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アニメとゼロ年代の想像力に関するcrow_henmiのブックマーク (13)

  • 批評の道具としての『エヴァ』の扱われ方

    @moriteppei@mastodon.social @moriteppei 『戦闘美少女の精神分析』。女性のおたくがこれ読んで何思うか、聞いてみたいっすね。自分はいまだに「萌え」に羞恥心があるので、上手く楽しめないのだと思いました。 2010-12-01 19:38:36 藍沢 @i_zawa ちょっと気になりますなー読みたいかもです RT @moriteppei: 『戦闘美少女の精神分析』。女性のおたくがこれ読んで何思うか、聞いてみたいっすね。自分はいまだに「萌え」に羞恥心があるので、上手く楽しめないのだと思いました。 2010-12-01 20:17:43

    批評の道具としての『エヴァ』の扱われ方
  • 決断主義と『コードギアス 反逆のルルーシュ』 - Economics Lovers Live

    ちょっと訳あって素直に第1話から第25話まで見通す(約10時間)。ちょっと体調がここ数日あんまりよくなくて頭痛がするけれども、まあしゃあない。 しかしいままで宇野常寛vs笠井潔vs栗原裕一郎氏らの三つ巴がいまいち背景になる知識に欠けてたけども、ようやくわかったような気がする。 要するに彼らが問題にしている例えば『コードギアス』に表れる決断主義的なものというのは、僕がキム・ギドクの作品にみている清算主義的心性とまったく同じ。もちろんこのときの「清算主義」というのは経済学での用法として考えてもらってもいい。 決断主義=清算主義 これでおさえておいて、日の場合だと間違いないような気がする。この図式でおさえると、宇野、笠井、栗原各氏の論調がより明白になると思う。しかしコードギアスまだ続きがあるのかw コードギアス 反逆のルルーシュ 1 [DVD] 出版社/メーカー: バンダイビジュアル発売日:

    決断主義と『コードギアス 反逆のルルーシュ』 - Economics Lovers Live
  • 「サマーウォーズ」のモヤモヤを「ヱヴァ破」で?<再構築(リヴィルド)の価値は> 囚人022の避難所

    このブログでは細田守『サマーウォーズ』は、あんな明るい娯楽映画なのに、どこかモヤモヤするのは何なんでしょうね、という話をしてたところです。(上手くまとめられませんでしたが。) 今日はTOKIGAWAさんが、気になる記事を書いていて、また少し違う視野から話が出来る気がしたので、ここでコメントしてみます。 サマーウォーズになくて、ヱヴァンゲリヲンにあったもの - 海ノ藻屑 「痛み」なんだ!! 「代償」なんだよ!!! サマーウォーズに足りなかったのはこれなんだ。だから、胸が躍らなかったんだよ!! 私は『ヱヴァンゲリヲン:破』を観ても、また違う感じでモヤモヤしてたので、これには何だか同意できないなーと思って、その理由を考えてみました。 それで、むしろ私が『ヱヴァ破』でモヤッとした理由が分かった気がしたんで、下記のようにブクマコメントしました。 ヱヴァ破はエヴァ以降に生じた「痛み」のバーゲンセール状

  • 『サマーウォーズ』の大家族は、ぜいたくな懐古趣味に過ぎないのか - シロクマの屑籠

    先日、サマーウォーズ見たら死にたくなったという記事をみて、アホらしいと一笑に付していたけど、実際に映画館で『サマーウォーズ』をみているうちに、笑って済ませられなくなってきたので、文章にまとめておこうと思う。 リンク先の文章のように、“能力的に優れている人達の物語”というのも、羨ましがるポイントの一つかもしれない。しかし、それよりも私が羨ましく思ったのは、あの映画のなかで一貫している、血縁共同体内の承認と信頼のシステムとか、一族の理想とか、アイデンティティの牽引役としての年寄りとか、そういう描写のほうだ。 大家族は希少品、栄ばあちゃんも希少品 『サマーウォーズ』は、大家族の素晴らしさを描いた作品だ。けれどもあの大家族、どうみても希少な贅沢品の類である。ああいう大家族を維持しようと思っても、今日日、そのための基盤があまりにも失われている。[都市郊外への進出] [核家族化] [個人の自由と利便性

    『サマーウォーズ』の大家族は、ぜいたくな懐古趣味に過ぎないのか - シロクマの屑籠
  • 神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis

    大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問

    神なき時代の正義と悪――『機動戦士ガンダム00』の物語に関して - metamorphosis
  • ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis

    アニメ『天体戦士サンレッド』を最後まで見た。この作品の舞台である武蔵溝ノ口には何度も足を運んだことがあったので、非常にリアルに描かれる駅前の風景などを見ているだけでも楽しめるところがあった(もちろんギャグも面白かったが)。 この作品を見ていて、地方性というものについて、いろいろと考えさせられた。単に武蔵溝ノ口という特定の地域が舞台になっていることだけに興味を持ったわけではなく、なぜそのような特定の地域をリアルに描かねばならないのか、ということをいろいろと考えさせられたのだ。グローバル社会とかグローバル資主義などという言葉が囁かれている昨今、それと歩調を合わせるかのように、ローカルなものにも焦点が当たられるという傾向が出始めているように思う。 『サンレッド』においてローカルなものの描き方が秀逸だと思うのは、正義の味方と悪の組織との闘いという大きな枠組の内部でローカルなものが提示されるのでは

    ローカルな街で現実と闘うということ――アニメ『天体戦士サンレッド』について - metamorphosis
  • アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

    アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ

    アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して
  • 『機動戦士ガンダム00』についての雑感 - tukinoha’s blog

    ふと思い出したのですが、大宅壮一は「文壇ギルドの解体期」という文章の中で、以下のように述べています。 「近頃の作品は殆ど読んでいない。」ということを、むしろ誇らしげに口にする文壇人が多いが、これほど文壇人自身による文壇その者に対する侮辱があるだろうか。 当そうですよね。身近な例で言えば「最近のアニメはつまらないから観ていない」などと公言するような人間にアニメの出来を云々する資格はない、ということになるでしょう。 そんなわけで、僕は声を小さく小さくして言いたいと思います。「すいません、最近やることが多くて、あまりアニメを観れてないんです……」。 それでもかろうじて『ダブルオー』は追えているので、今日はその話をしたいと思います(意味のない前置き)。 機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン1 [DVD] 出版社/メーカー: バンダイビジュアル発売日: 2009/02/20メディア: DVD購入

    『機動戦士ガンダム00』についての雑感 - tukinoha’s blog
  • clannad as 18-20 - hazumaのブログ

    こんばんは。仮面ライダーディケイドを見て、おいおい、結局ライダーもセカイ系のループのデータベースになってるじゃないか、宇野理論(「セカイ系は終わった、なぜならばライダーはサバイブでバトルロワイヤルだから」理論)はどうなったんだよ、とか思っている東浩紀です。ちなみに、平成ライダーシリーズについては、アギトを全話見終わり龍騎に移行しました。着々と見ていく予定です。 さて、1ヶ月ぐらい前のエントリーでCLANNAD AFTER STORYの16話を絶賛したぼくですが、じつはそのあといろいろ忙しくてここ3週間ほど放映を見ていませんでした。それで今日、『思想地図』の鼎談アンド飲み会が終わったあと(だれと鼎談したかはそのうち公式サイトでレポが出るはずです)、帰宅したら家族が寝静まっていたので3話連続で見てみました。それで感想。 ひとことで言うと、ぼくは18話と19話はあまり好きではなかったです。という

    clannad as 18-20 - hazumaのブログ
  • 不在の父と決断する女たち - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコーこの文章が碇シンジよすこやかによみがえれ――経験不可能性と決断主義の克服についての試論――や「ゼロ年代の想像力」に対するカウンターパートになるか、といえば微妙だけれど、エヴァにおける父と子の構図を「決断主義者」と「ひきこもり」の構図として図式化するのはわかりやすいけどそれってほんとに合ってるの? 設定上の構図が持っているイメージだけで語ってないか。と思ったので少し書いておく。もしかするとそこで見落とされている論理展開について。不在の父について。それから決断する女たちについて。そこで思い起こされるのが宇野常寛の「碇シンジでは夜神月を止められない」――経験不可能性を受け入れたひきこもりは決断主義者にアプローチできない――という言葉である。だが、実際には「碇シンジでは碇ゲンドウを止められない」と読むべきである。碇シンジと対比されるべき決断主義者はまず彼が主人公であった「新世紀エヴァ

    crow_henmi
    crow_henmi 2009/01/24
    非常にすんなりとしたエヴァ理解であり、それ自体の正しさは認めるが、そのうえにもう一段捩れがあるのでややこしいというのが自分のエヴァ観。先述エントリ追記で応答。
  • 供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    炎暑の日々をやりすごすうち、ふと気づくと涼風を肌に感じる季節になった。夏ももうすぐ終わりだなあ。 ここのところ、blogでまとまったエントリを書く気力がなかったので完全放置していたのだけど、Twitterなどでそれなりに書き留めた断片的なメモはあるので、それらを編集してお蔵出しなどしてみる。 ついったからの転載、改稿。 「恋空」は古典的な通過儀礼譚、しかもその純化された形として読むことができる。「日常>他者である移行対象との出会い>非日常かつ象徴的生>移行対象の死>日常への帰還と自己変容」という型がそこには見出される。しかし、なぜそのような通過儀礼譚が多くケータイ世代に受け入れられたのかが疑問としてある。 以前、現代における通過儀礼は共同体や社会システムの構造変化により困難になったと書いた。それに代わり「共同体が付与する意味にしたがって通過儀礼をなして成長するのではなく、自らを再帰的に成長

    供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • TURN 11『想い の 力』アーニャ、かわいいよアーニャ(笑)〜アーニャがルルーシュの妹説の妄想でお腹いっぱい - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

    □皇帝のギアスの問題〜記憶をいくらでも入れ替えられることが生む妄想の数々 えっと、まだ完全に妄想の域なんですが、ナイトオブシックスのアーニャ・アームストレイム卿が、ルルーシュのほんとうの妹なんじゃないか!?という妄想で盛り上がっています。ちなみに、根拠も整合性もないので、あくまで思い込みの幻想です(笑)。リアルタイム視聴は、こういうわけのわからん思い込みができるところが、たまらないんですよねー。ちなみに、久々に、漫研のチャットで1時間ほど、思いのたけを・・・。アーニャがかわいいっすよ、妹バンザイ!・・・と意味不明な絶叫を繰り返していただけだった気もするが・・・。いままで何となくかわいいなーとか思っていたんだけど、口で出すとなんか、あっ、ほんとにそう思っていたんだ!と自分の気持ちに気づいた今日この頃です。僕はどうも、無口な無表情の女の子に魅かれるらしい(笑)。 この物語には、皇帝のギアスの能

    TURN 11『想い の 力』アーニャ、かわいいよアーニャ(笑)〜アーニャがルルーシュの妹説の妄想でお腹いっぱい - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
  • 『天元突破グレンラガン』から『機動戦士ガンダム00』へ、あるいは、セカイ系を避けるための二つの方法 - metamorphosis

    『天元突破グレンラガン』とは、いったい、どのようなアニメ作品だったと言えるだろうか? 『グレンラガン』には、旧来のアニメ作品の反復という側面がある。もっと限定して言えば、それは、70年代から00年代にかけての(ロボット)アニメの反復である。しかしながら、過去のガイナックス作品のことを考えるのであれば、『グレンラガン』は、80年代にガイナックスが作った作品の反復である、とも言えるだろう(そもそも、ガイナックスの出発点は、過去のアニメや特撮をパロディにした作品を作っていたアマチュア集団である)。80年代にガイナックスの作った作品が、旧来のアニメや特撮の反復であるとしたら、『グレンラガン』は、まさに、そうしたガイナックスの行為の反復、「反復」の反復であると言えるだろう。 具体的に作品名を上げれば、『グレンラガン』は『トップをねらえ!』の反復であるように思えた(特に物語構造上)。他にも、『王立宇宙

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