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宮内庁が24年がかりで編修作業を進めている昭和天皇の生涯の動静を記録した「昭和天皇実録」が今春にも完成し、新年度から順次、公刊される見通しとなった。 戦前から戦中、戦後の激動期を含めた昭和天皇の初の包括的公式記録で、一部を消す「黒塗り」はしない。新資料も含まれ、昭和史研究の基礎資料として専門家が注目するだけでなく一般にも高い関心を呼びそうだ。 天皇実録は元々、完成時の天皇に献上するために作られており、ほぼ同時期の公刊はされてこなかった。明治天皇紀は1933年(昭和8年)に完成したが、刊行は35年後の68年から。大正天皇実録は、情報公開請求により、完成から約65年後の2002年から11年まで、4回に分けてようやく公開された。当初宮内庁は、昭和天皇実録の早期公開に消極的だったが、「国民の財産でもあり、昭和天皇の事績を広く知ってもらうべきだ」として方針転換。公刊に伴う費用として2014年度予算に
【北京=竹内誠一郎】中国紙「新京報」などによると、上海の復旦大学の研究グループが11日、「三国志」の英雄、曹操(155~220年)の子孫の遺伝子染色体を特定したと発表した。 曹操を巡っては、河南省安陽県で2009年末に発見された陵墓と遺骨について真偽論争が起きたが、DNA鑑定で決着する見通しだという。 研究グループは09年から、家系図で曹操の子孫とされる曹姓の男性280人などから約1000件のサンプルを採取。絞り込みをかけた結果、一部に共通して非常に珍しい型の染色体を発見。安徽省で出土した曹操の大叔父の歯からも同じ型の染色体が検出されたため、曹操一族に特有の型であると断定した。 曹操については、漢代の丞相(じょうしょう)、曹参の子孫だったとの説や曹操を支えた夏侯一族の出身だったとの説があった。しかし、今回の結果により、曹操と曹参、夏侯一族とはともに血縁はないことが立証可能という。同大学は今
江戸時代の18世紀末、長崎の出島に着任したオランダ商館長イサーク・ティチング(1745~1812年)が作った、最古の蘭和対訳会話集が古物市場で見つかった。 日本人通詞(通訳)同士の会話が和文(ローマ字)とオランダ語で記され、当時の生きた話し言葉を伝える貴重な資料だ。 オランダ東インド会社に勤務したティチングは1779年から84年までの間に商館長を2期3年務めた。会話集はこの間に、仏蘭会話集を参考にティチングが構成し、親交が深かった日本人通詞、堀伝之丞が墨でつづったものとされる。 和紙を袋とじし、厚紙で装丁され、縦18・5センチ、横13・5センチ。1文目の「私どもの正月より12月までの事につき、二人寄り合い話」から93の蘭文が27枚、和文が22枚に記される。新年に酒を飲みながらよもやま話を繰り広げる形で、様々な例文を挙げる。時刻の表現など両国の文化の違いが浮かび上がる内容になっている。
奈良時代、国家事業として行われた写経の担当者が書いた「休暇願」と、写経所の食材の使用状況を記した正倉院文書が見つかった。 明治初期までに流出し、太平洋戦争後は所在不明になっていたが、東京の個人が秘蔵していたものを奈良国立博物館が調査して確認。ほぼ奈良時代当初の姿を保っており、同博物館は「流出した正倉院文書が当時のまま見つかるのは珍しく、重文級の発見」と評価している。 文書は縦約29センチ、横約25センチ。表には「万昆嶋主(まこんのしまぬし)」という名前の下級役人で経文を筆写する担当者(経師)が、重病にかかった「姑(父親の姉か妹)」の看病のために4日間の休暇を願い出た内容が墨書きされている。「天平寶字(てんぴょうほうじ)二年(758年)七月●(にじゅう)八(28)日」の日付があった。(●は廿から下の横棒を取る)
アファーマティヴ・アクションとは、アメリカの歴史や政治で使われる用語である。 差別に苦しめられてきたエスニック集団の人びとを優遇する政策のことだ。著者は、ソ連こそ世界史上初めて少数民族のためのアファーマティヴ・アクションを実現した国家と考える。地元民幹部の積極的登用や民族語の公用語化などがその具体例である。 レーニンやスターリンは、ナショナリズムの巨大な力を見抜き、これを社会主義に利用するために民族の枠組や形式をつくることで、反革命を団結させるナショナリズムの力を骨抜きにしようとした。ナショナリズムの武装解除を、民族らしい形式を整えながら実現しようとした戦略こそ、「アファーマティヴ・アクションの帝国」だったというのだ。 ナショナリズムは動員力のある極めて危険なイデオロギーであり、階級を超える結束をもたらしかねなかった。レーニンたちは、民族意識も歴史が通過すべき一段階であり、非ロシア人による
日露戦争後、日本が中国東北部で運営した国策会社「南満州鉄道株式会社」(満鉄)によって撮影された遼寧省大連市の写真約9000枚が、同市の旅順博物館に保管されていることがわかった。 北九州市立自然史・歴史博物館の日比野利信学芸員(42)が現地で確認した。日比野氏によると、満鉄撮影の大量の写真が中国に現存することを日本側が確認したのは初めて。旅順博物館は満鉄撮影の写真は2万枚以上あるとしており、全体像把握の調査を検討する。 写真は昨年12月に日比野氏が旅順博物館を訪問した際、示された。街の風景や満鉄工場、ボウリングに興じる市民など様々で、「南満洲鉄道株式會社」と印字されたカードに貼られていた。満鉄の広報誌「満洲グラフ」の掲載写真と同じものもあり、撮影者欄にある姓も満鉄職員と一致した。
「寛永通宝(かんえいつうほう)」など江戸時代の銅銭が、インドネシアのバリ島で出土していたことが分かった。 寛永通宝は当時、海外でも通貨や装飾品として流通し、北はアラスカから、南はベトナムまでアジアを中心に多数見つかっているが、バリ島は最南端となる。三宅俊彦・専修大兼任講師(考古学)が、バリ島の国立考古学研究センターなどで確認した。 見つかったのは、島内の集落跡、バドゥダワ遺跡などで出土した寛永通宝28枚と長崎貿易銭(元豊(げんぽう)通宝)4枚の計32点。日本の新聞が第2次大戦中、バリで寛永通宝が通貨の一部に交じって流通していると報じたことがあったが、実際に考古学調査による出土品が確認されたのは初めて。
愛知県小牧市教委は8日、織田信長が1563年に築城した同市の小牧山城で、城郭の石に書かれた墨書として日本最古の石材が見つかったと発表した。 本丸北西側の斜面で、堆積岩の一種(縦60センチ、横35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ)の石材に、縦書きで「佐久間」と書かれていた。城郭の墨書は、信長が1576年に築城を始めた安土城のものが最古とされていた。 市教委によると、「佐久間」は信長が家督を継ぐ以前からの重臣、佐久間信盛(1527〜81年)を指しているとみられる。小牧山城は信長が手掛けた最初の城で、奈良大学の千田嘉博教授(城郭考古学)は、「最も目立つ工区に重臣の佐久間信盛を割り当てて仕事をさせた。信長の巧みな人心掌握術をうかがわせ、興味深い」と話す。10〜22日、小牧市歴史館(0568・72・0712)で公開される。
中国の世界遺産登録ブームの陰で、都市から遠い少数民族居住区が商業主義の波に洗われている。 世界遺産を売り物にした観光振興が伝統文化を損なうとの懸念も広がっている。 現存する世界最後の象形文字・トンパ文字を伝えるナシ族が暮らす中国南西部の雲南省・麗江古城。木造家屋の間を石畳の細道が迷路のように走る。 1997年、世界文化遺産に登録された。土産店やホテル、レストラン、バーが次々と営業を始め、今では3・8平方キロ・メートルの城内に店舗が2000以上。夜はネオンと大音響の音楽に包まれる。2009年は国内外から758万人が訪れ、観光収入は人口110万人の麗江市の総生産額の75%に当たる88億元(約1056億円)に上った。 麗江市は建物の維持修復を含めた古城保護に15億元(約180億円)以上を投入した。一方で、城内人口15万人の7割以上を占めたナシ族は、物価の高騰や生活環境の悪化で半数以上が姿を消した
【北京=佐伯聡士】北京のオフィスビル建設現場で、夜陰に乗じて懸命に働く人々がいる。 といっても建設工事に携わる民工(農村からの出稼ぎ労働者)ではない。明や清時代の磁器のかけらを命がけで掘り出し、収集家に高値で売りさばく仕事師たちだ。その数1000人ともいわれる。危険と隣り合わせの商売だが、ゴミが宝に変わる瞬間が彼らをとりこにしてやまないようだ。 北京市中心部にある報国寺。週末ともなれば、磁器のかけらが所狭しと並んだ露店は、大勢の人でにぎわう。「清、明、元のモノ、いろいろあるよ。明のこれなら一つ300元(約3800円)でどうだい」。40歳代の男性が約15センチ大のかけらを手にふっかけてくる。 本当の価値は素人にはわからないが、収集家には大変な人気だそうだ。欠けた磁器を集める人もいれば、かけらを装飾品に使う人もいる。中国紙「新京報」によると、今年上半期、北京で開かれたオークションでは、158件
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