シーザー 起きた、見た、なった 高橋源一郎 ある朝、わたしは不安な夢からめざめた。 わたしの名前は、ジョン・F・ケネディとかトーマス・マンとかいった名前だった。 本当はグレゴール・ザムザだったかもしれない。 わたしはベッドを起き上がろうとした。 おどろくべきことに、わたしは自分の躰が大きな「毒虫」になっているのに気づいた。 この固い背中は甲殻だろうか? まだ夢が続いているのかもしれない、とわたしは思う。 もし、夢が続いているのなら、目を覚ませばいい。目を覚ますには起き上がることだ。 わたしが起き上がろうと頭をもたげると、お腹が褐色にふくらみ、固い節で分け目を 入れられているのが見えた。 「なんてこった。これでは本当に毒虫じゃあないか」 「虫」は「毒」を持たないし、「毒」は「虫」ではない。「毒虫」は論理的に考えて、「毒を持つ虫」だ。 わたしは毒虫が好きではない。毒虫を触るのも
夏目漱石 吾輩は毒虫である。名はザムザという。なんでこうなったのか頓と見当がつかぬ。何かしら不安な夢を見ていた気がするが、夢とは動物の体をかくも変化せしめる程のエネルギーを持っていたかしらん。腹にうじゃうじゃついている足が気色悪いのだがそれを舐める舌もない。あれほど好きな毛繕いももう出来ぬのだろうか。今の現実こそこれ悪夢である。主人が吾輩を見れば何と言うだろうか、「ごろごろ虫みたいに寝転がってるから、本当に虫になりおった」主人が吾輩の姿を見る時は吾輩が家で休息しておる時か、珍しく躁鬱の気が消え落ちついて外界を見ることが出来るようになった時である。したがって吾輩の外での勇猛果敢なる活躍や、疳の虫が爆発した主人の目に止まらぬよう家を駈け回る敏捷な姿を主人は目にしていないのである。いつもごろごろなどとは腹立たしい。最もまだそう言うと決まったわけではないのだが。あの主人なら巨大な毒虫がかつての愛猫
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