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ブックマーク / jun-jun1965.hatenablog.com (82)

  • 平野謙「新刊時評(下)」を読む - jun-jun1965の日記

    面白そうなが出てきたら図書館で借りて読みという具合で平野謙「新刊時評」上下を読んだが、下巻は1960年代から72年に大江の「みずからわが涙・・・」の「誤読書評」で書評の筆を折るまでと、75年の『中野重治批判』と共産党関係の書評まであった。下巻はすでに読んだが多かったので上巻ほど面白くなかったが、その分、平野が何を面白がっているのか不明なものもあった。たとえば丸谷才一の『たつた一人の反乱』を、ほめているようなんだがどこがポイントなのか分からず、私にはちっとも面白くなかったので、モヤモヤした。 大江作品誤読の顛末は上巻巻末に書いてあるが、ここで平野は、大江が、書評をしたのは自分だと知って「抗議」してきたことに、いささかのショックを受けて書評をやめたのだなと思った。平野は、「東京大学新聞」という目立たない場所に載った大江の「奇妙な仕事」を「毎日新聞」の文藝時評で取り上げて広く知らしめた産

    平野謙「新刊時評(下)」を読む - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/11/25
    “大江作品誤読の顛末は上巻巻末に書いてあるが、ここで平野は、大江が、書評をしたのは自分だと知って「抗議」してきたことに、いささかのショックを受けて書評をやめたのだなと思った。”
  • 微温化され中産階級向きにされる大江健三郎 - jun-jun1965の日記

    9月13日の昼過ぎ、今日都内のホテルで、大江健三郎のお別れの会が開かれたというニュースをX上で見た時、あっ私は呼ばれなかったんだという悲哀が突き上げてきた。衝撃を受けつつあちこち調べてみると、大江についてのを書いた榎正樹は呼ばれたが行かなかった、高原到も呼ばれたが仕事があっていけなかったとかポストしており、かなり幅広く呼ばれたらしく、もしや蓮實重彦も呼ばれなかったのではと思ったが呼ばれていたようだし、私がパージされたのは明白で、私は衝撃のため二日ほど仕事が手につかなかった。 そこで私は「眠れる森の美女」の舞踏会に呼ばれなかった魔女のごとくタタリ神となって以後は語るが、近年、大江健三郎は中産階級向け、お茶の間向け、テレビ向けに微温化され、デオドラント化されている。スピーチしたのは黒柳徹子、山内久明、朝吹真理子というあたりがすでに微温的ではないか。 そもそも私が中学3年の時『万延元年のフッ

    微温化され中産階級向きにされる大江健三郎 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/09/16
    お別れの会に呼ばれず…“私は「眠れる森の美女」の舞踏会に呼ばれなかった魔女のごとくタタリ神となって”/↑大江は江藤×大江を書いてる小谷野の質問の手紙に応答したので、小谷野を知ってはいるはず
  • 手紙と手記 - jun-jun1965の日記

    先日、神保町の読書人でインベカヲリ★さんと対談した時、聴衆の中に、西村賢太の元彼女さんがいて、終わってからサインをする席にしたら手紙を渡された。2013年から2017年ころにつきあっていた、関西の大学を出た女性らしく、名前は書いてあったが連絡先などは分からなかった。やってきた理由というのは、こないだ「読書人」で「蝙蝠か燕か」の書評を書いて、賢太にとって藤澤清造はそれほどの作家とは思えなくなっていたのではないかと書いたのに異議を申し立てるためで、手紙にはいかに賢太が藤澤清造を大事にしていたかが書いてあった。 だが、それは賢太の文章からでも分かることで、それは一種の個人宗教みたいなものではなかったかと私は考えているので、何より、藤澤清造の全集も伝記も結局は出なかった、伝記にいたってはその下書きくらいあっても良さそうなのに発見されていないという事実が私には疑念を起こさせる。 渡された封筒はそのこ

    手紙と手記 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/06/25
    西村賢太は藤澤清造のことをそれほどの作家とは思えなくなっていたのではないかと推測。“全集も伝記も結局は出なかった、伝記にいたってはその下書きくらいあっても良さそうなのに発見されていない”
  • 大江健三郎詳細年譜 - jun-jun1965の日記

    1850年 曾祖父・八三郎生まれる。 1855年(安政2)内ノ子騒動 1866年(慶應2)奥福騒動 1894年(明治27)父・好太郎生まれる。祖母はフデ。 1902年(明治35)母・小石生まれる。 1914年(大正3)20歳の父と12歳の母が結婚。 1919年(大正8)祖父この頃死ぬ。数え五十歳。 1923年( 12) 姉・一生まれる。 1924年4月24日、好太郎、明智新六らと大瀬革進会を結成、総選挙で窪田文三を応援と決定する。(史料愛媛労働運動史4巻、124p、愛媛新報) 1929年(昭和4)長兄・昭太郎生まれる。 ? 次兄・清信生まれる。 1933年、姉・重子が生まれる。 5月15日、伊丹十三(池内義弘)生まれる。 1935年1月31日 愛媛県喜多郡大瀬村に生まれる。父は大江好太郎、母は小石。長兄・昭太郎(燃料商、歌人)、次兄・清信。姉二人、弟・征四郎、妹一人。父は製紙原料商で、ミツ

    大江健三郎詳細年譜 - jun-jun1965の日記
  • 「てい、」の謎 - jun-jun1965の日記

    「彼はまだ上がり框に腰かけてい、」といった「い」の使い方は、私は中学生の時に山周五郎の小説を読んで知ったのだが、初期の大江健三郎にもそういう「い、」はあり、柄谷行人によるとそれは中野重治譲りだという。 熊野大学公式サイト|高澤秀次「追悼:大江健三郎と中上健次」 中野重治は1902年生まれ、山周五郎は1903年生まれで、1930年代から活躍した作家なので、この「い、」はどちらが先か調べるのはかなり厄介だろうが、私は柄谷は山周五郎は読んでないだろうと思い、中野重治は読んでいたように思うので、山が先のような気がする。 (小谷野敦)

    「てい、」の謎 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/05/14
    “「彼はまだ上がり框に腰かけてい、」といった「い」の使い方”
  • 伊集院光と大江健三郎 - jun-jun1965の日記

    www.youtube.com YouTubeにこんなものがあったので聴いてみたら、伊集院光という人が大江健三郎と普通に難しい話をしているので驚いた。伊丹十三の映画「マルタイの女」に出たことで大江と知り合ったらしいが、「光」という名前も大江の長男と同じだ。 大江が「臈たしアナベル・リイ」を出した当時だから、2007年の放送だろう。大江は大学受験のあと、伊丹十三が芦屋に住んでいたその家に立ち寄った話をするのに、「伊丹の、いや熱海の、伊丹の、熱海の、いや芦屋の」と言っている。しかし、僕はが売れなくても気にしないけど、伊丹はなんであんなに客の入りを気にしたんだろう、と言っているのは、客が入らないと映画会社にも迷惑をかけるし、次の映画が作れないからだろうと思うんだが、妙にそこはボケたことを言っているなと思った。

    伊集院光と大江健三郎 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/04/23
    前に描き起こしが話題となった番組/“「光」という名前も大江の長男と同じだ。”
  • 「大江健三郎がいた日本」の私     小谷野敦(作家・比較文学者) - jun-jun1965の日記

    (時事通信配信) 大江健三郎氏が亡くなられた。かつて谷崎潤一郎が死んだ時、三島由紀夫は、「谷崎朝時代」が終わったと評したが、私には、その少し前から始まっていた「大江朝時代」が今終わったと言いたいところである。大江氏は、東大五月祭賞を受賞し、「東京大学新聞」に発表された「奇妙な仕事」を、文芸評論家の平野謙が文芸時評で取り上げることによって、一躍有望な新人としてデビューし、ほどなく「飼育」で芥川賞を受賞したが、私には「奇妙な仕事」こそが初期大江において最も斬新な作品だと感じられる。当時、東大仏文科に在学中で、卒業とともにいきなり多忙な人気作家生活に入った大江氏には、苦しい時期が断続的に襲ってきた。高校時代からの年長の親友だった伊丹十三の妹と結婚し、精神的な安定をみたのもつかの間、浅沼稲次郎暗殺を題材にした「政治少年死す」を発表して右翼の脅迫に遭い、さらに脳に障碍のある男児・光が生まれ、彼ととも

    「大江健三郎がいた日本」の私     小谷野敦(作家・比較文学者) - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2023/03/24
    さすが/“ノーベル賞受賞者は文化勲章を授与されるが、大江氏は天皇の手から渡されるこの褒章を決然と辞退した。現代の日本で、これほど断固たる国家権力との距離のとり方のできる文学者がほかにいるだろうか。”
  • 「水俣曼荼羅」アマゾンレビュー - jun-jun1965の日記

    天皇登場で台無し 星3つ 、2022/12/17 はじめはだれて長いなあと思うが、中盤から面白くなってきて、熊県や環境省との対決は白眉なのだが、そこへ天皇が水戸黄門みたいに出てきて、いっきに台無しになる。別に原一男が悪いわけではなく、原は石牟礼道子の手前勝手な発言を入れて批判しようとしているんだろうが、いかんせん。天皇のところはざっと飛ばしても良かったんじゃないか。そうも行かないか・・・。

    「水俣曼荼羅」アマゾンレビュー - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/12/20
    “中盤から面白くなってきて、熊本県や環境省との対決は白眉なのだが、そこへ天皇が水戸黄門みたいに出てきて、いっきに台無しになる。”
  • アニー・エルノーの「私小説」 - jun-jun1965の日記

    フランスの女性作家アニー・エルノーがノーベル賞に擬せられているらしい。15年ほど前、「あっちゃん・コム」という出会い系結婚相手を探していたころ、アニー・エルノーが好きだという女性がいて、実はアニー・エルノーを知らなかったのだが、その相手には何やら好感を抱いた。結局一度も会わずじまいだったが、エルノーのを二冊買った。しかるに何だか通俗的な感じがして手放してしまった。 今回『ある女』という死んだ母親のことを書いた私小説図書館で借りて読んだ。翻訳は堀茂樹だが、そのあとがきに、最初に日で訳された『シンプルな情熱』の評判が書いてあった。『シンプルな情熱』は、すでに作家として知られ、50近くなったエルノー、子供もいるが離婚していて、それが十歳ほど年下ののある男と恋愛をした経験を描いたもので、フランスでベストセラーになったという。デュラスの『愛人』が日で刊行されたのは85年で、『シンプルな情

    アニー・エルノーの「私小説」 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/10/07
    今年のノーベル文学賞はアニー・エルノー/2年前にも候補として名前があげられていたようだ
  • 何を読んだんだ、マリオ  - jun-jun1965の日記

    『文藝春秋』にラテンアメリカ文学者の田村さと子が川端のことを書いていた。主にガルシア=マルケスがいかに『眠れる美女』が好きだったかという話で、「空を飛ぶ眠れる美女」と、『わが懐かしき娼婦たちの思い出』を書いている。後者は駄作。大江健三郎は後者を書く前にガルシアから、『眠れる美女』のモデルを紹介してほしいと言われ、断って、を読んで、紹介しなくて良かったと言っている(尾崎真理子のインタビュー)。ってことは大江はモデルを知っているんだな。 もう一つ、マリオ・バルガス=リョサも『嘘から出たまこと』という批評集で『眠れる美女』を礼賛していると田村が書いていたので、読んでみた。あまり出来のいいエッセイではないのだが、冒頭に、谷崎のフランス語に訳された作品を読んだら、辛酸をなめたヒロインが、家へ帰って魚料理をするところで作品が終わっていて、これが日的な美なのかと感嘆し驚いていたら、友人から、あれはフ

    何を読んだんだ、マリオ  - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/10/07
    “ガルシアから、『眠れる美女』のモデルを紹介してほしいと言われ、断って、本を読んで、紹介しなくて良かったと言っている(尾崎真理子のインタビュー)。ってことは大江はモデルを知っているんだな”
  • 書評「誰もいない文学館」(西村賢太)週刊読書人(訂正あり) - jun-jun1965の日記

    西村賢太には、冷たくされた。芥川賞をとったころ、あちらの著作が送られてきたので、お礼のハガキを書いたが、返事はなかった。それからこちらの著作も新宿の住所に送るようになったが、ある時期から宛所不明で戻ってくるようになった。王子に住んでいると噂されたがその住所は知らされなかった。数年後に私の著作が出るのと芥川賞の発表に応じて公開対談を申し込んだが断られた。担当編集者がそのことを私に隠したまま別の対談相手と交渉してしまったため、私が怒って(隠していたことを)対談自体なしになった。急死直前の新庄耕との対談でも新庄が私の名前を出したが、敬っているのかねえ、というあしらいだった。没後、敬して遠ざけていたと人から聞いたが、まあ中卒を気にしている賢太としては私に会うのは何か面倒な感じがしたのだろう。坪内祐三や阿部公彦だといいのはなぜかとも思うが、私のいけないのは心を隠せないところで、当のことを言えば暴

    書評「誰もいない文学館」(西村賢太)週刊読書人(訂正あり) - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/07/25
    西村は小谷野を敬して遠ざけていたという/メジャーな作家には意地でも触れないという姿勢/石原と親しかったのは石原が三流作家で安心できたからか/政治的には保守派ぶるところがあったか
  • 「現代文学論争」補遺 - jun-jun1965の日記

    「現代文学論争」のために書いたのだが、分量の関係で割愛したものである。未完。 福田和也という謎 福田和也(一九六〇− )は、江藤淳、柄谷行人の衣鉢を継ぐ文藝評論家とされ、慶応義塾大学環境情報学部教授である。これまでいくつかの論争を行ってきたが、むしろ福田自身が、謎めいた人物、論争的な人物だと言っていいだろう。 福田は慶大仏文科の大学院に在籍して、修士課程で追い出され、実家の仕事を手伝いながら、フランスが一九四〇年にドイツに降伏したあとの、ナチス協力作家たち(コラボラトゥール)を論じた『奇妙な廃墟』(国書刊行会、のちちくま学芸文庫)を一九八九年に刊行した。福田は、このにはほとんど反響がなくがっかりしたと語っているが、実際には江藤淳がこれに目をつけ、翌九〇年七月号の『諸君!』に「遥かなる日ルネサンス」を「大型新人登場」という見出しとともに載せ、論壇デビューした。これは隔月で四回連載され、同

    「現代文学論争」補遺 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/05/28
    “福田和也という謎”
  • 音楽には物語がある(36)戸川純 「中央公論」12月号 - jun-jun1965の日記

    つらつら考えると、私の大学二、三年時分の生活というのは、実に情けない空虚なものだった。つきあっている女はいないし、大学の授業は面白くないし、歌舞伎を中心に演劇を観に行ったり、テレビで録画した映画を観たりはしていたがそれも孤独で、小説が書けなかったのも無理がないと思う。実際、若くして小説を書く人というのは、無頼でももっと充実した生活をしているものだ。 当時松田聖子や中森明菜がはやっていたが、私の音楽趣味はクラシックで、デヴィッド・ボウイとかにもさしたる興味はなく、同世代の人間からも浮いていて、最近同年代のおじさんはロックが、とか言われても、自分は違うなあと寂しく思うばかりである。 そんな大学時代、戸川純だけは、ちょっとした機縁から割と欠かさず聴いていたのだが、いま考えるとこの戸川純好きは、唐十郎が好きだったのと同じアングラ趣味だったらしい。 最近新装増補版が出た『戸川純全歌詞解説集』(pヴ

    音楽には物語がある(36)戸川純 「中央公論」12月号 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/03/24
    “『戸川純全歌詞解説集』(pヴァイン)は戸川の著で、戸川純が割と自分で歌詞を書いていたことと、戸川がけっこうなインテリであることが分かり、私が当時戸川純に魅力を感じていた理由も分かる。”
  • 谷沢永一と呉智英 - jun-jun1965の日記

    谷沢永一は「天皇制」という言葉を使うべきでないと言って、今日の右翼のそういう方面の源流となっている。私は、大日帝国憲法で天皇の存在が規定されてからは「天皇制」に違いないではないかと反論したのだが、谷沢は答えないで死んでしまった。しかし今考えてみると、谷沢は天皇というのを「神」だと思っていて、「神制度」とかキリスト教徒やイスラム教徒が言われたら感じるように感じていたのではないか、だとしたら私の反論は通じなかっただろうと思った。 * 呉智英は、会田誠が訴えられた件について、では「好色一代男」を講義すると訴えられるのか、と書いている。これは特に会田側に立って言っているのではないのだが、私は現に東大の一年生男子に、ヘミングウェイの小説にセックスシーンがあるから教材として不適切だと思って出席しなかった、と書かれたことがあり、提訴まで一歩手前である。東大あたりだと純粋培養の学生がいるからそういうこと

    谷沢永一と呉智英 - jun-jun1965の日記
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    bt-shouichi 2022/03/21
    “今考えてみると、谷沢は天皇というのを「神」だと思っていて、「神制度」とかキリスト教徒やイスラム教徒が言われたら感じるように感じていたのではないか、だとしたら私の反論は通じなかっただろうと思った”
  • 「平家物語」と勧善懲悪の謎(最終回) - jun-jun1965の日記

    前に出た大塚ひかりには『男は美人の嘘が好き :ひかりと影の平家物語』(一九九九)という著作がある。大塚は、『源氏物語』や『古事記』については鋭い議論を繰り出すが、この『平家』論はあまり鋭くない。女性論を中心としており、文庫化(二〇一二)された際には『女嫌いの平家物語』と改題された。『平家』にはあまり女の活躍がない。木曽義仲の愛妾とされる巴は、出てはくるがちらりとだけで、冒頭の祇王・祇女、仏御前のほかに、印象に残るのは小宰相くらいで、清盛の孫の通盛に恋われてそのとなり、湊川で通盛が戦死したと聞いて泣き伏し、一ノ谷で身投げして死んでしまう。 そもそも通盛のとなる経緯が、通盛が口説いてもなびかないので、主人の上西門院が脅すようにして通盛のほうへ追いやったという経緯があり、あまり逸話として好きではない。 大塚の著は、今ひとつ私には理解の行き届かないところがあり、友人なんだから訊けばいいのだが、

    「平家物語」と勧善懲悪の謎(最終回) - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/03/05
    “『平家』では善人として描かれた重盛に当たるギレンをデギン以上の悪人として置いたことで、富野由悠季は、これによって『平家』を刷新し、これを「勧善懲悪」にして終わらせた”
  • 西村賢太年譜 - jun-jun1965の日記

    1967年7月12日、東京都江戸川区生 母は西村家三女。生家は祖父の代からの運送業。三つ上の姉がいた。 1977年4月2日 老人ホームで母方の祖母が死去 1978年9月 小学五年、父が強姦罪で七年の実刑、離婚した母と船橋に住む。 町田に転居。 1981年12月28日、横溝正史死去、ショックを受ける。 1982年 中学三年、二学期から不登校を始める。 1983年、中学卒業。素行不良。 鴬谷で一人暮らし。 1986年 板橋に住む。 1987年 伊勢佐木町に住む。                20歳 この年、姉が結婚か。 1988年5月 初めて田中英光全集を買う。          21歳 1991年「佳穂」と交際す。                 24歳 1992年 姉が離婚か。暴力行為で現行犯逮捕される。     25歳 1993年秋 宇留野元一に手紙を書く。            26

    西村賢太年譜 - jun-jun1965の日記
  • 誰もが絶賛は気持ち悪い。 - jun-jun1965の日記

    『石原慎太郎を読んでみた』はもちろん栗原さんから恵贈された。朝日新聞に佐々木敦の書評も出て、アマゾンでも読書メーターでも、絶賛されている。これはまずい。「批判禁止」の雰囲気がある小説、ということを田中弥生が『文學界』の「新人小説月評」で書いていたが、このもその雰囲気が出てきた。 このをみなが褒めるのは、『ウルトラマン研究序説』のケースと似ている。「面白がらなくちゃいけない雰囲気」がある、ということである。ウルトラマンは、まじめな学者がまじめにウルトラマンを研究したということで、『石原慎太郎を読んでみた』は、石原嫌いの豊崎由美が、いざ作品を読んでみたら意外にいい点をつけたという逆転の面白さで、である。 だが、「大笑いしながら読んだ」と言う人がいくたりかいるが、私は全然大笑いしなかった。概して、コンセプト的に、豊崎が石原作品を意外にも褒めた、というところがミソなので、実はほめ過ぎである。石

    誰もが絶賛は気持ち悪い。 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2022/02/02
    『石原慎太郎を読んでみた』/石原褒め過ぎ問題/“石原の初期の作品は、私も『化石の森』とか『亀裂』とか読んだが、妙に冗長だし、当時は、大江健三郎の一人勝ちになるのに対抗して、石原を褒める人もいた”
  • 「平家物語」と勧善懲悪(1) - jun-jun1965の日記

    小谷野敦 高校三年生の時、私は川端康成を耽読していたから、川端が『平家物語』を評価していないと知った時、ほっとしたのを覚えている。私も『平家物語』が苦手だったからである。 私が初めて『平家物語』に触れたのは、小学校五年生のころ、少年少女講談社文庫という、こんな名ながら菊判ハードカヴァーの子供向けリライトによってであった。著者は高野正巳で、一九五三年にポプラ社から出たものを、おそらく前年(一九七三)の大河ドラマ「新・平家物語」の放送に合わせて刊行したものだろう。表紙には、壇ノ浦で二人の武者を両脇に抱え、これから入水しようとしている能登守教経が荒々しいタッチで描かれていた。 『平家物語』の現物を読んだのは高校二年の時、角川文庫の二冊によってであったが、特に現代語訳が必要でもない分かりやすい古文でスラスラと読んだが、さほど名作だという感じを受けなかった。むしろ、変な書物だという気持ちがあった。

    「平家物語」と勧善懲悪(1) - jun-jun1965の日記
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    bt-shouichi 2022/01/23
    “『栄華物語』には、「滅び」はない。藤原氏はついに滅びなかった種族で、それを好んだ谷崎の感覚は、私には十分共感できる。むしろ「滅びの美」などと言う人間への嫌悪を、おそらく私と谷崎とは共有している。”
  • 古典・中古典を読んだ年表 - jun-jun1965の日記

    1987年に大学院に入った当時、自分があまりにを読んでいないという強迫観念から頭がおかしくなって狂ったように読んだことは書いたことがあるが、改めて古典的作品とか有名作品をいつ読んだか調べてみた。題名は一般的なものとし、英語で読んだものも日語で記した。初期には作家をまとめて読んでいたので作家名になっている。 1975(12歳) 老人と海、南総里見八犬伝始まり、山椒太夫・高瀬舟、水滸伝(抄)坊っちゃん、平将門(海音寺) 1976(13歳) 花神,藤十郎の恋・忠直興行状記 1978(15歳) 万延元年のフットボール、人形の家、羅生門、小僧の神様・城の崎にて、蒲団、破戒、太宰治、白痴(ドスト) 1979(16歳)二葉亭四迷、野間宏、金色夜叉、島崎藤村、ラーマーヤナ(抄)、雪国、眠れる美女、ブッダのことば、北回帰線、赤毛のアン、 1980(17歳)伊豆の踊子、掌の小説、十二夜、シェイクスピア、オ

    古典・中古典を読んだ年表 - jun-jun1965の日記
  • 書評・葉真中顕「灼熱」ー「週刊朝日」12月10日号 - jun-jun1965の日記

    一九四五年、大東亜戦争と日では呼ばれていた戦争に日が負けた時、ブラジルに二十万人ほどいた日人移民の間で、日が勝ったというデマが広まった。のちに「勝ち組」「負け組」の争いと呼ばれるようになるもので、日が買ったと信じる者は「信念派」、負けたという真実をつかんでいた者たちは「認識派」と呼ばれたが、「勝ち組」からは「敗希派」と呼ばれ、ついには勝ち組によるテロ殺人も起こり、長く続いた。今の日で誤用されている「勝ち組」「負け組」はこれが来の用法で ある。 『灼熱』は、この「勝ち負け抗争」の小説化で、沖縄で生まれた移民として「勝ち組」の若い者となる比嘉勇と、ブラジルで生まれサンパウロに住んで都会的な知識を持ち、勇の親友だったのが「負け組」になるトキオを中心に物語が描かれていく。 この戦争で日は、米英オランダに宣戦布告しているが、最後になってソ連が参戦、中国もポツダム宣言に参加することで対

    書評・葉真中顕「灼熱」ー「週刊朝日」12月10日号 - jun-jun1965の日記
    bt-shouichi
    bt-shouichi 2021/12/11
    “読みながら、勝ち組が来ると言っていた使節団が来なかったり、勝ち組が認識を改めることを期待している自分が、知的な高みから勝ち組を見下そうという心理になっていたことに気づき、作者の洞察に恐れ入った”