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ブックマーク / sz9.hatenadiary.org (13)

  • ■[レヴュー]メタフィクションを「降りる」方法 - 2009-05-13 - 感情レヴュー

    文学フリマに行きました。「Children」を売り捌いていた条さん、ジャムさんお疲れ様でした。初対面なので、ドキドキしててうまく喋れなかったよ。ところで、kugyo氏がその文学フリマで手に入れた同人誌55タイトル全レヴューを「24」(ジャック・バウアー)のノリで試みるという、思わずうわって仰け反りたくなる企画を立てていて(http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20090510)、これも違う意味でドキドキする。 + 最近は、メタフィクションを「降りる」方法について考えている。言い換えれば、文学におけるシニシズムの克服ということになるが、最近の青木純一氏の取り組みにも啓発を受けている。 これから書くことは恐らく「早稲田文学」に載せる予定のもので(決定ではない)、大まかなアウトラインのみ今回提示しておく。とにかく、問題はシニシズムの克服だ。 たとえば、鹿島田真希という作家がいる

    ■[レヴュー]メタフィクションを「降りる」方法 - 2009-05-13 - 感情レヴュー
  • 方法としての竹内好 - 感情レヴュー

    とアジア (ちくま学芸文庫) 作者: 竹内好出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 1993/11/01メディア: 文庫購入: 2人 クリック: 11回この商品を含むブログ (27件) を見る竹内好とは、戦時中から中国文学を専門とし、論壇と文壇に幅広く関与した評論家として知られている。戦時中は武田泰淳らと「中国文学研究会」を立ち上げ、魯迅論を執筆するなどしていたが、論壇に頭角を現すのは戦後になってからである。 戦後の早くから、日浪曼派を問題設定に組み込んだ竹内は、当時の論壇で比較的優位な立場に立てた。何故か*1。 ここで当時を振り返っておくと、平野謙らを擁する「近代文学」グループと、中野重治らが属する共産党系の文学グループの対立軸(政治と文学論争など)によってまずは展開される戦後文壇に象徴されるように、当時の論壇は、戦争を招いた超法規的なファシズム(ウルトラ・ナショナリズム)と親和性の

    方法としての竹内好 - 感情レヴュー
  • 窓から窓へ――『トウキョウソナタ』 - 感情レヴュー

    東京に住むある家族の離散および崩壊と再生の物語。誰しもが認める通り話の大筋をまとめるとこうなるが、それに触れる前に、まずは窓に注目しておかなければならない。『トウキョウソナタ』は窓に始まり、窓に終わる映画だからだ。 注意すべきは、この映画における窓は、シーンによってはイメージを比喩的に転換させ、たとえば、車が突き進む地平線でもあり、母が手を伸ばす先にある空間でもあり(「引っ張って、誰か引っ張って…」)、海の向こうに広がる夜空でもあり、戦争をしている余所の国(の国境)を映し出すテレビモニターでもあるだろう。もちろん、それはこの映画を映し出しているスクリーンのことでもあるのだが(「またかよ」と言わずにとりあえず信用してほしいのだけれど)、今はそこまで言及するのは控えておく。 そもそも、冒頭からこの映画は印象的な窓のシーンを配置する。新聞紙をばらばらに飛ばすほどの暴風雨の雨が吹き込んでくるテラ

    窓から窓へ――『トウキョウソナタ』 - 感情レヴュー
  • 中上論と小泉元首相と批評についての話 - 感情レヴュー

    1路地から路地ならざるものへ 以前にも告知した通り、「ユリイカ」で中上健次論を書きましたが、もう発売されている頃ではないでしょうか。「中上以後」というタイトルが示す通り、中上健次、阿部和重、古川日出男へとリレーする構成をとっています。テーマは、サーガの想像力の変容についてです。土地・地名が物語の動力としてどのように関係しているのかを検証することによって、このテーマを明らかにしました。 何故この三人を採用したのかというと、中上特集なので中上を出発点にするに相応しいテーマを選んだわけですが、三人とも、物語の動力を得るに当たって、土地なり地名を活用することにきわめて自覚的な(批評をこめた)作家だからです。物語を展開するのに無自覚ではいられない1980年代以降のいわゆる物語批判の文脈にあって、彼らは物語を積極的に組織し運営しながら、物語を冷徹に対象化し続けました。そのような、物語に対して両義的なス

    中上論と小泉元首相と批評についての話 - 感情レヴュー
    chaturanga
    chaturanga 2008/09/29
    いろいろおめでとうございます!!
  • 前回の補遺 - 感情レヴュー

    批評の方法については、ここでは何度か言及していることだけれど、僕が意図している方法は、表現論(テクスト分析など)の軸と歴史・社会分析(消費やコミュニケーション分析も含む)の軸を縦横におり合わせたものだ、ということです。表現論によってジャンル固有の形式・方法論を抽出することと、その表現の歴史的・社会的な意義なり立ち位置を明らかにすることの往復運動が、批評には求められているという理解ですね。 とくにこのブログ開設時からの僕の関心は、1980-90年代に隆盛した物語批判の後、物語(を語ること)といかに関係を結び直すか、読者との共感のルート・感情の創出をいかに確保するか、といったことにあります(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070803、http://d.hatena.ne.jp/sz9/20080307)。現在このような関心に至ったのは、当然、上記の二軸を通して文学に接

    前回の補遺 - 感情レヴュー
  • 2008-08-30 -青春小説論――佐藤友哉の自意識というモード - 感情レヴュー

    皆さんお久しぶりです。夏休みの宿題として、今月初め、中上健次論と青春小説論を自分に課しました。まにあいました。どちらも依頼原稿だったのですが、中上論は来月の「ユリイカ」中上特集に載る予定です。青春小説論の方は、残念ながら掲載媒体が発行できない状態になり、結果、ここに載せることにしました。青春小説をキーワードにして佐藤友哉を論じています。いままでの議論と色んなところで連関すると思いますので、お気に召されればどうぞ。最近の雨は凄いので、気を付けてください。 +++ 佐藤友哉といえば青春小説。青春小説といえば佐藤友哉、とはさすがにいいすぎかもしれないけれど、佐藤友哉といえばやはり青春小説だろう。だから、たとえば高橋源一郎が、佐藤友哉に対して成熟(ラノベから純文学への)を勧めることは(「新潮」2007年7月号、佐藤友哉との対談)、暴言としか思えない。誰だってあの太宰治を成熟してほしかったなどと思い

    2008-08-30 -青春小説論――佐藤友哉の自意識というモード - 感情レヴュー
  • 2008-07-21

    見ての通り「ポニョ」は典型的な和製キャラといえるだろうけど、その母親が「リトル・マーメイド」にひき写しであることを読み取って、これは日アニメがディズニーから生まれたことの隠喩ではないかとか、『ファインディング・ニモ』との主題の共有を読み取って、ディズニー&ピクサーのジョン・ラセター(フル3DCG)への牽制だとか、複数の人間たちに取り巻かれた半人間(半魚人)キャラという図式って『よつばと!』みたいだなとか、色々解釈できるだろうが、これらは映画鑑賞においてはあまり重要ではない話です。 ところで僕は、ジブリ作品やポケモンシリーズは、家ん中でDVDとかじゃなく、無理をしてでも映画館で観るべきだと常日頃思っていて、『ポニョ』もやっぱりその思いを強くしてくれたんだけど、映像を視聴している子供たちの一々の反応が面白いというか可愛い。 劇場全部が作品になっているようで、たとえば、緊張感が切れたのか急にう

    2008-07-21
  • 古川日出男「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」のための小文――話すように書くこと・書くように話すこと・歌うように話すこと(2008-06-17 - 感情レヴュー)

    近代文学のはじまりは、まず、話すように書くことが目指された(言文一致運動、明治20−30年代)。そして、それはまもなく成就する(明治40年前後)。以降、誰もが話すように書くことを謳歌したが(大正期)、やがてそれに対する反抗が芽生え、書くように話すことが提唱されたのだった(横光の「国語との対決」、フォルマリズム宣言)。 書くように話すことで、話すように書く理性――書き言葉を話し言葉の文法に従属させる理性――が制御できない部分を解放しようとしたのである。そうして横光をはじめとするモダニストは、書くように話すことを徹底したあげく、およそ話されがたい書き言葉にこだわることになった。 しかし彼らはやがて、話すことに相対的に重点を移していった。書き言葉を徹底することはできない。小説は書くことと話すことによって成り立っているからである。 だから、川端は、書き言葉の記憶を留めるように、アイロニカルに話す(

    古川日出男「狗塚カナリアによる「三きょうだいの歴史」」のための小文――話すように書くこと・書くように話すこと・歌うように話すこと(2008-06-17 - 感情レヴュー)
  • 批評のコミュニケーション(2)、あるいはモダニズム以降の表現の可能性(2) - 感情レヴュー

    思えば、物語や意味になかなか結実しない言葉の列、即物的な文章を肯定的に評価する傾向が見られだしたのは、90年代の後半、J文学がにぎわったころである。たとえば、ベケット(というかジジェク)経由で中原昌也を擁護する絓秀実のジャンク文学(『「帝国」の文学』『JUNKの逆襲』)。あるいは、自然主義を擁護する大杉重男の、文学の無名性(『アンチ漱石』)。 ただし、このとき彼らは、ジャンクそれ自体、無名性それ自体に愛着を感じ、評価したのではなかった。二人とも、国民作家・夏目漱石を批判する文脈においてジャンクなり無名性を提示したのであり(80年代以降の物語批判の極北)、その意味でジャンクも無名も、言葉の即物性とはおよそ無縁な、物語(「父殺し」とか)の磁場にロマンチックなまでに従順な側面をもっていた*1。 しかも彼らは、漱石の実作に直接向かい合うというよりも、漱石を擁護することで国民作家-国民文学という物語

    批評のコミュニケーション(2)、あるいはモダニズム以降の表現の可能性(2) - 感情レヴュー
  • 物語の連鎖、ひたすら連鎖 - 感情レヴュー

    (例1)作家間、固有名間のオマージュ的連鎖。 マネ『バルコニー』1868 マティス『コリウールのフランス窓』1914 ザオ・ウーキー『アンリ・マティスに捧ぐ』1986 この連鎖においては、マスターピースを軸にした美術史の豊穣な物語が語られるだろう。具象と抽象の間でゆれながら作家の固有名だけはゆるぎないものとしてここにはある。 むろんここに、たとえば藤島武二の『黄浦江』(1938−『幸ある朝』1908)の「窓」を繋げて、もう一つの物語を語り起こすことも可能だ。美術史をさらに上書きするために。しかし、僕たちは、これとは別の連鎖の様態も知っている。 +++ (例2)図像の横滑り、無節操な連鎖、またの名をモンドリアン連鎖。 『コンポジション』1920 『コンポジション』1935 『黄、赤、青のコンポジション』1937-42 『ブロードウェイ・ブギウギ』1942-43 ヘリット・トーマス・リートフェ

    物語の連鎖、ひたすら連鎖 - 感情レヴュー
  • 感情レヴュー - 小田実追悼——原爆文学史試論

    1945年の8月6日と9日に何がおこったのか知らない渋谷の学生たちへのインタビューからはじまるスティーヴン・オカザキのドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』は、原爆という出来事を、その基の基にたち返って検証しようというスタンスから作られた作品です。 当時の記録映像や存命被害者の証言、彼らの身体にいまだしも残る深い傷跡を90分見聞きすることは、圧倒的な事実を突きつけられているように感じました*1。いまだ原爆の負の側面を教育しないアメリカ、原爆の教育を怠りつつある日には意義の多い作品であることは間違いありません*2。 とはいえ、原爆教育の話をここでするつもりはありません。そういうことよりも、核というもの原爆というものは日のアイデンティティーの重要な一部として、そろそろというか改めてというか何度も繰り返しというか、再認識した方がいいのではないかと思ったりします。たとえば、原爆をテーマに

    感情レヴュー - 小田実追悼——原爆文学史試論
    chaturanga
    chaturanga 2007/08/11
    小田実の『HIROSHIMA』
  • モダニズム以降の表現の可能性 : 感情レヴュー

    博士論文が審査を通過しました。タイトルは、『安吾戦争後史論 モダニズム以降の表現の可能性』です*1。興味のある方は、プロフィール欄のアドレスに連絡くだされば、データを送ります。 +++ ところで、僕が文学におけるモダニズムというときは、1920年代にマルクス主義や横光利一らいわゆるモダニストが参戦した、形式主義文学論争が念頭にあります。 そこで論争の主軸になった横光が試みたことは、大きく二点あります。まずは、作家が文学形式(言語手段)を自明なものとして何かを表現する時代に別れを告げ、そのような自明性にいまだしがみついている既成の文壇を批判したことが第一点。表現なんてそれこそ読者の取りようによって異なった解釈をされてしまうのだから、自分の思う通りに表現するのではなく(表現形式を無視するのではなく)、表現形式に注目せよ、ということが第二点。 この認識のもとに、言葉を駆使した様々な形式的実験がな

    モダニズム以降の表現の可能性 : 感情レヴュー
  • ゲンバク小説、文学ジャンク - 感情レヴュー

    びッくりした。昨日ブログを書いた後(「原爆」関連の小説について少しふれたのだが)、池袋のたまたま入った古書店で大田洋子の潮文庫版『屍の街』(1948)を発見、250円ほどで手に入れた。こうの史代氏が『夕凪の街 桜の国』の参考資料にあげているもので*1、僕も長らく欲しいと思っていた小説だった。原民喜(1951没)の『夏の花』(1947)は「青空文庫」で手軽に読めるから手元になくても平気なんだけど、大田のものは手に入れにくい状況にある(たぶんね)。この2作品はいわゆる原爆ものとして知られるなかでも、まさに被爆の体験者によって書かれた、初期のものに当たる。 +++ 原爆ものといってもいくつかあるけれど(いちおう小説に限定)、この2作品と、それから『ヒロシマ・ノート』(1965大江健三郎)と『黒い雨』(1965井伏鱒二)を読んだうえで、『六〇〇〇度』と『ある日、爆弾が落ちてきて』(昨日のブログ参照

    ゲンバク小説、文学ジャンク - 感情レヴュー
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