ブックマーク / d.hatena.ne.jp (83)

  • 田我流の『B級映画のように2』を聴いた - DJホームラン

    音楽 山梨県のヒップホップクルーstillichimiya所属のMC田我流。今作は彼の2枚目のソロアルバムにあたる。僕は、田我流の前作や、stillichimiyaとしての音源は聴いていないのだけれど、彼が「山梨県でくすぶりながら活路を見いだせずにもがいているラッパー」という、観客が演者人と重ね合わさずにはいられない微妙な役柄を見事に演じた映画「サウダーヂ」を観て*1、その佇まいや存在感が強く印象に残っていたので、今回の新譜をiTMSで購入して聴いてみた。 いわゆるコンセプトアルバムだ。聴いていてまず連想したのはデヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』。あのアルバムのように全体を一貫したストーリーが強固に貫いている。ボウイが創造した架空のスーパースターが主人公である『ジギー』に対して、こちらは田我流自身が主人公なのだけれど。 アルバムの冒頭こそ、映画『ダークナイト』の台詞をサンプリン

  • 『ソーラー』/イアン・マキューアン(新潮社) - 空中キャンプ

    bokosu
    bokosu 2011/09/16
  • 関東大震災川柳 (大正12年 宮武外骨発行、大震災画報より) - マウスパッドの上の戦争。

    bokosu
    bokosu 2011/03/18
  • 物語にできること - 空中キャンプ

    こうして大きな災害や社会的事件が起こるたびに、わたしは、物語の役割はなにかということについて考える。小説映画はこのようなときになにができるのだろうか? わたしは小説映画を──つまりはストーリーを語るという行為を──なによりも支持する者ですが、いま「物語」はなにかのんきな娯楽であるようにも見えてしまう。行方のわからない人びとが数多くいるとき、傷ついた人びとがどこかで助けを待っているとき、まずなにより必要とされるのは彼らを救助することであり、からだを休める場所とべものを提供し、さらなる被害をい止めることであるためだ。 地震の翌日、料品の買い出しのために下北沢の街を歩きながら、わたしはふと「大きな問題に直面したとき、物語は無力なのではないか」との疑念を持たずにはいられなかった。ふだんであれば週末に封切られた映画をたのしそうに追いかけまわしているわたしの友人たちも、昨日は映画館に出向くこ

    物語にできること - 空中キャンプ
  • 101回目の飛び込み営業。 - 記号とか事件。

    bokosu
    bokosu 2011/03/03
  • 2011年02月19日のツイート - 深町秋生の序二段日記

  • 小さき声の者たちへ──キングス・オブ・コンビニエンス - 空中キャンプ

    高校時代からハタチくらいまでのあいだ、ずっとイギリスのネオ・アコースティックやギターポップといったジャンルのレコードを聴いていたせいで、いつまでたっても好きになるのは、静かで線の細い音楽ばかりだ。とはいえ、むろん骨太な音楽がきらいなわけではないのだが、思春期に決まってしまった価値観はなかなか揺るがず、ほんとうに自分が好きな音楽を挙げていくとどうしても当時好きだったものがベースになってしまう。そしていま、たぶん2ヶ月くらい前からとつぜん、ノルウェーの2人組ギターポップグループ、キングス・オブ・コンビニエンスに夢中になり、毎日彼らの曲を聴いています。 わたしにとってのネオ・アコースティックは、なにより「声が小さいこと」を無条件に肯定した音楽だった。そしてそれは、なにかすごい達成のようにおもえた。声が小さい人たちによる音楽。だからこそ、彼らの儚げなサウンドは当時高校生だったわたしをあれほどに奮い

    小さき声の者たちへ──キングス・オブ・コンビニエンス - 空中キャンプ
  • 下部構造の無い、脳内革命の本。 - マウスパッドの上の戦争。

    佐々木中「切りとれ、あの祈る手を 〈〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」読了。少し長いが、書評を書く。  正直、残念なだ。このと著者の主張は近年に無い熱いものだったし、読書という姿勢そのものの起源と革新性を問い直し、背筋を正すようなものだけに、ますます残念だ。このと著者が主張する革命には下部構造が、無い。土台が、無い。まず、この著者はこれだけ、「書くこと」「読むこと」の意義と意味を繰り返し歴史の中から掘り起こし、その新しさを読者に再認識させようとするのだが、にも関わらず、あとがきに到ってはっきりとするのは、どうやら彼はこのを「書いて」いないということだ。あとがきを読まなくてもわかる人にはわかるのだが、このは「語り下し」だ。著者がカフェか会議室かで編集者(正確にはICレコーダー)相手に語ったもので、おそらく、彼は自分自身で一言も言葉を文字にしていないだろう。では誰が「書いた」のか? 

  • http://d.hatena.ne.jp/zoot32/20110122

  • 『ノルウェイの森』を見たゼ! - 空中キャンプ

    村上春樹原作の小説を、ベトナム系フランス人のトラン・アン・ユン監督が映画化。村上春樹の長編小説は、おそらく映画化がもっともむずかしい部類の原作ですが、そのことにはいくつかの理由があるとおもわれます。そしていまから、なぜ村上春樹の小説映画化がむずかしいかについて考えてみようとおもいます。原作を繰りかえし読んでしまっていて、どうしても原作との比較になってしまい、映画を見るために必要な「原作から切り離した個別の作品としてとらえる作業」がうまくできなかったため、映画そのものの感想につなげられないかもしれません。また長編小説を133分におさめることの困難もあるとおもわれ、重要とおもわれる3つのポイントについても自分なりに推測してみました。 1、声にするとリアリティがなくなる 今作でもっとも印象的なのは、登場人物たちの会話です。映画は、原作のせりふをほとんど変えずに使用する手法で撮られており、このこ

  • 2010-11-15 - 空中キャンプ なんだかよくわからないパワーポイント資料の作成

    わたしの働いている会社では持ちまわりのそうじ当番があって、当番になったときには二時間近くかけてじっくりとそうじをすることにしている。そうじが好きなわけではないし、そもそもそんなにていねいに清掃する必要はまったくないのだが、当番のさいはしばらく仕事を忘れて逃避しつつ、ひたすらそうじすることにしている。作業に目に見えて結果がでるところがたのしいし、周囲の役に立っている感じもいい。というのも、ここ最近会社におけるわたしの中心作業は「なんだかよくわからないパワーポイント資料の作成」であり、これがどうにも無意味におもえてならず、ひたすらやっているといずれ自分がだめ人間になっていくような気がするのだった。あんなパワポ資料を作るより、床をぞうきんがけした方がよっぽど世のためになるのではないか。 海外にある社へ報告する「なんだかよくわからないパワーポイントの資料」では、日支社がどのような目標を持って業

    bokosu
    bokosu 2010/11/15
  •  ポピュラー音楽の社会学 (備忘録) - 社会学徒の研究(?)日誌

    「現代アートの社会学」に関心を持っている旨、このブログでも述べてきましたが、現代アートの作品には音楽そのものやこれに関係するものが多く含まれます。音楽といっても、現代アートにおいてはポピュラー音楽との関わり方は限定的で選択的です。一方で、ポピュラー音楽こそ字義のとおり、もっともポピュラーな類の音楽であるわけです。ここに、ポピュラー音楽が社会学の研究対象としての意義があります。 どういうことでしょうか。つまり、ポピュラー音楽が広く社会的に受容されているということは、それを通じて社会現象を分析することが可能になります。そして、ポピュラー音楽が排除されたり相対化されている領域を分析することで、その領域の特性を知る手がかりにできます。これを、文化の格差や商業主義について考察する素材になるわけです。 現代アートとポピュラー文化の距離に僕は興味あるので、ポピュラー音楽についても勉強しないといけません。

  • 『切り取れ、あの祈る手を』/佐々木中 - 空中キャンプ

    先日、ラジオ番組「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」の推薦図書特集で宇多丸さんが紹介されていた、佐々木中(あたる)さんの著書。お話を聞いて興味を持ち、読みました。抽象的な内容もあるていどはありますが、基的には誰にとっても読みやすく、理解しやすいものになっていたとおもいます。〈読む〉という行為の可能性を真摯に追求した、とてもシリアスな一冊なのではないでしょうか。佐々木氏の熱い思いが感じられる、パワフルな書物でした。 わたしにとってこのテキストは、文学の可能性を再確認する力強い宣言であると同時に、たいへん耳の痛い諌言でもあった。なぜなら、佐々木氏が批判する「情報によって病み貧弱になった者」「情報という強迫観念に怯え切った者」とはまさしくわたし自身のことだったためである。あらゆる小説を読みたい、あらゆる映画を見たいという果てのない欲望はわたしのなかに確実に存在する。このは、かかる

  • 2010-10-22 - 空中キャンプ

    タイ出身の若手小説家による短編集。とてもよかったです! 鮮やかなイメージの残る短編ばかりで、読み終えてみると、つい『ダブリン市民』(ジェイムズ・ジョイス)を連想してしまうほどにドラマティックな印象がありました。すべてタイを舞台にした物語であり、われわれが抱きがちなリゾート幻想を打ち砕きつつ、それでも残るタイという国の唯一性をストーリーに取り入れたユニークな小説になっていたとおもいます。猥雑さもありながら、うつくしくエネルギーに満ちた短編集でした。 『観光』は、誰の人生にも必ず存在する<区切り>の瞬間、そのドラマ性を描いた短編集と呼ぶことができるとおもう。<区切り>はわれわれの日々に確実にあり、さほど大げさではなくても、その線をまたいでしまえばもう後戻りはできないというひとつの分岐点になっている。学校を卒業すること。就職すること。引っ越しをすることや、両親の病の報を受け取ること。それはまるで

    bokosu
    bokosu 2010/10/22
  • 抑圧されている人はものすごくしゃべる。 - 記号とか事件。

    というのは、一般知としても共有されている精神分析的事実なのだろうか。昭和の時代には、「女はホントよくしゃべる」という、嘆息とも苦笑ともつかない肩のすくめ方を多くの大人はしていたもので、たとえば、それは、『サザエさん』等の描出にも前提条件としてあった。これは若干、中産階級的な風景になるだろうけれども、「おばさま」と呼ばれる親族他の共同体の有閑婦人というのは、だいたい長電話をしてくるものだった。長電話、と定義する場合、「おばさま」と呼ばれる人がコミットする存在様態、とまとめられるほど。休みの日に、ふと、自分のことや自分の前にいる人から目を離して、周囲に目をやると、女達は、やはりものすごい勢いでしゃべっている。女同士で。他者のそれとして、テレビを見るかのように遮断されたこちら側から眺める分には、一種のグロテスクなエンタテインメントだが、翻って、自分自身に戻れば、私はまったくあのようなしゃべり方を

    bokosu
    bokosu 2010/10/16
  •  「郊外」のシテと「野生の思考」 - 社会学徒の研究(?)日誌

    bokosu
    bokosu 2010/10/14
  • はてブのiPhone記事ホットエントリー・トップ100を調べてみました - もとまか日記

    先日、以下のような記事を書きました。 「読まれるiPhoneブログ」にするためのヒント この時、以下の疑問が湧いてきました。 「はてブのiPhone記事ってどういう内容が多いんだろ?」 調べてみたら面白くて便利な記事ばかりなので、「トップ100」として、まとめてみました。 抽出条件・2010/9/13 4:00時点(集計作業はその前日)のまとめです。・iPhone関連「記事」であること(サイト、ブログ等は除外)。・タイトル、タグに「iPhone」が含まれていること。・順番は「集計時点のはてブ数」の昇順です。・時期欄は該当記事掲載時の最新機種(iPhone)です。・手作業なので漏れはあるかもしれません。ご了承ください。 iPhone記事ホットエントリー・トップ100(2010/9/13 4:00時点)No記事名(リンク)はてブ数集計時点時期1iPhoneと過ごした500日まとめ(67,695

  • 車上生活者へのメモ - マウスパッドの上の戦争。

    最近、サンカ特集を組んだ「彷書月刊」の記事を読んでいたところ、サンカ研究にのめりこむうちに、ついにはと子を捨てて、車上生活者になってしまい、最後には半年くらいずっと山に籠もっていた人のインタビュー記事を読んだ。車上生活と聞くとアメリカのキャンピングカーのような快適なものから、止むにやまれず路上生活よりはマシ・・・という感じでしている人まで、さまざまな事情と環境の人々がいるに違いない。平成14年の統計でみると車上生活者は、なんと、23万6千人とあるのだが、当だろうか? 空家・廃屋生活者5万6千人というのも、スクワッターがそんなにこの国にいるというのだろうか? 現在ならきっともっと増えているだろう。以前、ボランティアで芝川沿いの廃車長屋に通っていたことがある。一台1万円ほどで廃車を買い取り、川沿いと農地の間にある空き地に引っ張ってきて放置して多くの人々が住んでいたのだ。廃車長屋と言えば、ゴ

    bokosu
    bokosu 2010/06/03
  • 『オーディオビジュアル』/小林大吾 - 空中キャンプ

    bokosu
    bokosu 2010/05/12
    『オーディオビジュアル』/小林大吾CommentsAdd Star
  •  ブルデューの資本概念 - 社会学徒の研究(?)日誌 “A quoi sert la sociologie ?”

    ブルデュー研究 先日ブルデューのハビトゥス概念について書いたので、今度は資概念について書いてみます。ブルデューの資概念ですが、日で論じられてきたものは(おそらく)ほとんどか全てが間違っているというのが僕の見解です。(念のために言っておくと、ブルデューの弟子筋の研究者とブルデューの基礎概念に関する理解を共有しているのは、日語を使って研究している者の中では僕だけかもしれません。日の長老たちは、どうしてもこの資概念が理解できないようです。) なぜ間違っているかというと、大事な前提の一つが常に抜けているからです。それとは、ブルデューの資概念と界概念とは、1971年以降セットで考えられるようになったということです。ブルデューはのちに、「資は界なしには存在することも機能することもできない」とまで言うようになります(『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』)。逆に、1970年以前のブルデュ