「どう見ても変な人」 自分でドアを開けたことがない 平山郁夫に衝撃、日本に留学 ラストエンペラーとして知られる愛新覚羅・溥儀(プーイー)。王昭(ワン・ジョオ)さんは、溥儀のおいで、画家として日本に暮らしています。1950年に生まれ、文化大革命も経験した王昭さん。「ドアを自分で開けたことがない」「宮廷料理よりジャージャー麺が好物」というラストエンペラーの素顔。画家としての半生を聞きました。
宮内庁が2014年に完成させ、天皇、皇后両陛下に献上した「昭和天皇実録」に約5千カ所の誤りが見つかった問題で、山本信一郎長官は14日、会見で「申し訳ないと申し上げるしかない」と陳謝した。 昭和天皇実録は両陛下に届けられた後、報道機関や研究者らに電子データなどで提供され、広く引用されてきた。大半の誤りは完成後の一般向けの出版作業の中で見つかったが、宮内庁は公表せず、15年3月以降に順次出版された公刊本の中で修正するにとどめていた。 元のデータは歴史研究に用いられる資料だけに、所功(ところいさお)・京都産業大名誉教授は「早く誤りを明示してもらえたら良かった」と話した。所氏は昭和天皇に関する本を執筆する中で誤りに気付いたといい、事前に公表していれば「研究者は引用の際に注意できたし、修正のための材料も提供できた」と語った。 山本長官は「公刊事業をやりきることで精いっぱいだった。あらかじめお知らせす
昭和天皇の生涯を宮内庁が24年かけてまとめた「昭和天皇実録」で、天皇、皇后両陛下に献上した「奉呈本」や、報道機関や研究者らに提供した内容に約5千カ所の誤りがみつかった。関係者が明らかにした。一般向けに出版する作業の過程で、日付や地名、人名など多くの誤りに気づいたという。宮内庁は確認を終え次第、正誤表を公表する方針だ。 実録は、宮内庁が天皇の日々の動静や発言の要旨などをまとめ、完成時の天皇に献上される言わば「公式記録」。昭和天皇実録の場合、87歳で逝去した翌年の1990年に編纂(へんさん)作業が始まり、2回の延長を経て2014年8月に「完成」し、現在の両陛下に奉呈本が届けられた。 奉呈本と同じ内容が掲載されたものが皇太子さまやほかの皇族方にも届けられたほか、報道機関に電子データで提供され、さまざまな報道で引用されている。また、情報公開請求に基づいて研究者らにも提供されている。 実録は完成後、
天皇陛下の退位に関する一連の儀式が12日から始まり、天皇陛下は午前中、皇室の祖先などに来月の退位を伝えるため、皇居の宮中三殿に参拝されました。 この儀式は退位とその期日を宮中三殿にまつられている皇室の祖先などに伝えるもので、来月30日の「退位の礼」に関連する10の儀式のうち最初に行われました。 天皇陛下は古くから儀式での天皇の装束とされる「黄櫨染御袍」(こうろぜんのごほう)を身につけ、皇族方や宮内庁の幹部などが見守る中、まず、宮中三殿の中央にある賢所(かしこどころ)に向かわれました。 そして賢所に入ると拝礼し、退位することと、その期日が来月30日であることを日本古来のことばで記した「御告文」(おつげぶみ)を読み上げられました。 続いて天皇陛下は皇室の祖先をまつる皇霊殿(こうれいでん)、さらに国内の神々をまつる神殿にそれぞれ拝礼されました。 宮内庁は、退位に関する一連の儀式を全体として粛々と
奈良の大仏で有名な東大寺。その北側の高台に位置する旧奈良監獄は、明治時代に築かれたレンガ造の監獄建築が丸ごと残る刑務所施設だ。 近年まで奈良少年刑務所として現役で使用されてきたものの、2017年3月末をもって閉鎖され監獄としての役目を終えた。今後はリノベーションされ、ホテルや資料館などの複合施設として生まれ変わる予定だ。 2018年11月末に改築前の最後の一般開放である「奈良赤レンガFESTIVAL」が行われたので、旧奈良監獄の“監獄としての最後の姿”を見に行ってきた。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:明治の
1989年の平成への改元で、考案者の一人だった目加田(めかだ)誠九州大名誉教授(94年に死去)が生前に残した元号案を推敲(すいこう)したとみられるメモが見つかった。政府の最終案に残った「修文(しゅうぶん)」のほか、「普徳(ふとく)」「靖之(せいし)」など20を超える案が手書きで記されている。最終的に採用されなかったが、政府が現在も公表していない平成の選定過程の一端を示す貴重な史料だ。 目加田氏の自宅があった福岡県大野城市が2011年秋ごろ、遺族から寄贈の相談があった遺品を整理していた際に見つけた。市は目加田氏と親交のあった竹村則行・九州大名誉教授(中国文学)と共同で内容を分析し、筆跡などから目加田氏のメモだと判断した。
清朝時代の新年を祝う行事を再現した北京・地壇公園でのイベント(18年2月16日) Thomas Peter-REUTERS <最後の中華帝国・清の位置付けをめぐり、共産党は外国人歴史家への攻撃を強めている> 政治、文化、道徳、経済、外交......。中国の習近平(シー・チンピン)国家主席は、実にさまざまな分野でイデオロギー戦争を指揮している。 なかでも最大の火種は歴史、特に最後の中華帝国・清(1636~1912年)の歴史だ。習のイデオロギーに合わせて過去を書き換えようとする動きに抵抗する歴史家は、繰り返しプロパガンダ機関による攻撃の標的にされてきた。 習には強力な武器がある。03年に共産党が立ち上げた清代の歴史編纂プロジェクト(清史工程)だ。この野心的な国家事業には、3つの使命が与えられた。 第1に、伝統の継承。中国の歴代王朝は、前王朝の「正史」を完成させることで政権の正統性を誇示してきた
2400年以上前の古代ギリシャの貿易船が黒海の海底からほぼ完全な状態で見つかりました。形を保った世界最古の沈没船とみられ、当時の造船技術や交易の様子を知る貴重な発見だと注目されています。 調査チームによりますとこの形の貿易船は、当時のつぼなどに描かれた絵で知られていましたが、実物が形をとどめて見つかったのは初めてです。さらに形を保った沈没船としては世界最古とみられるということです。黒海の海底は酸素がほとんどなく木材が分解されにくかったため驚異的な保存状態につながったと考えられています。 ただ船はもろくなっている可能性が高いため、木材の一部を調査のために採取するにとどめ船全体を引き上げる計画はないとしています。 調査チームの代表は「当時の造船技術や、交易の様子について見方を変えるような発見だ」と話していて、世界的にも注目されています。
Posted March. 24, 2016 07:31, Updated March. 24, 2016 07:38 朝鮮(チョソン)時代の官服を着た大臣を描いた「伝・鄭崑壽(チョン・ゴンス)肖像」。一時は、壬辰倭乱(文禄の役)の時、明に使者として派遣された鄭崑壽を16世紀末に描いたものと知られていた。だが、2008年にX線を照射する調査で興味深い事実が浮かび上がった。肉眼では見えなかったもう一つの下絵の中に清国の服飾が見えてきたのだ。結局、肖像画は清国が建国された1616年以降に製作されたものと結論が出た。 文化財の真偽鑑定や製作の背景を解明する上で、保存科学が重要な役割を果たしつつある。最近、「証道歌子」を巡る議論でも国立科学捜査研究院が3次元(3D)金属コンピューター断層撮影(CT)を行い、決定的な偽造の証拠を突き止めた経緯がある。 国立中央博物館が保存科学部創設40周年を迎えて、
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