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ブックマーク / chez-nous.typepad.jp (5)

  • 美学は何の役に立つのか?

    以下の原稿は、もともと2019年10月12-13日、東京の成城大学における第70回美学会全国大会のために用意した講演原稿ですが、台風19号のために中止となったため、2020年1月12日に同じく成城大学において発表させていただいたものです。その後、雑誌『美学』に掲載するという話もあったのですが、字数制限などがあり残念ながら実現しませんでした。美学会の将来ということを意識した内容なので、このまま一般の雑誌原稿としても発表しにくいため、ここで共有したいと考えました。 〈1〉「歴史の終焉」が意味するもの 2010年、中国の北京大学において、第18回国際美学会議が開催されました。その時の大会テーマは「美学の多様性(Diversities of Aesthetics)」というものでした。企画者のひとりであった佐々木健一氏はそこで「美学の哲学的役割(Philosophical Role of Aesth

  • インタラクション — 新しい行為概念

    先週の水曜日(2013年5月29日)、パリの国立装飾美術大学(École nationale supérieure des arts décoratifs)とパリ第8大学が主催する講演会のシリーズで、「インタラクションが臨界に達する時」("When Interaction Reaches the Critical Point")という話をしました(パリ第8大学の大久保美紀さんのブログに、講演の要旨と説明が英語とフランス語で掲載されています)。英語でわりとフリーに話したので、内容を正確に思い出して文章化することはできませんが、大まかに言えば「新聞女」と「フォルマント兄弟」という、一見かなりかけ離れたアーティストの活動を手がかりとして「インタラクション」概念の再検討を行うのが趣旨でした。いずれちゃんと文章化したいのですが、とりあえず要点を整理して日語でメモしておきます。"The Critic

  • 本質的には、アートと政治は同一である

    これは、前回の記事のいわば続きというか補足である。最後の段落でぼくは、アートとは政治によってやっと存在することを許されるような従属的存在ではない、という意味のことを書いた。それはどういう意味か。たんなる理想論を言っているのか。現に、新しい美術大学の開学が、一大臣の発言によって危機にさらされたではないか。そもそも芸術分野に配分される予算を決めるのは政治の判断であって、芸術自身には決められないではないか。そうした問いに対してお答えしたい。 質的な意味で考えるならば、アートにとって政治とは、アートを外から支配する何らかの力ではない。むしろ、アートとは政治そのものなのである。けれどもこのことを理解するには、政治とは何か、「政治的である」とはそもそもどのようなことなのかを、考えてみなければならない。というのも、私たちが常識的に理解している「政治」は、政治的なものの質を何も語っていないと思うからで

  • 2011: THE GREAT EXPOSURE

  • 「アウトサイダー・アート」《2》

    「アウトサイダー・アートの三段論法」というのをご存じだろうか? 何、知らない? それは無理もない。たったいま、ぼくが考えたのだから。では教えよう。 大前提「すべてのアーティストは来アウトサイダーである」 小前提「人間はみな来アーティストである」 結 論「故に、すべての人間は来アウトサイダーである」 こうした形式的推論にはぼくは元来あまり関心がないが、ここにあげた大小ふたつの「前提」は、少なくとも芸術を語る時に多くの人が口にする、あるいはある程度認めている命題ではないかと推察する。つまりここでぼくが言いたいのはたんに、それらの通念に従えば、すべての人間がアウトサイダーであることが論理的に導かれる、ということだけである。 すべての人間が来アウトサイダー? ではインサイダーとはいったい誰なのか?と疑問に思う方もおられるだろう。インサイダーがなけれぱアウトサイダーも定義できないではないか、

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