加藤直人『清代文書資料の研究』汲古叢書131 をつらつら読んでいると、起居注冊や実録の編纂過程が分かって面白かったので、ツラツラと年表にまとめてみたら、なんか大変な感じになってしまいましたよ…。 なんだか表が壊れてるので巧いこと表示できないかもしれませんが、折角作ったので置いておきます。 清朝起居注及び実録編纂年表 年号西暦起居注冊実録事件
さて、清初を扱った論文を読んでいると、《瀋陽状啓》という書名にぶち当たることがあります。これ何かというと、瀋陽=ムクデン・ホトンに人質として抑留させられていた李氏朝鮮の世子…つまり王太子である昭顕世子が朝鮮王・仁祖に提出していた報告書ですね。存在は知っていたモノどういった性質の書物かよく分からず、興味はあったのですがほったらかしにしてたんですが、サクッと検索したところ国立国会図書館のデジタルアーカイブに戦前の本が登録されてるのをうっかり発見しました。 国立国会図書館デジタルコレクション 瀋陽状啓 戦前の帝大であった京城帝国大学の法文学部の出版ですね。どうやら朝鮮王朝の奎章閣に保管されていた書簡を校訂して出版したようです。影印が巻頭に載っていますが、これを解読するのはさぞ骨が折れたと思います。しかも、純粋な漢文ではなく朝鮮王朝で使用された漢文なので、朝鮮語発想で書かれた文章は非常に読みにくい
ネットでツラツラ検索していて、《愛新覚羅宗譜》についての記事を見つけたので、リンクを上げときます。 愛新覺羅宗譜─台灣Wiki 内容に関してどの巻にどの系譜が載っているのか、ザッと載っていたので抜き出してみます。 學苑出版社1998年影印本31冊分卷內容如下: 甲冊1-4: 德宗景,穆宗毅,文宗顯,宣宗成,仁宗睿,高宗純,世宗憲,聖祖仁,世祖章,太宗文皇帝位下之子孫。 乙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第1子貝勒褚英,第2子親王代善,第3子鎮國公阿拜之子孫。 丙冊1-4: 太祖高皇帝位下:第4子鎮國將軍湯古代,第5子鎮國莽古爾泰,第6子輔國公塔拜,第7子親王阿巴泰,第9子鎮國公巴布泰,第10子鎮國德格類,第11子鎮國巴布海,第12子鎮國阿濟格,第13子輔國公賴慕布,第14子親王多爾袞,第15子親王多鐸,第16子費揚果之子孫。 丁冊1-4: 顯祖宣皇帝位下第2子貝勒穆爾哈齊,第3子親王舒爾哈齊,
光緒三十一年(1905),由於大清國勢衰弱,清廷為平息政局紛擾,決心進行政治改革,建立君主立憲政體。遂以立憲為名,派遣載澤、戴鴻慈、徐世昌、端方和紹英等五大臣分赴東西洋考察各國憲政。革命黨人吳樾得知此事後,因擔心立憲成功,使民主共和無望,故決心阻止,在北京正陽門東車站以炸彈襲擊出洋五大臣,吳樾壯烈成仁。 院藏〈大清國致大英國國書〉和〈大清國致大法國國書〉係本次出使準備呈遞受訪國之外交文書,因吳樾的阻撓而留存清宮,輾轉來臺,是見證清末「立憲運動消亡,民主政治初昇」的重要歷史文物。 大清國遣使出洋考察致英國國書〈大清國致大英國國書〉 國書 縱:34.5公分 橫:269公分 函套 縱:34.5公分 橫:23公分 高:2.5公分 故閣000059 國立故宮博物院藏
宮内庁が24年がかりで編修作業を進めている昭和天皇の生涯の動静を記録した「昭和天皇実録」が今春にも完成し、新年度から順次、公刊される見通しとなった。 戦前から戦中、戦後の激動期を含めた昭和天皇の初の包括的公式記録で、一部を消す「黒塗り」はしない。新資料も含まれ、昭和史研究の基礎資料として専門家が注目するだけでなく一般にも高い関心を呼びそうだ。 天皇実録は元々、完成時の天皇に献上するために作られており、ほぼ同時期の公刊はされてこなかった。明治天皇紀は1933年(昭和8年)に完成したが、刊行は35年後の68年から。大正天皇実録は、情報公開請求により、完成から約65年後の2002年から11年まで、4回に分けてようやく公開された。当初宮内庁は、昭和天皇実録の早期公開に消極的だったが、「国民の財産でもあり、昭和天皇の事績を広く知ってもらうべきだ」として方針転換。公刊に伴う費用として2014年度予算に
そんなこんなで、清代王府の位置を知る過程で《嘯亭雑録》を買ってみました。サラッと読むと、やはり歴史の話題を中心とした随筆ですね。神田信夫『清朝史論考』山川出版 の中にそのものズバリ、「『嘯亭雑録』と其の著者礼親王昭槤」という論文が載っているのですが、コレを読むとどうやら《嘯亭雑録》はかなり歴史的価値の高い随筆みたいですね。個人的にはいきなり〈太宗讀金史〉の項で辮髪と言うか満洲の衣冠に触れていた点で評価高まりましたし、その次が〈設間誅袁崇煥〉だったりするので、序盤からおお!って思いますわね。 で、その著者である昭槤ですが…この人、九代目・礼親王なんですよね。礼親王・ダイシャンの後裔です。漢語版Wikipediaの記事によると、乾隆41(1776)年の生まれで、道光13(1833)年に病没しているようです。礼親王の王位には、嘉慶10(1805)年から嘉慶20(1815)年までの十年間ついていた
と言うワケで、こないだの記事で《満洲実録》を扱ってから悶々としていた宣和堂です。うーん。実はこの辺が良くわからんのですよね…。 ご存じの通り、現在知られる満洲語の歴史書で一番有名なのは、内藤湖南が日露戦争終結の頃に瀋陽故宮で発見した、通称《満文老檔》です。 で、この際に見つかった他の書物が清朝歴代皇帝の実録である《清朝実録》 と、合戦絵図と言われる《満洲実録》です…。中身や成立過程については後回しにしましょう。 あと同じく名前が挙がるのが《五体清文鑑》ですね。元々は満洲語の辞典で元々の題名も《Han i araha manju gisun i buleku bithe(漢語題名《清文鑑》)》。これが増補を繰り返し、漢語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語をも収録した拡張版が《五体清文鑑》と言うコトのようです。検索したらこれに関してはさっくり画像がありました→《五体清文鑑》早稲田スゲー!むし
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