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哲学に関するcuttoff19のブックマーク (11)

  • 見かけ上の寛容さに隠された権力について語るジジェクの動画に字幕をつけました

    見かけ上の寛容さに隠された権力について語るジジェクの動画に字幕をつけました
  • CTOが選ぶ、エンジニアのみなさんに個人的に読んでほしい本|藤村

    メリークリスマス!heyでCTOをやっている藤村です。ということで、これからエンジニアになる・いまエンジニアをしているみなさんに個人的に読んでほしいをご紹介します。これを読んでおけばソフトウェア・エンジニアとして網羅的な基礎が身につく、とかいうセレクトではなく、あくまで個人的に読んでもらえると嬉しいな!というものを選びました。 ソフトウェア開発基礎編リー・コープランド『はじめて学ぶソフトウェアのテスト技法 』 テストのです。昨今RSpec、XUnit系など自動テストのツールはすっかり普及し、ソフトウェアにテストコードをつけるのは当たり前の世の中になりました。しかし!テストケースをどう設計するか、何をテストすべきか、について体系的に学んだことがない、という方も実はいらっしゃるのでは。 このはそういったソフトウェア・テスト一般についての教科書です。ここの知識はソフトウェア・エンジニアとし

    CTOが選ぶ、エンジニアのみなさんに個人的に読んでほしい本|藤村
  • 問題はどこにもない - 余白

    QuestionではなくProblemとしての「問題」についてのlacolacoの考え方 「事実として問題であること」はどこにも存在しない まず、「事実」なるものの存在を否定する まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ (ニーチェ『権力への意志』) 当然、「事実として問題であること」もない 「まさしく問題なるものはなく、あるのはただ嫌悪のみ 」 「これは問題だ」と感じるとき ここで疑いようのない確かなことは、 「私」に「これは問題だ」と感じさせる「何か」がある ということ 問題感・課題感 恐れ、憂い、抵抗、総じて不快なものに対する嫌悪の反応である 問題とは、 「何か」に対する「私」の捉え方 の名称である 「問題視する」とは言い得て妙 「問題として見ている」のは「私」自身 問題の解明 スタート地点は: 「私」に「これは問題だ」と感じさせる「何か」がある その「何か」が備える何らかの

    問題はどこにもない - 余白
    cuttoff19
    cuttoff19 2021/09/16
    ファクトベースで話すというモードで場が設定されているところで、何かの問題について話そうとしたときに要領を得ないという経験が、ここ数年で何度かあってもにょってたのが、腑に落ちた気分。
  • マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」 - loisir-space’s blog

    これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 作者: マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍出版社/メーカー: 早川書房発売日: 2010/05/22メディア: 単行購入: 483人 クリック: 15,840回この商品を含むブログ (586件) を見る 書はNHK教育テレビで放映中の「ハーバード白熱教室」の基となっているです。学生に様々な立場で議論を闘わせるスタイル講義に比べて、サンデルの主張がストレートに書かれているので、サンデルの主張を理解するには大変分かりやすくできています。功利主義、リバタリアニズム、リベラリズムを明快に批判的に分析し、コミュニタリアニズムの立場へとつなげていく論理展開は見事としか言いようがありません。以下、書におけるサンデルの主張を私なりになぞってみたいと思います。 サンデルは、正義論は「幸福の最大化」「自由の尊重」

    マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」 - loisir-space’s blog
  • オブジェクト指向とは何か、という問いについて - Hot Heart, Cool Mind.

    4月も半ばを過ぎて、新入社員がプログラミング研修を受ける季節になったからだろうと思うが、オブジェクト指向談義が再燃している。ほとんど年中行事だ。 今年は、オブジェクト指向という用語をアラン・ケイの言った意味で使うのは「特権的」だという主張まで出たりした。 ギブソンが考えた「アフォーダンス」は、使い手と道具の関係性に関する概念だが、ノーマンはそれを「誤用」し、道具のデザインがもつ特性の話にした。現在では後者の方が広く受け入れられているように思うが、だからといって、アフォーダンスという用語はノーマンの意味で理解すべきだ、という話になるだろうか。 よくいって、アフォーダンスというひとつの言葉に対して2つの意味内容が「事実上」存在するということだ。そして、「来の」アフォーダンスは、と言えば、ギブソンのそれを指すに決まっているではないか。 それは、特権云々の問題ではなく、アフォーダンスと言う言葉を

    オブジェクト指向とは何か、という問いについて - Hot Heart, Cool Mind.
  • アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い

    稿は、ストリート・カルチャーの諸々の要素が、原因や責任を問われうる証拠=エビデンスを十分残さないでたちまちに変質し霧散していくという、そうした刹那性を、今日の文化状況に抗するかたちで改めて肯定しようとするものである。2010年代の日は、生のあらゆる面において、いわば「エビデンシャリズム」(エビデンス主義)が進展している時代ではないだろうか。 1 エビデンシャリズム批判 稿では、エビデンス(カタカナで言われる、広い意味での証拠・証憑、質的であるより量的なものを望む傾向がある)を残し続けなければならない、エビデンスを挙げていわゆる「説明責任」(アカウンタビリティ)を果たせるようつねに準備しておかねばならない──その種の説明はしばしばひどく形骸化しているが──、という強迫的な「正しさ」の緊張感をいや増しに増すことを「エビデンシャリズム」と名づける。(1)この用語は、エビデンスが健全な議論に

    アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
    cuttoff19
    cuttoff19 2015/04/17
  • 菊地誠と東浩紀とソーカルと

    あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco SF大会の懇親会で出た話題について。比喩というのは、それが比喩として機能する相手にしか意味を持たないわけです。たとえば、「フラクタル」を比喩とするなら、その言葉で「雪の結晶みたいな形ね」と思う人と「フラクタル次元はいくつなんだ?」と思う人とでは機能のしかたが違う @hazuma あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 比喩はそのものずばりではないことによって、相手の知識次第でまったく違う受け取られ方をされうるし、もちろん、時代が変われば受け取られ方も変わる。この点は比喩を使う側が当然負うべきリスクなわけです @hazuma あ〜る菊池誠(反緊縮)公式 @kikumaco 僕の考えでは、科学的な用語を「比喩」として使うのがいけないのではなく、たとえば「フラクタル」を比喩としたときに、フラクタルに詳しい人から「フラクタルのどの側面を比喩に

    菊地誠と東浩紀とソーカルと
  • ソーカル事件 - Wikipedia

    ソーカル事件(ソーカルじけん、英: Sokal affair)とは、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル[注釈 1]が、1995年[注釈 2]に現代思想系の学術誌に論文を掲載したことに端を発する事件をさす[1]。 ソーカルはポストモダン思想家の文体をまねて科学用語と数式をちりばめた「無内容な論文」を作成し、これをポストモダン思想専門の学術誌に送ったところ、そのまま受理・掲載された。その後ソーカルは論文がでたらめな内容だったことを暴露し、それを見抜けず掲載した専門家を指弾するとともに、一部のポストモダン思想家が自分の疑似論文と同様に、数学・科学用語を権威付けとしてでたらめに使用していると主張した。 論文の発表につづいてソーカルは、フランスのポストモダン思想家を厳しく批判する著作を発表し、社会的に大きな注目を浴びた。 1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、

  • コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia

    コウモリであるとはどのようなことか? 「コウモリであるとはどのようなことか」(英:What is it like to be a bat?)は、アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが1974年に発表した哲学の論文、および同論文を収録した書籍である。 ネーゲルはこの論文で「コウモリであるとはどのような事であるか」を問うている。コウモリがどのような主観的体験を持っているのか=「コウモリであるとはどのようなことか」という問題は、コウモリの生態や神経系の構造を調査するといった客観的・物理主義的な方法論ではたどり着くことができない事実であり、意識の主観的な性質は、科学的な客観性の中には還元することができない問題であると主張した。 この論文は、心身問題の中心が意識の主観的側面(意識の現象的側面)にあることを述べた有名な論文であり、表題の問いは、よく知られた問い、または思考実験のひとつとして、現代の心の哲学

    コウモリであるとはどのようなことか - Wikipedia
  • 女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ? - G★RDIAS

    これは古典的な問いである。大学進学率が男女半々くらいになってきて、文系諸学科では女性の比率がむしろ高くなってきているが、心理学、社会福祉学、言語学などに比べて、哲学は女性から人気がない。その理由としては、以下が考えられる。 (1)概して女性は哲学的思考というものに興味がない。 (2)現存の「哲学」は伝統的に現実の女性を蔑視し、排除しながら構築されてきた。「女性は抽象的思考が苦手であたまが悪い」など。そういう学問に女性が興味をもたないのは当然。(また、女性蔑視してる哲学教師も多いから学生はそれを内面化する) (3)現存の「哲学」は、学問内容として、「女性の経験」を取り込んでこなかった。女性は哲学に、みずからの経験に響く要素を感じず、興味を持てない。裏返して言えば、現存の「哲学」は過度に男性ジェンダー化されている。 ほかにもあるかもしれない。私は個人的には(1)は無意味、(2)と(3)が大きい

    女性が哲学に惹かれない(らしい)のはなぜ? - G★RDIAS
  • 特集ワイド:あなたは今、孤独ですか。 哲学者、鷲田清一・大阪大副学長―話題:MSN毎日インタラクティブ

    「メンデンホール氷河」アメリカ, アラスカ州, ジュノー -- Michael Melford/Getty Images

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