2020年6月5日のブックマーク (2件)

  • 『スーパーの女』(1996) - 仮文芸

    伊丹十三の後期三部作『ミンボー』『スーパー』『マルタイ』が試みたのは近代の捕捉であった。これらの物語は近代の宿った心の状態を勇気と定義する。ヤクザとカルトという非近代の襲来を受けた経理マンと女優は、自分の奥底に眠る勇気を発見したのだった。 『ミンボー』『マルタイ』と比べると『スーパー』の非近代は日常ベースである。暴力というわかりやすい形を取らない。だからこそ、近代の捕捉が際立ってくる。作者に問われるのは、襲来する未近代が人々の勇気を駆り立てる状況の形成である。『スーパー』では不正の発見が人々の勇気を試すことになる。精肉のリパック問題である。 精肉部を仕切る職人の六平直政はパート連にリパックを強いる。パートさんにはこの不正が耐えがたいが六平が怖い。ここに宮信子が介入する。 宮は津川雅彦のスーパーに近代をもたらすべく招致された。この人は超人だから憚ることなくミーティングでリパックを告発する

    『スーパーの女』(1996) - 仮文芸
    atoz
    atoz 2020/06/05
    「宮本にはハイヌーンのゲイリー・クーパーや3:10 to Yuma のクリスチャン・ベールのような、保安官の意気地ともいうべき心性が投影されている」
  • マークの残酷さ

    かつて90年代の終わりから2000年代のはじめ、まだMMAや立ち技とプロレスは境目なく見られていた。しかしプロレスを格闘技として信じうるものと見るには限界があり、その慣習を覆そうとする言説があった。 その言説は、もはや格闘技のように信じうるものというプロレスが時代にも合わなくなり、いわばメタな楽しみ方を提示しようとしていた。アティチュード路線のWWEが活況を呈していたことを参考に内幕を理解したうえで、各団体が打ち出していくことを楽しむみたいな意図だったと思う。 言説で大きなもののひとつは、プロレスを捉える観客のレベルを説明する言葉だった。勝敗や試合展開など決められているプロレスを、当の試合だと思い、当のストーリーだと捉える層をマークというそうだ。 対照的にプロレスの内幕をすべて理解している層をスマートという。この層は関係者に関わるレベルでもあり、わずかしかいない。少し賢しらな観客でも、

    マークの残酷さ
    atoz
    atoz 2020/06/05
    「まだ虚実があいまいなものの豊穣さについて考えていたいところはある。だけどここには豊穣な可能性はどこにもなかった」