と、前回の続きで康煕帝の皇子達の王府の位置を再度調べて見ました。 本文に入る前に、以前に作った地図を《清北京歴史地図》iで不明確だった王府の位置を特定したり、後で入手した資料で補強した地図を提示しておきます。 思ったほど偏ってはいないんですが、何故か西南隅には王府がなかったみたいなんですよねぇ…。折角地図にしたのでちょっと八旗の居住地と王府の位置関係も確認して見たのですが今ひとつよく分かりませんでした。あと、平西府と密雲県博物館もチェックしてます。 12:履親王府☞東直門内針銭胡同 東西寛街 宸垣識略‥履親王府、固山誠貝子府、倶有東角樓寛街。謹案‥王諱允祹、聖祖十二子、乾隆間任議政、諡懿。再傳無嗣。高宗以四子履端親王永誠繼之、今爲楙公第、在後海南。嘯亭續録云‥府在北小街。ii 謎の十二阿哥は王府も謎ですね。どうやらロシアと関係が深い土地柄だったらしく、十二阿哥の在世中からロシア正教の教会が
地球人の歴史 13.火器の帝国 ギリシアの火と中国の雪 717年、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの城下にアラブ兵の大軍勢が姿を現した。都の南に広がる海も、無数の軍船によってうめつくされた。これは、ウマイヤ朝カリフのスライマーンが宿敵ビザンツを滅ぼすべく送り出した大遠征軍であった。 都の陸側は高さが最大17mにおよぶ三重の城壁が連なり、突破はほぼ不可能だったから、アラブ軍の攻勢は比較的弱い海側に向けられた。ところが、城壁にとりつこうとした船は一隻、また一隻と焼かれては沈み、攻撃は無惨な失敗に終わってしまう。 このときビザンツ艦隊が用いた秘密兵器が、「ギリシアの火」である。生石灰、松油、硫黄を混ぜた液体らしく、筒から噴射されると炎を発し、海面でも燃え広がり、水をかけても消えなかったという。決定的な役割を果たした最初の「火器」といってよい。 このしばらく後、中国・唐王朝のもとでは、激し
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