松藤聖一さん ■松藤聖一さん(61) 元宝塚市職員 阪神大震災のときは、兵庫県宝塚市の職員で、福祉推進課長と福祉総務課長を兼務していた。あの頃は災害は福祉が担当する時代だった。午前5時46分に地震が発生し、家財がぐちゃぐちゃで足の踏み場もない西宮市の自宅を出て、薄暗い中、単車で市役所へ向かった。 到着したのは午前7時ごろ。その日から、市内70カ所の避難所に集まった4万人の市民への救援物資の手配に奔走した。 地震から1日たって、ドーナツ1千個、毛布3千枚、おにぎり9千個、みかん6箱、救急セット1千個などが市役所に届いた。広島市や松山市、企業、宗教団体が夜通しかけて車で届けてくれた。 物資は24時間絶え間なく届き、職員食堂と市民ホールが埋まった。職員数十人が仕分けと受け入れのチームに分かれたが、学生ボランティア4人が24時間泊まり込みでさばいてくれて助かった。 仕分けや避難所への搬送
住民たちが「日本一」と自慢していた津波防潮堤。右側奥は壁が破壊されていた=岩手県宮古市田老地区、吉村写す 「日本一の防潮堤」「万里の長城」――。住民たちは、そう呼んで信頼を寄せていた。岩手県宮古市田老地区にあった全国最大規模の津波防潮堤。だが、東日本大震災の未曽有の大津波にはなすすべもなく、多数の死者と行方不明者が出た。「今後、どうやって津波を防いだらいいのか」。住民たちはぼうぜんとしている。 「津波は堤防の倍くらい高かった」。防潮堤の近くに住んでいた漁師小林義一さん(76)は顔をこわばらせて振り返った。11日の地震直後、いったん堤防に避難した。だが、山のような津波が海の向こうから押し寄せてくるのが見えたため、急いで丘に駆け上り、難を逃れた。自宅は押し流されて跡形もない。 小林さんは「防潮堤は安心のよりどころだった。『防潮堤があるから』と逃げ遅れた人も多かったのではないか。堤をも
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