太平洋戦争にはいくつかの転機があるが、昭和17(1942)年8月にはじまったガダルカナル島をめぐる攻防戦はまちがいなくそんな「転機」の一つだろう。日本軍は昭和18年2月、ガダルカナル島から撤退するが、以後、ガダルカナル島を拠点に攻勢に出る米軍と、それを必死に防ぎ止めようとする日本軍のあいだで1年におよぶ激戦が繰り広げられた。そんなさなか、18年4月18日、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が前線基地へ視察に赴く途中、乗機が米戦闘機に撃墜され戦死する。――あれから80年。山本の死はいったいなにを遺したのだろうか。 「もう生きては帰れない」 ところで、山本長官戦死の責任問題はどう扱われたか。 じつはこの件で、連合艦隊司令部やラバウルの南東方面艦隊、第二十六航空戦隊司令部など、責任の中枢にいた者で処分を受けたものはいない。長官機護衛を担当した第二〇四海軍航空隊司令はもちろん、護衛にあたった森崎武予
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