さて、辮髪乙女ゲードラマこと《歩歩驚心(邦題:宮廷女官・若曦(ジャクギ))》の再放送をツラツラ見てました。何のかんのやっぱ面白いですよねぇ。自分は主人公の若曦にはあんまり感情移入出来ないんですが、まぁ、乙女ゲードラマなので、この人は阿哥たちを描くための狂言廻しですしねぇ。てか、マンジュなので本来ルォシィとでも呼ぶべきでしょうけど、この時代だとどうですかねぇ…。元々漢字を想定した名前は漢字のママで良いのかなとも思います。ともあれ、このドラマは史料読んだだけではさして魅力的とも思えない多羅敦郡王・胤䄉はじめ他の阿哥たちを魅力的に描いてますよね…。確かに十阿哥は愚かかも知れないけど、案外気持ちの良い奴だったのかも知れないなどとはこのドラマ見るまで思いもしませんでしたというか、さして印象強かったわけでもないですしw と言うワケで、今回は九王+α達の名前のマンジュ語読みとマンジュ語の封号を調べて見ま
と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 本文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が
……とまぁ、前回の記事で書いたように、雍正年間に消えてしまった王府については調べようがないんだろうなぁ…等と考えていたわけですが、ふと思い立って”廉親王府”と言うキーワードで検索してみたところ…意外にも引っかかりましたね…。しかも、直郡王府、固山貝子允禟府、敦郡王府のことも記載があります。 穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖) 穿越步步驚心 踏尋阿哥們住的地方(組圖) この記事も《歩歩驚心》の放送当時に書かれた記事みたいなので、おおよそ皆考えることは一緒みたいですね。…書いてあることは興味深いのですが、ビジュアル的には今ひとつ正しいかどうか判断出来ません。というか、九阿哥府邸のこのハイカラな建物は一体?なんでまた、《乾隆京城全図》の和親王府が赤線で引かれてるの?とか、よく分かりません。 で、その後この頁の元頁と思われるところも検索して発見…。よく分からない写真はどうやら、上のサイトで勝
と言うワケで、前回のエントリ・康煕帝の諸皇子に続いて康煕帝の諸皇子のネタです。北京の観光名所・雍和宮は雍正帝が即位前に雍王府として使用されていた王府だと言うコトは自分も知っていたのですが…さて、他の王府って今どうなっているんだろう?っていう事に興味が出たので、ツラツラ《北京古建築地図 上》を見ながらチェックしました。で、更に《乾隆京城全図》iの目録を元にGoogleEarth版で確認を取りました。おおよそココかなぁ…って言う場所を比定したところもあります。ただ、他に確認しようもないので自信ないですねえ…。乾隆年間の北京に対してはいつもは力強い《日下旧聞考》も王府については書かれてません。雍正帝の潜龍邸であった雍和宮についても記述がありませんしねぇ。《乾隆京城全図》は乾隆15(1750)年ごろに成立したと言われていますので、この頃の事情を反映した内容になってます。なので、この年に没した輔国公
と言うワケで、毎日BSで放送されている《歩歩驚心(邦題:宮廷女官 若曦(ジャクギ))》をツラツラ見てます。軽くストーリーに触れると、現代の北京で彼氏に二股かけられた歴女・張暁が何故か清代・康煕朝の八阿哥・胤禩の側福晋・若蘭の妹としてタイムスリップ!八王府で生活する傍ら、康煕帝の皇子達に言い寄られちゃって困ってるウチに、選秀女に紛れて康煕帝のお茶汲み宮女となって康煕帝にも気に入られちゃってどうしよう!という、まぁ、一言で言うと辮髪乙女ゲードラマですね。セットも衣装も貧弱だなぁ…等と、結構馬鹿にしながら見てたんですが、続けて見てみると結構面白いので続きが楽しみなドラマ№1になってますね…。細かいところを上げていくとキリが無いわけですが、歴史との関わりは信長のシェフみたいなモンなので、それくらいにお気楽に構えて見るのが礼儀という感じはしますがw で、このドラマは宮廷の辮髪プリンス達に言い寄られる
ご存じ台北の故宮所蔵の宝物は、北京の紫禁城にあった清朝皇帝の遺産を、日本軍や共産党の破壊からまもるために蒋介石が大陸から台湾に持ち出したものである。故宮の秘宝というと、玉でできた白菜や豚の角煮で有名であるが、ここは一つチベットの秘宝に注目してみよう。 清朝皇帝、とくに最盛期の乾隆帝は敬虔なチベット仏教徒であったため、故宮には宮廷内でもちいられていたチベット仏教関連の法具とかも所蔵されている。1994年にはチベット仏教をテーマにした『皇権と仏法』という展覧会も開催されており、同名のカタログはたぶんいまでもネットで買える。 また、今回副院長さんの話しによると、三年後にまた大規模なチベット関連の展覧会を行うそうだ。 私が今回故宮で閲覧を楽しみにしていたのは康煕8年につくられたチベット大蔵経(通称龍蔵)と、ダライラマ五世の時代の豪華宝石マンダラである。 我々は24日の午前に故宮に到着した。タクシー
伝統的なチベット地域と現在の地方行政境界分割を比較 雍正のチベット分割(ようせいのチベットぶんかつ)[1]は、清朝の雍正帝が1723年 - 1724年に青海地方に出兵し、グシ・ハン一族を征服した際の事後措置。 この措置により、チベットはタンラ山脈よりディチュ河にかけての線により二分され、その西南部はガンデンポタンに委ねられ、その東北部のモンゴル王公、チベット人諸侯らは青海地方と甘粛省、四川省、雲南省などの諸省に分属させられることとなった。中華人民共和国の、チベット民族の自治区を西蔵部分のみに限定し、その他のチベット各地を青海省と甘粛・四川・雲南などの「内地(中国本土)」諸省に分割して組み込む行政区画は、この分割の際の境界を踏襲したものである[2]。 雍正帝の青海出兵の背景[編集] オイラト系モンゴル人のグシ・ハンは、1637年 - 1642年にかけて、チベットのほぼ全土を征服、いくつかの大
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