電通関西支社は2月24日、大極殿や正倉院、桂離宮など、貴重な文化財の細部や記録をHD映像で鑑賞できるアプリ「歴史カメラ」を公開した。朝日放送が関西地域を中心に収録してきた文化財のハイビジョン動画を順次配信するもので、コンテンツは、5、6本をひとまとまりとして、数回に分けてシリーズとして公開される予定だが、動画1本のみの購入や、無料サンプルの視聴も可能となっている。4月中旬までの毎週木曜日に新しいコンテンツの公開を予定しているという。 動画の鑑賞は、まずアプリをiPadにインストールし、アプリ上から鑑賞したいシリーズを選択することで購入手続きに進み、動画がダウンロードされる仕組みとなっている。ファイル容量が大きいため、アプリと動画のダウンロードはWifi接続時のみに限られる。 「歴史カメラ」 「歴史カメラ」(iPad対応、無料) 【iTunesが開きます】 ※価格は記事執筆時点のもので、変動
日本最古の安産、求子(ぐし)(子授け)祈願の寺として知られる奈良市今市町の帯解寺(おびとけでら)の参拝者が増えている。NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」の主人公、江(ごう)が出産祈願をした寺として紹介され人気を呼び、子授け祈願に例年の倍以上の参拝者が訪れている。昨年の大河ドラマによる全国的な“龍馬ブーム”には無縁だった奈良だが、今年はブームを先取りした格好だ。 帯解寺は1150年ほど前の平安時代、子宝に恵まれなかった文徳天皇のきさき、染殿(そめどの)皇后が祈願したところ男子を出産、腹に巻いていた帯を無事に解くことができた、という故事が由来。本尊の地蔵菩薩像(鎌倉時代、重要文化財)は「腹帯地蔵」ともいわれる。 江も徳川幕府の2代将軍、秀忠の正室となったものの世継ぎに恵まれず、悩んだ末に同寺を訪れ、男子出産を祈願。まもなく5人目の子供として、後の3代将軍、家光を授かったという。 このエピソ
奈良・薬師寺は1日、寺所蔵の大般若経(だいはんにゃきょう)47冊が、奈良時代に書写された経巻を再構成した「永恩経(えいおんきょう)」の一部とわかったと発表した。元は巻物だったが、江戸時代に折り本に仕立て直されたらしく、これまで江戸時代の経本とされていた。永恩経は約40巻しか見つかっておらず、重要文化財級の発見という。 永恩(1167〜?)は鎌倉時代を生きた奈良・興福寺の僧で、奈良〜平安期の経巻を集めて大般若経全600巻の再構成に取り組んだ。永恩経の大半は散逸し、京都国立博物館の2巻が重文指定されている。 今回、永恩経とわかった経本は、1冊が縦25.6センチ、長さは折り目をならすと8〜10メートル。昨年9月、巻末の「奥書」に朱書きされた永恩の署名から「永恩経」と判明。筆跡などから、奈良時代の写経と判断された。 薬師寺宝物管理研究所の稲城信子研究員は「奈良時代の写経の発見は奈良でも数例。
戦国武将が着飾った甲冑(かっちゅう)の最大生産地が、戦国時代では存在感の薄い奈良だったとみられることが25日、元奈良県立美術館長の宮崎隆旨(たかし)さん(67)の研究で明らかになった。シェアだけでなく品質も他産地を圧倒していたとみられ、需要がピークだった慶長年間(1596~1615年)には、奈良に約440人の甲冑師がいたと推計。奈良産の甲冑が全国的なトップブランドだった可能性が高いという。 甲冑には製造場所が記されず、産業としての研究は進んでいなかったが、宮崎さんは生産地側の文献史料を集め、時代や地域ごとに甲冑師の概数を比較した。 その結果、室町後期から戦国時代を経て江戸中期にかけ、奈良は全国最大の生産地で、ピーク時には約440人の甲冑師が存在し、京都、大阪、江戸がこれに続くことが判明した。 甲冑の一部には作者の銘が印刻されており、海外も含めた各地の甲冑の銘を解読した結果、奈良が群を抜いて
「まさに日本書紀の記述通りだ」。明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)に接して新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳。9日の村教委の発表を受け、被葬者は、牽牛子塚古墳が斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)、越塚御門古墳が孫の大田皇女(おおたのひめみこ)と確定したとする声が専門家から相次いだ。飛鳥時代の歴史に新たな光を当てる成果に、注目が集まりそうだ。 村文化財顧問の木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「日本書紀の記述通りで、疑いようがない。牽牛子塚古墳にとどまらず、他の飛鳥時代の古墳の被葬者像や、飛鳥の歴史全体を考える定点となる」と調査成果の意義を強調する。 越塚御門古墳の石室は、同村にある「飛鳥の謎の石造物」の一つとされる鬼ノ俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同型だった。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、斉明天皇が同古墳から牽牛子塚古墳に改葬された
発掘調査における最も重要な技術のひとつ「測量」に焦点をあて、その歴史や最先端の技術などを紹介する「測る、知る、伝える―平城京と文化財―」が、奈良市佐紀町の平城宮跡資料館で開かれている。1月16日まで。無料。 目を引くのは、床に敷かれた縦約5メートル、横約6メートルの平城京跡周辺の空中写真。市役所や復元された朱雀門など現在の姿の上に、奈良時代の条坊を示す白いラインをかぶせている。かつて朱雀大路があった付近では、田んぼの区画が条坊ラインと重なる部分も見られる。 平城京研究の先駆者、北浦定政(1817〜71)は、田んぼの区画などを参考に平城京跡一帯を測量して条坊を復元した。持ち歩いて道路や河川の様子を書き込んだフィールドノートや平城京復元図など、めったに見られない貴重な定政の測量資料も展示されている。 25の大学や研究機関による測量の最先端の研究成果をコンピューター・グラフィックスなどで紹介した
左は、大嘗宮を形成する建物などの跡ではなかったと訂正された遺構。右は、利用状況から宮の造営過程が明らかになった広場跡=18日午前、奈良県橿原市(門井聡撮影) 奈良文化財研究所は18日、奈良県橿原市の藤原宮(694〜710年)跡から今年7月、天皇が即位儀礼を行う大嘗宮(だいじょうきゅう)の可能性がある建物跡などが見つかったとの発表内容が「全面的に誤り」とする異例の訂正発表を行った。入所2年目の若手研究員を中心とする3人が作業にあたったが、誤認したといい、考古学の信頼性に疑問が投げかけられる事態となりそうだ。 奈文研によると、研究員の1人は「『現時点ではこう考える』という試案段階で発表してしまった」と話しているという。 7月の発表では建物跡や四方を囲う塀跡、門跡を確認したとし、「平城宮(奈良市)の大嘗宮跡と類似した構造」と説明。建物や塀を構成する柱穴が42基あるとしたが、藤原宮があった時代の柱
宮内庁と広陵町教育委員会は12日、同町にある大型前方後円墳・新木山(にきやま)古墳(5世紀前半、全長約200メートル)の発掘現場を歴史・考古系の研究者38人と報道陣に公開した。天皇や皇族の墓の可能性がある陵墓参考地の古墳を宮内庁と地元自治体が同時に調査するのは、2008年の百舌鳥(もず)御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市北区)に次ぎ2例目。宮内庁の発掘は陵墓などの維持・管理が主目的で、その宮内庁と自治体の同時発掘がさきがけとなり、学術調査のための共同発掘に進めば、古代史の解明は大いに進むだろう。 この日、発掘現場を見学した研究者は歴史・考古系15学会の38人。宮内庁の担当者から12カ所のトレンチごとに説明を受けた。このうち3カ所の延長上の周濠部を同町教委がトレンチ調査した。 新木山古墳は大小の古墳が密集している北葛城地方の馬見古墳群の中でも、近くの巣山古墳(全長約220メートル)とともに中心
正倉院の宝物だったことが判明した東大寺大仏殿からの出土品で国宝「金堂鎮壇具」の金銀荘大刀二振。左が陽剣、右が陰剣(頼光和弘撮影)=25日午後4時28分、奈良県生駒市の元興寺文化財保存科学センター(頼光和弘撮影) 奈良市の東大寺大仏の足下から明治40年に出土した国宝・金(こん)堂(どう)鎮(ちん)壇(だん)具(ぐ)の金(きん)銀(ぎん)荘(そうの)大(た)刀(ち)2本が、同寺を創建した聖武天皇没後に妻の光明皇后が大仏に献納し、その後約1250年にわたって行方が分からなくなっていた「陰(いん)寶(ほう)劔(けん)」と「陽(よう)寶(ほう)劔(けん)」だったこと分かり、元興寺文化財研究所(奈良市)と東大寺が25日、発表した。2本は、大仏に献納された聖武天皇の遺品目録「国(こっ)家(か)珍(ちん)宝(ぽう)帳(ちょう)」の大刀の項目の筆頭に記された正倉院宝物。献納後に光明皇后が持ち出し、埋納した
正倉院の宝物だったことが判明した東大寺大仏殿からの出土品で国宝「金堂鎮壇具」の金銀荘大刀二振。左が陽剣、右が陰剣=奈良県生駒市の元興寺文化財保存科学センター(頼光和弘撮影) 東大寺の大仏のひざの下に埋められていた2本の大刀は、1250年もの間行方不明とされた「陰寶劔(いんほうけん)」と「陽寶劔(ようほうけん)」だった。当時正倉院に収めた聖武天皇の遺品を「除物(じょもつ)」にして持ち出せたのは、献納した本人の光明皇后ただ1人。大刀が正倉院から出された759年12月は光明皇后が世を去る半年前で、皇后は死を前に何を願って夫の遺愛の大刀を大仏の下に埋めたのか。 「大仏殿が未来永劫(えいごう)安泰であるように願い、地鎮のために埋めた」とするのは森郁夫・帝塚山大名誉教授(歴史考古学)。大刀の名に「陰・陽」とあることから、「地鎮祭には陰陽(おんみょう)道も取り入れられたのでは」としている。 奈良国立博物
記者会見で金銀荘大刀のX線写真を見せ、象眼を説明する元興寺文化財研究所の所員ら=奈良市水門町の東大寺金鐘会館 歴史的な大発見だ――。東大寺の大仏の足元から見つかっていた金銀荘大刀(きんぎんそうたち)が、正倉院から取り出されて行方不明になっていた宝物だったことがわかり、専門家や正倉院関係者から驚きの声があがった。同寺は今後、大仏の足元を再調査する予定といい、新たな発見にも期待がかかる。 調査にあたった元興寺文化財研究所によると、8月に大刀の修理をはじめ、X線撮影をしていた9月30日に刀身に象眼があるのを発見した。 肉眼では表面の様子が全くわからない中、突然浮かび上がった「陰劔」「陽劔」の文字に、同研究所の坪井清足所長は「文書記録と出土遺物が、これほど見事に一致するとは予想もしなかった。この調査に立ち会えたことに、非常に感激している」と興奮気味に話した。 宮内庁正倉院事務所の杉本一樹所長も「す
奈良市大森町で、奈良時代後半の様々な規模の住宅跡や工房跡が見つかった。同市埋蔵文化財調査センターが12日、発表した。これまで未確認だった規模の宅地跡もあり、平城京の「下町」の様相を知る上で貴重だという。 JR奈良駅南側の土地区画整理事業に伴い、2001年度から、中下級役人の住宅があったとされる、かつての平城京左京五条四坊十六坪(約1万5千平方メートル)を調べた。 その結果、東西南北に走る通路や井戸の分布などから、32分の1町(約450平方メートル)から8分の3町(約4800平方メートル)まで様々な大きさに分割された宅地跡が出土。8分の3、16分の3、24分の1町の各規模の宅地跡が確認されるのは初めてで、いずれも16分の1町を基準に合併・分割されたとみられるという。 掘っ立て柱の建物や塀の跡約200棟分も出土。ガラスや銅を溶かしたるつぼなども確認され、住宅と工房が混在していたらしい。センター
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