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ブックマーク / kihamu.hatenadiary.org (29)

  • 民主党の組織と政策 - on the ground

    民主党の組織と政策 作者: 上神貴佳/堤英敬出版社/メーカー: 東洋経済新報社発売日: 2011/09/02メディア: 単行購入: 1人 クリック: 66回この商品を含むブログ (18件) を見る 今夏、書籍としてはほぼ初と言っていい、民主党についての実証的研究が出版された。若手の研究者を中心とする書では、民主党の特徴を予め(1)理念や政策の曖昧さ、(2)政権獲得の追求、(3)組織戦略の不明確性の3つに見定めた上で、その曖昧な組織と政策についての分析を行っている。 1章では、地方議会における民主党所属議員の議席割合が自民・公明・共産各党などと比較して低水準であり続けていることや、党員・サポーター数が自民党の3分の1程度に留まっていることなどから、民主党の地方組織の脆弱さが示される。これは、国会議員を中心として結成されたため、院外の社会的基盤を欠いている同党の性格を現わすものとされる。

    民主党の組織と政策 - on the ground
  • 「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件 - on the ground

    政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。 議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。 難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと

    「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件 - on the ground
  • 来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面 - on the ground

    過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。 法外なものとリークの射程――ウィキリークスをめぐって 「受益者負担」と言われながら、負担が未来へと先送りされるとき、私たちはどう考えればよいか。主要な問題は、システムの「持続可能性」などではない(それは二次的問題である)。コストとリスクを負わされる者に発言が可能でないことが問題なのだ――「代表なくして課税なし!」。今・ここで、語り

    来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面 - on the ground
  • ステークホルダーの両義性――あるいは政治主体としてのステークホルダーについて - on the ground

    数ヶ月前に私は、「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」なる文章を公表しました。十分だったかどうかは分かりませんが、そこでは、経営学でのstakeholder theoryの文脈を押さえつつ、stakeとstakeholderの語源・語義を簡単に整理して、「公共化された利害関係者」としてのstakeholder概念のニュアンスを明らかにしたつもりです。 その際の意識は主に、「ステークホルダー」なる新奇な言葉を使うことに懐疑的な人への説明にあったのですが、その後、事業仕分けを巡る議論などを眺めていると、むしろステークホルダー論を積極的に振り回すようなタイプの人々にある種の怖さを覚えるようになりました。 stakeholder theoryは元々、企業の活動から影響を受け、企業に対して重大な利害を有しながら、意思決定への影響力を持ち得ない主体を再定義する所から出発しました。stakehold

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  • 「暴力装置」イコール問題発言の構図 - on the ground

    仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 抗議受け謝罪、首相も陳謝 http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111801000326.html ツイッターでは政治家が政治学/社会学における初歩の初歩も知らないのか、として批判者を問題視する反応が(私のタイムラインでは)多かったように思いますが、今回の事案で重要なのはヴェーバーやレーニンがどうということではなく、現代の日において市民がいかに訓致化されているかということです。 市井の一般の人々がヴェーバーなど読むはずもなく、その多くが暴力なる機能語に規範的意味を過剰に読み取ってしまうのは自然であり、その反映としての側面を持つマスメディアや政治家が仙谷発言を批判的に捉えること自体は大した話ではありません。日ほど相対的高度に民主化された国家において、軍事組織を「暴力装置」と表現することがこれ程の反発を呼び起こすのは、むしろ当

    「暴力装置」イコール問題発言の構図 - on the ground
  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(4・完) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊 2.可能性と単独性 3.唯一者と絶対性 4.政治と未来(記事) 4.政治と未来 だが、幽霊はなおも取り憑く。現代は「リスク社会」だと言われる。リスクとは確率、すなわち幽霊である。何らかの選択や決定に伴う不確実性への認知から生じる不安が掻き立てられ、蔓延する。ありうる未来たる幽霊への動揺と、ありえた未来たる亡霊への罪責が、人々の周囲を徘徊する。反復して再来する。リスク社会における人々の行動は、未来についての不確実な予測――幽霊への不安――によって規定され、組織される。 中山竜一によれば、遍在するとともに潜在するリスクは、それが結び付き得る何らかの被害・加害とその影響についての予測不可能性ゆえに、専門家の計測・分析を頼りにするような統計学的基礎付けを持った統治システムの有効性を低減させている。公共的決定の様式は、今や単純な費用便益分析に基づくだけでなく、市民による価値評

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  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(3) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊 2.可能性と単独性 3.唯一者と絶対性(記事) 4.政治と未来 3.唯一者と絶対性 「ありえた私」が幽霊なら、過去や未来の私も幽霊である。D.パーフィットを中心として唱えられている、人格の同一性は程度の問題であるとする説に拠ろう。パーフィットらは、記憶・欲求・信念・性格・意図などの一連の心理的状態の継続が過去・現在・未来における人格の同一性を存立させると考えるが、私自身は心理的・物理的・社会的を問わず、様々な「利害関係stake」の共通性が主体の同定を可能にしていると主張したい。しかしここで重要なのは、「一生を通じた人格の同一性」が、個々の時点における人格の同質性ではなく、特定の状態の継続性に基づいて「構成された観念」であり、相対的でしかない、という考え方である。 昔とは全く別人になってしまったように思える人を、昔と同じあの人であると認めることは、いかにして可能にな

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  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(2) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊 2.可能性と単独性(記事) 3.唯一者と絶対性 4.政治と未来 2.可能性と単独性 この傲岸さに理論的形象を与えている形而上学的イデオローグは、S.A.クリプキの名で呼ばれている。固有名を現実世界についての複数の「物事がそうでありえた仕方ways things could have been」としての「可能世界possible world」を通じて同じ対象を指示し続ける「固定指示子rigid designator」として捉えたことで知られるこの人物は、固有名を「確定記述definite description」に還元する立場(記述説)を論駁したとされている。 記述説に基づくなら、バラク・オバマという名前は、1961年生まれのアフリカアメリカ人であり、ハワイ出身であり、ハーバード・ロー・レビューの編集長を務めたことがある法学者であり、第44代のアメリカ合衆国大統領で

    確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(2) - on the ground
  • 確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(1) - on the ground

    目次 1.確率と亡霊(記事) 2.可能性と単独性 3.唯一者と絶対性 4.政治と未来 1.確率と亡霊 例えば今、此処が爆心地になったとしよう。「敵」は近くに潜んでいた。肉片になった私の名は、石か何かに刻まれる。それは「止むを得ない犠牲necessary cost」であったと、皆が言う。しかし、何が「止むを得な」かったと言うのか? 「止むを得ない」のは、それが私でなくとも、誰かが死なざるを得ないからだ 。つまり、そのコストは、確率的に要請されている。無論、1つしかない「この命」の献上を強いられる者にとって、そのような「止むを得なさnecessity」は、全く馬鹿げたナンセンスでしかない。しかし、大変遺憾ながら、命は既に勘定に入っている。私たちを統治すべき統計=算術は、遺漏なく私たちを頭数に入れてくれている――生かすにせよ、死ぬに任せるにせよ。避けられず必要な――necessary――数値が

    確率・亡霊・唯一者――政治学的想像力のために(1) - on the ground
  • 祈りとしての革命 - on the ground

    革命とは何であるか。それは、私たちを日常的に取り囲んでいる「市民的現実」の破壊であり、外部からの侵略であると、千坂恭二は言う(千坂[2010])。是々非々の立場取りや条件付き賛否などは、革命とは相容れない。これら議論≒説得可能性なるものは、相手と共通の基盤の上に立つことを意味するが、革命はそうした「基盤」そのものと全面的に対立し、それを覆そうとする行為にほかならないからである。革命は、この世界そのものと一切の妥協なしに敵対することでなければならず、それ以外ではあり得ない。 したがって、空腹への批判や生活の改善要求などは、革命の問題ではない。それらはエコノミーの、つまり経済学の問題であり、経済学批判の問題ではないからである。飢えや貧困をどうにかしようとするヒューマニズムなどは、資主義内部の問題でしかなく、資主義そのものの批判ではあり得ない。無論、空腹への批判が革命と結び付いていた時代もあ

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  • ポストモダンにおけるデモクラシーの価値――宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』 - on the ground

    宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』岩波書店(岩波新書)、2010年 〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書) 作者: 宇野重規出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2010/04/21メディア: 新書購入: 10人 クリック: 174回この商品を含むブログ (63件) を見る 吉田徹『二大政党制批判論』や宮太郎『生活保障』、菅原琢『世論の曲解』など、昨年後半は政治学者の手になる良質の新書が相次いで出版された*1。これを一つの流れとして、併せて読まれるべきなのが書である。 政治思想史を専門とする宇野重規によって著された書は、個人の尊重が人々の唯一共通の価値基準となり、「他人と同程度には特別な存在」としての〈私〉の平等が求められる現代を、平等(化)の思想家アレクシ・ド・トクヴィルの思想を手がかりに読み解く。さらに現代フランスの政治哲学の議論なども交えながら、デモクラシーの現代的意味を問う

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  • 哲学的想像力と政治学的想像力 - on the ground

    東浩紀の議論に絡めて色々書き散らしてきたので、この辺りで一旦整理。国家や民主主義などに直接かかわるものだけ、まとめておく。時系列にする意味はあんまり無いと思うので、改めて載せておきたいところを拾いながら(注は省略)、その結び付きで並べていく。とりあえず全体を概観できるものから。 「現代日社会研究のための覚え書き――ネーション/国家」、2008年10月27日 以上のような認識に立つと、ポストモダン社会では、「共通の行政、共通のデータベース、共通のネットワークのうえに、異なった価値観を抱えた無数のサブカルチャーが林立するという、一種の二層構造」が採用されざるを得ないとする東浩紀の議論は、説得力を増す。東によれば、象徴的統合が不可能になった現代では、複数の象徴的共同体(「小さな物語」)の層における利害衝突が、その下にある非理念的なシステムの層――「大きな非物語」――で工学的に解決されるという「

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  • ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 - on the ground

    私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5〜10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。 過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で

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  • 『ONE PIECE』における正義と信念の問題 - on the ground

    宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房、2008年)を読んで私が感じた最大の不満は、同著が90年代後半以降のサブカルチャー作品を多数採り上げ、漫画『DEATH NOTE』を新時代の「決断主義」を象徴的に描いた作品として詳しく取り扱いながら、同時期に漫画界のトップランナーであり続けた作品であり、『DEATH NOTE』と同じ『週刊少年ジャンプ』に連載されている『ONE PIECE』への言及を全くと言っていいほど含んでいないことであった。 当ブログではこれまで『DEATH NOTE』と『20世紀少年』を採り上げ、ともに正義にまつわる問題との関連で論じたことがある。両作品を比すと、前者よりも後者の方が思想的な重要性が大きく、内容もより複雑であったが、『ONE PIECE』は内容において両作品よりも遥かに明快でありながら、思想的には最も尖鋭な領域にまで踏み込んでおり、三作の中で最重要の作品と言って

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  • 一般想像力批判 - on the ground

    自分が小難しい類のを読むようになってからの短い年月の中でも、最近とみに「想像力」なる言葉を使いたがる論者が増えた気がする。その意味するところには差異があっても、誰もが想像力の「減退」や「枯渇」(あるいは「古さ」)を憂い、想像力の「回復」や「喚起」(あるいは「刷新」)を掲げる点では変わらない。 それぞれの議論の質はピンからキリまで様々なので、同じ言葉がやたら使われているからそれが問題だと言うつもりはないが、それにしても「想像力」などというフワッとした響きがマジックワードのように溢れ返っている状況には参る。 そもそも人間固有の想像力はそんなに変わらない。昔の人が滅法凄かったわけでも、今の私たちがとんでもなく進歩しているわけでもない。質量諸々、誰だってほぼ同じだろう。人間の想像力を大きなところで左右するのは、自然だったり技術だったり政治だったり経済だったり、要するに環境や状況だ。 現代人は「わ

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  • 確率の前と後 - on the ground

    東浩紀が福嶋亮大にインタビューを受けた「オルタナティブの思想」『批評の精神分析 東浩紀コレクションD』(講談社BOX、2007年)から(初出2006年)。 じゃあおまえはなぜ一回性とか確率とか言うんだ、というと、これはちょっと難しい話で、僕もよく言語化できません。そのうえで言うとこんな感じです。つまり、人生が百万回くらいあったとする。永劫回帰です。みな人生は一回しかないから貴重だと思っているわけだけど、当はそうじゃない。それで、僕の人生はすでに十回繰り返されていて、いまがその七回目だとする。僕の哲学というのは、その七回目の人生は七回目なりにグッドエンドを目指そう、みたいな感じなんです。僕が『ファウスト』の原稿で言いたかった一回性は、そういう一回性です。無数の反復のなかの一回。 こんなことを言うとバカにされそうだけど、僕のポストモダンの二層構造とか、ああいう話の根底にあるのは当に美少女ゲ

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    crow_henmi
    crow_henmi 2009/09/04
    東浩紀における「ゲーム的想像力」「確率性」への疑義。
  • 倫理学には入門する価値があるか - on the ground

    動物からの倫理学入門 作者: 伊勢田哲治出版社/メーカー: 名古屋大学出版会発売日: 2008/11/20メディア: 単行購入: 16人 クリック: 209回この商品を含むブログ (54件) を見る 科学哲学の啓蒙書や論理的思考の指南書などで好評を得ている著者が*1、「なぜ動物は殺してよいのか」「動物に人間と同じ権利が認められないのはなぜか」などの問いを含む動物解放論を中心とした応用倫理学的問題系について語りながら、倫理学そのもの(メタ倫理学・規範倫理学)の展開と分布を説いていく入門書。扱われている範囲は広大であるが、文章は平易であり、文献案内も充実している。 すなわち良書である。が、つまらない。倫理学への導入を助ける一冊として、一般的には迷い無く推薦できる水準と言えようが、私にとっては心底退屈なだった。序盤から既に辛く、中途半端な知識を補完するために頑張って通読しようと志していたのだ

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  • 責任論ノート―責任など引き受けなくてよい - on the ground

    この記事は「「愚民」でいいから幸せが欲しいニャア」「「規約」をめぐる二元論とその相対化」「責任って何かね」「責任と自由―3.他者と無関心」を素材として加筆・修正を施したものです。 道徳的責任の性質 人の道徳的責任を問う、という行為は、来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。 一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や

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  • 利害対立と民主主義モデル - on the ground

    吉原直毅「最近思う事:湯浅誠・堤未果『正社員が没落する--貧困スパイラルを止めろ!』(角川新書)を読んで」を読んで、「分断統治」という観点は確かに重要であるとしても、正規・非正規ないし中間層・低所得層という対立軸だけでなく、世代間の対立についての目配りを盛り込んだ議論構成にしなくては、いわゆるロストジェネレーション層への応答なり批判なりにはならないだろうと、若干の違和と物足りなさを覚えた*1。その方面について私には何の専門的知見も無いが、世代の軸を加えるなら、単なる情緒的認識の問題には尽くすことのできない程度の敵対性は存在するのではないか。 無用な対立を煽ることは避けるべきだが、分断統治を目論む上位のプレーヤーが無条件に存在すると前提した上で誰だって仲良くできると考えるのは妄想である。「少なくとも民主主義的政治システムの存在する現代においては」*2、そのような上位のプレーヤーは居ない。「支

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  • 「国策捜査」の意味 - on the ground

    検察が小沢の首を獲るべく動いたことが「国策捜査」であることは否定できない。しかし、それは検察が政府の意を汲んだということであるとは思えない。そうではなく、「国民代表」である検察が、国民の――より正確に言えば「人民」の――「民意」を汲んだ(あるいはやや過剰に忖度した)結果だと解釈するべきである。現代日における検察の行動原理を理解できない政治家は、ただポピュリズムの波に呑み込まれて沈むだけだろう。良くも悪くもゲームのルールは既に変わったのであり、後は行くところまで行くしかないのではないかと思える。 佐藤優『国家の罠』を読んで感じたのは、何だか検察という機関は思いの外「民意」なるものに左右されやすいということであり、それはかなりの程度に民主化された現代的な国民国家における公権力の在り方を現わしている事態にほかならない。これはフーコーが言う「生‐権力」とも繋がってくる話であり、その辺りのことは萱

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