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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (13)

  • ララビアータ:ムハンマドの奇跡 - livedoor Blog(ブログ)

    預言者ムハンマドは、あるとき多くの信徒の前で言った。「決して揺るがぬ信仰心を持ちなさい。それさえあれば、あの山をひざまづかせる事もたやすい。」そこで彼は、山を動かそうと一心に祈った。そうすると何と、山は… 山はびくともしなかった。 固唾をのんで見守っていた信徒たちの前で、ムハンマドは少しもあわてず言った「山がここへ来ないのなら、私が山の方へ赴こう。」 この逸話は、何を意味しているのであろうか? ムハンマドが大法螺ふきのペテン師だった事を示しているのであろうか? 決してそうではない。 信仰が動かなければ、山が動く。山が揺るがなければ、信仰が揺らぐ。この因果が中断されるのだ。はじめ人々の関心は、多少の期待を込めて、山が動くかどうかに集中している。だが、山が動かぬとわかってからは、今度は信徒たち、ひいてはムハンマド自身の信仰がこれで揺らぐかどうかに、関心の焦点は移動する。しかし、いずれも動かない

    bhikkhu
    bhikkhu 2007/03/17
    ちょっとワロタ
  • ララビアータ:ジルベルトの黒い瞳 - livedoor Blog(ブログ)

    善の価値判断に当たっては、我々は理由を示して説得ができなければならない(説得が成功するかどうかはともかく)。単に、そう思うから、そう感じるから、というのであってはならない。 この際、われわれが列挙する理由は、われわれの「善の理論」(または、その原理からの演繹)ではないだろう。むしろ、その判断対象、その行為の細部を示して、それがなぜそうした価値判断にふさわしいのか説得するのである。マクダウエルは、善の価値判断を恐怖心の場合と類比して、恐怖心を対象の危険性を示して説明する説得と比べている(Mind,Value,Reality p-143~144)。恐怖心の場合も、対象が危険であるゆえんを説得する事で、それが恐怖心をもつに値するゆえんを説明(説得)出来るのである。恐怖心を感じるのはある意味で主観的であるが、対象の有様に対する態度としてふさわしい(またはふさわしくない)態度として、批判的評価の対象

  • ララビアータ:左翼の言語戦略(2) - livedoor Blog(ブログ)

    (つづき) (以下、左翼の言語戦略論のつづきを、続けようと思っていたが、思いがけぬ懇切な批評を稲葉振一郎氏とやまがた氏からいただいた。二氏の論点の中には、この続編の論点に密接に関わるところがあると考え、当初発表しようとしていたそのままの形で急遽公表し、更なるご批評に待ちたいと考える。二氏のご批判を受け止めて私論を変更する必要が出てきた場合には、そのときにあらためてその点を公表したい。とりあえず、たたき台として、当初のままで公表するという事であるが、それは諸氏のご批判を、わたくしが無視してよいと考えているからではない。その点ご理解いただきたい。) (質流出説) さて、しかしこのような一種、知識社会学的な言語戦略は、すべての言説をその実存的・社会的基底に還元する「基底還元主義」と同一視されてはならない。「基底」をめぐる言説にも、既に不可避に政治的闘争と敵対性が内包されているのに、それを自明の

  • ララビアータ:左翼の言語戦略(1)

    拙著『読む哲学事典』(「保守主義と左翼」p−206)で、左翼と右翼の対立点を、主張内容の違いではなく、政治的対立についてのメタ認識の違いとして規定した。つまり、たとえば税制で、直間比率をどうすべきかとか、労働雇用契約で、労働市場の流動性を重視すべきか、それとも雇用の安定を重視すべきか、などの実質的内容の違いではなく、そのような対立を、政治共同体にとって外的なものと見るか、それともいかなる共同体にとっても何らかの対立が不可避のもの・内在的なものであると見るかの対立であると規定した。 すると今や、左翼にとって、その言語戦略を明らかにする事が、きわめて重要なものとなる。左右の違いは、何よりもそれぞれの言説戦略の形式の違いに鮮明に現われるからである。 (Heideggerを少々) 左翼の論争が、しばしば人格攻撃に及び、それが論争の基盤自体を構成する信頼関係を掘り崩してしまう結果、繰り返し不毛な分派

  • ララビアータ:子規 - livedoor Blog(ブログ)

    いつもの研究会での雑談で、Nb氏が言った。 ――最近、芭蕉の『奥の細道』などを読んでるんだけど、註釈が文の倍以上あって、杜甫だとか、西行だとか、踏まえるべき古典の背景的知識がいっぱいあるのね。註釈と一緒に読めば、一応その含蓄はわかるけど、次の日になるとすっかりその背景を忘れちゃってるから、元の木阿弥。 T――芭蕉の有名な句に、「古池や/かはづ飛び込む/水の音」というのがあるけど、あれなんかも、背景の文学史的伝統を知らないと、まるでその含蓄がわからないものらしいよ。何でも、「かはづ」は伝統では、常に「田んぼ」と対になって現れるものらしいんだ。だから、「かはづ」と「古池」の取り合わせは、手術台の上でミシンとこうもり傘が出会うような斬新さがあるわけなんだね。 Nb――それを踏まえてないと鑑賞できないんじゃ、たまったものではないね。 T――だからこそ、子規の近代俳句では、そうした狭い文学サークル

    bhikkhu
    bhikkhu 2006/06/20
    ちょっとワロタ
  • ララビアータ:党派性と政治的主体 - livedoor Blog(ブログ)

    政治が、カール・シュミットが言うように、常に友―敵関係として現れるものだとすれば、党派的忠誠心こそ政治の主たる美徳ということになろう。もしそうであれば、妥協というものはせいぜいマヌーヴァによって相手を出し抜く技に過ぎないか、自己の価値理念を自ら裏切るものでしかない事になろう。これがすべての原理主義的思考の行き着く果てである。 このような目的設定と政治的主体の同一性とは相即的であり得る。つまり、政治的活動においては、個々人に利益最大化という原理を仮定して、そこから全体の動向を構成し分析するという意味での方法的個人主義や、個人的動機への還元主義が必ずしも妥当しない。というのは、取り得る戦略と独立して、初めに所与として与えられている個々人の欲求など決まっていないし、それらの戦略を個々人の欲求・志向に還元できるわけでもないからである。 ペルシア戦争を例に見てみよう。強大なペルシアがギリシアに迫って

  • ララビアータ:演繹の正当化 - livedoor Blog(ブログ)

    ブログ読者の方から、演繹的推論は何によって正当化されるのかというご質問をいただいた(帰納法の正当化」参照)。これは論理一般、推論一般が、そもそも何なのかということにつながる容易ならざる難問である。十分にお答えすることは出来ないが、簡単なスケッチをしてみたい。 これらの能力は、その概念を含む内容の所有可能性条件、また、それを所有した場合の帰結への責任(commitment)の両方によって(まれにはその一方のみによって)規定する事ができる。前者は、検証主義的アプローチ、後者は、プラグマティックアプローチということができる。例えば、「愛」という概念。「誰それを愛している」という内容は、その人のことをいつも考え、その人と一緒にいたいと思うということがその所有条件であり、その条件が「愛してます」とその人に言うための発話可能条件であるといえよう。(心理学者や文学者であれば、もっと詳しい条件分析をするか

  • ララビアータ:(つづき)オカルトについて - livedoor Blog(ブログ)

    この際、はっきりさせておきたい。 私は、一切のオカルトや心霊現象についての珍無類の空騒ぎを、心から嫌悪しているということである。これらについての「リベラル」な不可知論的寛容のひとかけらさえ、私は持ち合わせてはいない。それどころか、一見、物分りのよさそうなこのような態度こそ、精神の柔弱さの徴として深く軽蔑している。 世界に人知の及ばない広大な領域があることは否定しない。かろうじて人知の及ぶ領域でさえ、その大部分を私は知ることも理解することもないまま死ぬことになるだろう。心的現象について、そのほとんどが未踏の暗黒大陸であることも、十分心得ている。 しかしさればこそ、そこで我々に必要なのは決断である。 究極においては、物理学も論理学も決断に基づいている。仏教もキリスト教も決断だ。正義であれ、理性であれ、愛であれ、決断に基づかぬものはない。だからと言って、それらすべてと並んで、オカルトもUFOも占

  • ララビアータ:『ジャスティス』(Hart's War) - livedoor Blog(ブログ)

    深夜テレビアメリカ映画をやっていた。グレゴリー・ホブリット監督『ジャスティス』。 第二次大戦末期、ドイツの捕虜収容所内部での話である。例によって脱走の話であるが、収容所内で起きた軍曹殺害事件で嫌疑のかかった黒人士官の裁判が、米軍自身で行われるという点に新味がある。方解石が砕いても砕いても同じ形を取るように、アメリカ人はどこにでも裁判と正義を持ち込むようだ。 「虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓を定めていながら(また、それゆえに)、捕虜になったらがっくりきて、軍の秘密でも何でもぺらぺら言うようになってしまうような軍とは大違いである。 収容所というような過酷な条件の下でも、彼らは決して単なるばらばらの個人に解体してしまうことなく、強固な政治的共同体を維持し続ける。トクヴィルが書いていたような「結社を作る彼らの才能」によるのかもしれない。 この点、クセノフォンの『アナバシス』に描かれたギリシア人

    bhikkhu
    bhikkhu 2005/08/25
    正義のインセンティブ。
  • ララビアータ:石原吉郎の『望郷と海』 - livedoor Blog(ブログ)

    石原吉郎『望郷と海』について、以前走り書きしたものを掲載する。これは、中島一夫氏の「媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム」(『新潮』誌2000年11月号所収)に触発されて書いたものである。 なお、脚注が打てないので、便宜上文中に挿入したイタリックで注を表すことにした。できれば字体を変えるかポイントを下げるかしたいところであった。なんとも腹立たしいくらい汚いテクストになってしまった。 共産主義者の倫理的立場 ――石原吉郎『望郷と海』について―― 中島一夫氏は、その石原吉郎論『媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム』(新潮2000年11月号所収)において、共産主義者の倫理的立場という論点を提起している。 石原吉郎は、ラーゲリ体制を告発するような立場を自覚的に放棄する。この点には、これまでも多くの批判が存在した(吉隆明氏、内村剛介氏など)。国家や政治体制に対する視点を欠き、もっぱら個人の道徳や良

    bhikkhu
    bhikkhu 2005/08/20
    思い出しブクマ。共産主義的人間の倫理的立場。
  • ララビアータ:『硝子戸の中』 - livedoor Blog(ブログ)

    bhikkhu
    bhikkhu 2005/07/26
    言葉の力
  • ララビアータ:「マホメド・アタの告白」つづき - livedoor Blog(ブログ)

    朝靄の中に輝く蛇のようなハドソン河が眼下に見えた。「神よ!御身のもとへ」とアタは叫びたかった。ようやく完成のときが近づいたのだ。一瞬の気の緩みもすべてをぶち壊しにしてしまう困難な仕事の孤独な緊張感から、もうすぐ解放される。もはや万々一にも失敗することはあるまい。あのまがまがしきTwin Towersに、首尾よく突っ込みさえすればよい。それは、数々の難しい航空技能を修得してきたアタにとっては、失敗するはずのない容易な業だと思われた。眼前に広がる世界はたしかに美しいといってもよかった。しかし、その中でいかに大きな試練をあなたは私に与えたものであろう?私はそれを果たしてあなたのもとへと昇ってゆくだろう。そのときこそあなたの前で、あなたが与えた謎について問いただすだろう。私にはその資格があるはずだ。義人ヨブのように、私はあなたに問いただそう。御身の栄光の為に、何故かくも大きな犠牲が必要だったのかを

    bhikkhu
    bhikkhu 2005/06/02
    続きもの。
  • ララビアータ:マホメド・アタの告白 - livedoor Blog(ブログ)

    「テロリスト、モハメド・アタの告白」の断片の一部を掲載する。現実の事件や人物とは関係がないことは、ことわるまでもないだろう。 ビン・ラディン師については、よからぬうわさがないわけではなかった。CIAと関係しているというものである。おそらく根も葉もないものだろう。あれほどの自己犠牲をささげた人が、どうして敵に身売りする必要があろうか?そんなことをするくらいなら、はじめからサウジアラビアの王侯の一人として振舞っていればよかったのではないか?もちろんソ連と戦うために、十年以上にわたって師がCIAと深い関係を続けたことはたしかだ。現にいまこの瞬間も、師の親族が二十数名アメリカの各地にいるはずであった。彼らとビン・ラディン師とは反目しあっているようでもあり、裏で経済的つながりを持っているようでもあったが、連中はいずれもアメリカのお偉方と親しかった。反共の闘士であると同時に、目もくらむほどの金持ちであ

    bhikkhu
    bhikkhu 2005/06/02
    面白い。
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