■ 昨晩夕食を取りながら午後7時のNHKのニュース番組を見ていたら、「古代日本に"ピラミッド”、誰を埋葬・・・謎に迫る」というテロップが流れ、思いがけない発掘情報が報じられた。奈良県明日香村にある「都塚古墳」が、石を階段状に積み上げたピラミッドのような極めて珍しい形をしていた可能性が高いことが地元の教育委員会などの発掘調査で分かったというのだ。 ■ 発掘を実施してきたのは明日香村の教育委員会と関西大学。古墳の上の土で覆われている部分を発掘して調査した結果、直径10~30cmほどの数多くの石を階段状に積み上げた遺構が3か所で見つかったとのことだ。1か所では4段の石組みが、ほかの2か所では低いところのそれぞれ1段が確認されたという。また、古墳の裾の部分は一辺が40m余りのほぼ正方形だったことも分かり、調査した教育委員会は、石を階段状に積み上げた、いわゆるピラミッド形の墳丘だった可能性が高いと見
■ 英語などの外国語に比べて、我々が日常使い慣れている日本語は意外と曖昧な言語だ。そのことは学校で英作文の授業を受けたとき、誰もが身をもって体験しているはずである。文章の主語が曖昧だ、主語があっても単数なのか複数なのか区別がつかない、時制表現も曖昧だ、etc. etc.。 ■ 筆者は現役時代、技術翻訳に専従していた時期がある。一般の文章や古文と違って、技術文書では、文章の主体が比較的わかりやすいが、それでも単数扱いなのか、複数なのかずいぶん悩まされた。 ■ 面白い例がある。松尾芭蕉が有名な俳句に「古池や蛙飛び込む水の音」がある。この句を日本語に精通した外国人が英語に翻訳した例である。「怪談」などの作者であり、また日本名”小泉八雲”で知られるラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)は、次のように訳した。 ●Old Pond - Frogs jump in - Sound of w
火葬は仏教徒固有の葬儀様式ではなかった? ■ 外国人から見たら、日本人の宗教観ほど理解できないものはないかもしれない。年間を通じて実にさまざまな宗教行事に参加している。正月の初詣には神社・仏閣に参拝し、彼岸には先祖の霊を我が家に招いて祀り、クリスマスにはケーキを買ってきてキリストの誕生を我が家で祝う。結婚式も、神前結婚や仏前結婚、キリスト教会での結婚と、宗教に関係なくいろんな儀式を選んでいる。 ■ そのバラエティたるや、神道、仏教、キリスト教はおろか、道教、儒教まで様々な宗教に広がっていて、外国人ならずとも日本人の宗教観には首をかしげたくなる。どうやら日本人は信仰心が薄く、特定の宗教に帰依する気持ちはないようだ。自分の困りごとを解決し願い事を叶ええてくれる神仏であれば、その神仏がいずれの宗教に属していようが大した問題ではないのかもしれない。 ■ こうした多神教観のルーツをたどれば、古代のア
古墳近くの納骨堂で10年ぶりに行われた被葬者の慰霊祭 ■ 3月22日付けの産経新聞や奈良新聞のインターネット版は、明日香村平田にある高松塚古墳近くの納骨堂で前日行われた慰霊祭の様子を、写真入りで報じていた。10年ぶりの慰霊祭だそうだ。筆者は古墳の近くに納骨堂があることも、そこで慰霊祭が行われることも知らなかったので、興味深く記事を読んだ。 ■ 筆者の記憶では、昭和47年の発掘当時石室内で発見された被葬者の骨は、鑑定結果、熟年男性のものと判明し、専門家諸氏から被葬者を推測するさまざまな説が出された。しかし、被葬者が誰だったかは、今に至るも特定されていない。そんな状況の中でも、慰霊祭が行われてきたとは驚きだった。 ■ 発見された遺骨は桜井市の長谷寺にいったん預けられたが、村民らが「古墳と離すべきではない」と要望し、古都飛鳥保存財団が納骨堂を建ててそこに納めた。慰霊祭を催したのは、関武氏が会長を
我が国の屋根瓦の歴史は、西暦588年に始まる。この年、本格的な仏教寺院の建立を目指す蘇我馬子(そがのうまこ)の要請に応じて、百済(くだら)の威徳王(いとくおう)は寺工をはじめとする技術集団を派遣してきた。その中に、瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようくいもん)、凌貴文(りょうくいもん)、昔麻帯彌(しゃくまたいふ)がいた。彼らの技術指導で法興寺(=飛鳥寺)の屋根に葺かれる瓦が製作され、近くの登り窯で焼かれた。 当時朝鮮半島にあった百済は、中国の南朝わけても仏教王国とされた南梁と深い外交関係を持ち、多くの仏教文化を受け入れた。588年当時、南梁はすでに滅び去っていたが、百済の首都泗沘(しひ)城では方々で寺院が建立され、南梁の仏教文化が花開いていた。威徳王の父・聖王(=聖明王)が我が国に仏教を伝え、その見返りに隣国の高句麗や新羅と対抗するためにしきりに軍事援助を求めたのは良く知られた話で
「古代を学ぶ会」の今月の月例講演会 元産能大学教授で、現在も「邪馬台国の会」主宰し季刊「邪馬台国」編集責任者でもある安本美典(やすもとびてん)氏は、特異な日本史研究家である。数理文献学という独自の手法に基づいて日本古代史の謎に迫り、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」および「大和への東遷説」を主張し続けておられる。とかく恣意的で主観に満ちた古代史論が多い中で、統計的な手法を用い数値データと客観的な史料の基づいた氏の論説は極めて新鮮で説得力がある。 この一年間、「邪馬台国=畿内説」や「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」を補強するような次の研究発表や遺跡発掘があった。 ●国立歴史民俗博物館(以下、歴博)は箸墓古墳から出土した「布留0式」土器に付着していた炭化物を放射性炭素(C14)年代測定法で調査し、この古墳の築造時期を240〜260年とする調査結果をマスコミに発表した(2009/05/29)。邪馬台国
往古、堂ケ芝の地に古代寺院が聳えていた JR大阪環状線の「桃谷」駅のすぐ西側を、大阪のメインストリートの一つである「玉造筋(たまつくりすじ)」が南北に通っている。毎年行われる大阪国際マラソンのコースとして知られている道路だ。玉造筋と駅前から延びてきた通りが交わる交差点の一つに「堂ケ芝」がある。その交差点から玉造筋をわずかばかり北に行くと、道路に面して赤い鳥居が建っている。「豊川稲荷別院」と書かれた大きな看板を掲げた曹洞宗観音寺の境内入口である。 もっとも、この寺の山門は少し手前の路地を入ったところになる。山門を入ると、狛犬の代わりに左右に配された朱色の狐の像が参拝者を迎えてくれる。境内の中央には石の鳥居が立ち、その正面に長い石段が二階まで続く本殿が聳えている。本殿の内部は拝観したことがないが、「豊川稲荷」の名で世上に知られる豊川叱枳尼真天(とよかわだきにしんてん)が祀られているはずである。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く