能力が低いと「もっとすごい選手なのに……」とグチりたくなるし、能力が高く設定されていても「わかってないな〜」とひとこと言いたくなる「選手の能力データ」は、開発チーム独自の査定によって設定されているとのこと。 この“能力データ”は、プロ野球界でも、選手が冗談交じりに「自分の能力に納得がいかない」と不満を語るケースもあるようだ。 では実際、プロの視点から『パワプロ』の能力データを見た場合、どのように
結局“残酷ショー” 8月21日に閉幕した全国高等学校野球選手権大会。決勝に進んだのは、2度目の春夏連覇を目指す強豪の大阪桐蔭と、地元の生徒だけで構成された秋田の県立金足農業だった。 “プロ部活 vs 昭和の野球”──事前のそうしたアングルはやはり視聴者に強い判官贔屓を引き起こした。が、結果は13対2で大阪桐蔭の圧勝、金足農業の惨敗に終わった。 このとき多くの野球ファンが試合前から心配していたのは、金足農業のエース・吉田輝星投手のことだ。県大会からひとりで投げぬいてきた吉田投手は、この試合まで甲子園で5試合を完投し749球を投げていた。これまで多くの有望な投手を潰してきた甲子園で、またひとり被害者が出ることが危惧されていた。筆者も、試合3時間前に公開した記事の最後でこう書いた。 吉田投手が潰れないことを祈る──。 出典:夏の甲子園“投手ぶっ壊しコロシアム”の解体方法──スポーツとしては時代遅
「オッサンには、よう小言を言われましたワ。『オマエは大振りし過ぎる』『ホームランなんて打たんでエエ。四球でもヒットでも、ワシの前に塁に出ること。それがオマエの仕事や』とね。入団当初、オレが3番を打ってあの人が4番を打っとった。オレがホームラン打ったら『打点が稼げなくなるから打つな』ということです。どこまでも自分が一番。そんなけったいな選手が、あの頃のパ・リーグ、特に関西の球団にはゴロゴロおりました」 門田博光が活躍した時代 写真と年表を公開中 「小さな巨人」「不惑の大砲」「ホークスの4番」――。’70年代~’90年代に、そう呼ばれファンに愛された漢がいる。40歳で本塁打王と打点王の2冠を獲得し、南海、オリックス、ダイエーで23年間フルスイングにこだわり続けた御年70歳の門田博光である。門田が南海に入団したのは’70年。当時ホークスで選手兼監督をしていたのは、門田が「オッサン」と呼ぶ野村克也
残念な気持ちになった。 8月7日の巨人戦(東京ドーム)。阪神打線が巨人先発内海を打ち込み、5回途中でKOした。すると交代を告げられて小走りでベンチへと戻る内海に、左翼スタンドから「さよなら、さよなら内海」というコールが起きた。その後は蛍の光の大合唱。しばらく球場に響いたが2番手田原の登場曲にかき消され、正直ほっとした。 確かに内海は阪神にとって天敵中の天敵だった。試合前まで今季2戦2敗。通算27勝を挙げられていた。苦汁をなめてきた左腕だけに、KOした喜びは大きかった。ただ、だからこそ。打った阪神打線を目いっぱいたたえてほしかった。相手をけなせば、その価値も落ちてしまう。まして夏休み期間で、子どもたちが多く来場している。いまだになくならない「くたばれ」の言葉も“ギャグ”の範囲を超えていると個人的には感じてしまう。 今季は甲子園のビジョンにOBの桧山進次郎氏が登場し「子どもに聞かせられないヤジ
午後4時。東京ドームのバックヤードには、華やかなユニフォームを身にまとった女性たちが集まっていた。 彼女たちは鏡に向かって手際よくメイクを整えると、次々とバックヤードの通路に腰を下ろした。サントリー製品の売り子たちだ。 仲間と明るく笑顔で話すさまは華やかではあるが、どことなく緊張感も漂っている。 「みなさん、お疲れ様です!」 担当者の話が始まると、彼女たちが一斉に顔を上げた。花が咲いたようだ。 「今日はソフトバンクさんの主催試合です。4万5千人、ほぼ満員が見込まれています。お客様が多いので、階段の上り下りなど十分に注意してください。また、観戦障害にならないよう、販売のときにも注意してください。本日は団体のお客様も多いので、領収証の準備を忘れないように。ペンも用意してください」 てきぱきとした指示があって、彼女たちは最後の準備に取りかかった。 体力的にも、精神的にも生半可な気持ちでは務まらな
最近では、経済的負担も問題になってきているがんの医療。がん患者でも受給できる可能性がある障害年金について、受給の条件、相談先などを語っていただきます。
「サッカー派? 野球派?」 誰しも1度はこんな議論をしたことがあるのではないだろうか。筆者は長らく「サッカー派」と答えてきた。なぜならJリーグの横浜F・マリノス(以下、マリノス)のサポーターであるからだ。サポーター歴は15年以上になり、これまでに全国各地のスタジアムに足を運んできた。 一方、野球の観戦回数はわずか2回。まだイチロー選手が日本にいたはるか昔に、東京ドームで観戦したのが1回と、社会人になって勤めていた会社が明治神宮球場のスポンサーだったことから、仕事の一環で観戦したのが1回だ。見たことがあるとはいえ、野球のルールがわからない筆者は、セ・リーグとパ・リーグの球団名すら答えることができないのだ……。しかしアラサーになった今、そんなことも知らないのはさすがに大人の教養としてどうなんだろうと考えるように。それよりも、サッカーと野球の両方を楽しめる人生のほうがいいのではないか? そこで、
2131試合連続出場を果たした衣笠祥雄さん。花束を渡したのは阿南準郎監督と、若かりし日の落合博満さんだった。 衣笠祥雄さんは4月19日、BSでDeNA-巨人戦の解説をした。しかしその声はいつにもまして甲高く、かすれて木枯らしのようだった。風邪でも引いたのか、体調が悪いのか気をもんだが、旬日を経ることなく訃報が届いた。 死の直前まで、解説の仕事を続けた。衣笠さんは引退してからも「鉄人」であり続けたのだ。 衣笠祥雄は、一匹狼ではなかった。終生のライバルを持ち、弱いチームを自らの力で強豪へと押し上げた野球人だ。何よりもそれが偉大だった。 NPB史上で、15年以上一緒にプレーをして、そろって1000本安打、200本塁打をクリアしたコンビを列挙する。 <広島 衣笠祥雄、山本浩二 18年(1969-86年)> 衣笠祥雄 2332試合 8513打数 2318安打 463本 1333点 打率.272 山本
日本のプロ野球でただ1人、3000本安打を達成するなど、球界を代表する打者として活躍した張本勲さん(77)。5歳のとき、出身地の広島市で被爆、姉を失いました。現役時代はもちろん、引退後もしばらくは自分が被爆者であることを周囲に語らなかった張本さんですが、10年ほど前のある出来事をきっかけに、みずからの被爆体験を積極的に若い世代に語り伝えようとしてきました。張本さんの野球人生に、原爆はどう影響したのか、被爆体験を語らせるよう張本さんを突き動かしたものは何だったのか。そして、戦後72年が経ったいま、被爆者として何を思い、何を伝えようとしているのかを聞きました。(アナウンス室・北野剛寛アナウンサー) 昭和20年8月6日の朝。5歳だった張本さん。広島市の自宅から遊びに行くため戸を開けようとした瞬間でした。 それこそピカドン、本当にぱあっと光って、どーんという音がしたことしか覚えていないんですよ。気
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夏の甲子園、49代表がそろった。連日猛暑日が続く。高校球児、審判、観客、報道各位には十分に水分をとっていただき、ご自愛されたし。 今年は1915年に夏の甲子園が始まって102年目、甲子園で大会をするようになってちょうど100年、途中米騒動や戦争で開催されない年もあったので「99回大会」。 およそ1世紀の歴史の中には古豪、強豪、名門、新興、多くの学校が出場し、あまたのスター選手を輩出した。 私はここ数年、春夏の甲子園の勝利数をもとに「高校野球番付」を作っている。 近畿地方以西を「西方」、中部地方以東を「東方」として、勝利数の順番(同数の場合は優勝回数)で、番付にしていた。 1年ごとに更新して現在に至っているが、今年はちょっと大きな出来事があった。大阪府のPL学園が、高野連に脱退届を出したのだ。 これまでも、甲子園出場校で出場資格を失ったケースはいくつかあった。 戦前の強豪校で、戦後、日本領で
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