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Historyに関するcx20のブックマーク (94)

  • 人工知能の第一人者J・マッカーシー氏に聞く--AI研究、半世紀の歴史を振り返る - CNET Japan

    1956年、コンピュータ科学者のグループがダートマス大学に集まり、当時としては新しいトピックについて議論をかわした。そのトピックとは「人工知能」である。 ニューハンプシャー州ハノーバーで開催されたこのカンファレンスは、コンピュータで人間の認知能力をシミュレートする方法に関する、その後の議論の出発点となった。カンファレンスでは、「コンピュータは言語を使用できるか」「コンピュータは学習できるか」「創造的な思索と非創造的だが有効な思索を分ける要因はランダムさ(偶発性)なのか」といったさまざまな議論が行われた。 議論は、学習能力をはじめとする人間の知能が、原則として、コンピュータのプログラムでシミュレートできるくらい詳細に記述することができるというの大前提のもとで行われた。 出席者には、当時ハーバード大学に籍を置いていたMarvin Minsky氏、ベル研究所のClaude Shannon氏、IB

    人工知能の第一人者J・マッカーシー氏に聞く--AI研究、半世紀の歴史を振り返る - CNET Japan
  • OS/2 --- Windowsのライバルだった本格的なマルチタスクOS

    かつてWindowsにはライバルと目されたOSがあった。米IBM社のOS/2である。もともとは米Microsoft社と共同で,MS-DOSの「次」を担うOSとして開発された。CPUのメモリー保護機能に対応し,マルチタスク処理を実現したOSである。ところが,Windowsにその地位を奪われ,市場からは消えてしまったかのように見える。OS/2の技術支援,製品企画を担当し,現在もサポートを続ける人物が日IBMソフトウェア事業パーベイシブ・コンピューティング営業部 製品企画担当の首藤薫氏である。首藤氏にOS/2の歴史と現在の状況を聞いた。 IBMの初めてのパソコン「IBM PC」は,IBMがアーキテクチャを担当し,各パーツを外注して作られた。CPUは米Intel社,OSはMS-DOSを採用した(IBMの製品名はPC-DOS)。MS-DOS/PC-DOSはOSのカバー範囲としては不十分で,マルチタ

    OS/2 --- Windowsのライバルだった本格的なマルチタスクOS
  • 本田雅一の「週刊モバイル通信」 - 第348回 PC業界がAppleに学べること

    先週、久々に日通信・最高財務責任者の福田尚久氏にお会いした。この連載の読者には“プリペイド方式の無線通信パッケージ「b-mobile」を販売している会社”と紹介する方が分かり易いかもしれない。 福田氏は'93年からアップルコンピュータジャパンに所属し、その後、日でのマーケティング能力を買われ、スティーブ・ジョブズ氏がAppleCEOとして復帰した際に米Apple Computer社のボードメンバーとして招集された人物。その後、Appleが復活への道を歩むことになった戦略の一部も担当していた。製品としては初代の15型PowerBook(Titanium)とiPodの企画、事業戦略面ではApple直営店(その後のApple Store)の基礎を作り、戦略を推し進めた。 同氏の話を聞いていると、なぜ近年のAppleがここまでの見事な復活を果たしたのかが見えてくる。今の若い世代のApple

  • Windowsが日本で“離陸”した日

    「うわぁ懐かしい~ !」IT 業界に長年おられる人なら、思わずこう叫んでしまいそうなこの写真。パネルに大きく掲げられているように「Windowsコンソシアム設立発表会」と銘打った記者会見のひとコマである。 時は1989年8月2日。都内ホテルで行われたこの発表会のひな壇に上がったのは、当時の肩書きのままで紹介すると、左から東京電機大学の脇英世助教授、ソフトウィングの樺島正博会長、ソフトウェアジャパンの昆野晴暉社長、日ソフトバンクの孫正義社長、マイクロソフトの古川享社長、ジークの福井源社長の6人。 日ソフトバンク、ソフトウェアジャパンなど当時パソコンソフト流通会社として有力だった4 社に加え、Windowsの提供元であるマイクロソフトの代表者が一堂に揃い、この会の仕掛け人でもある脇氏とともに共同会見に臨んだこの日は、まさしく「Windowsが日で“離陸”した日」となった。 上記5社が発起

    Windowsが日本で“離陸”した日
  • 【INTERVIEW】西和彦氏がゲイツ引退を語る(後編) (1/2)

    米マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が経営の第一線から退くと表明した背景には、ネットワークとコンピューターを巡る新たなパラダイムの誕生があったと指摘する西和彦(にし かずひこ)氏。パソコンの覇者でありながら、ネットでは苦戦を強いられているマイクロソフトは、果たして現状を打開できるのか? インタビューの後半はカリスマ不在のパソコン産業と、マイクロソフトの未来に関して伺った。

  • 成熟期を迎えたインターネット--「情報スーパーハイウェイ構想」がもたらしたもの

    Bill Clinton元大統領とAl Gore元副大統領が1992年の大統領選を戦っていたとき、「情報スーパーハイウェイ」という当時はまだ漠然とした概念について盛んに主張していたことを覚えているだろうか。 「情報スーパーハイウェイ」という言葉は何やら華やかに聞こえたが、当時はまだ、それが何を意味するのか正確に把握していない人たちもいた。あれから15年。インターネットは、現代の生活に欠かせないあらゆる重要な部分に浸透したといってよいだろう。今や、インターネットについて知らない人などいない。 Pew Internet & American Life Projectが行った最近の調査によると、米国の成人人口の何と73%がインターネットユーザーであり、その数字は増え続けているという。インターネットのおかげで仕事の生産性が大幅に向上したと感じている米国人は、2001年3月の時点で全体の24%だった

    成熟期を迎えたインターネット--「情報スーパーハイウェイ構想」がもたらしたもの
  • DynaBook J-3100 SS001 --- 常に持ち運べるパソコンの第一号機

    常に持ち運べ,価格も手頃なラップトップ・パソコンとして登場したDynaBook。その端緒は,1977年にさかのぼる。当時東芝で大型コンピュータ事業を率いていたモバイル放送の溝口哲也代表取締役社長は,マイコンキットの流行に目を付けた。まずデスクトップに置くパソコンを開発するが,製品化には至らず,次にディスプレイ一体型のパソコン開発に取り組んだ。その時意識したのが,“世界標準”。独占していたNECPC-98シリーズに対抗して新しい市場を作るためだ。ラップトップ・パソコンを開発した経緯と,DynaBookという名称,パソコン技術の意味を聞いた。 パソコン開発のきっかけはマイコンキットだった。1970年代にはやり出したマイコンキットを見た溝口氏は,子供の頃大好きだったラジオのキットを思い出した。これは大きな市場になる可能性があるのではと考え,秋葉原でショップを訪ねてまわってみた。すると「どの店も

    DynaBook J-3100 SS001 --- 常に持ち運べるパソコンの第一号機
  • ビル・ゲイツ氏の軌跡

    1955年10月28日:弁護士の父と教員の母の間に生まれ、米ワシントン州シアトルで2人の姉妹とともに育つ。 1968年:私立レイクサイド・スクール在学中に13歳でコンピュータプログラミングを始める。この学校で後にMicrosoft共同創設者となるポール・アレン氏と出会う。 1973年:ワシントンの実家を離れ、ハーバード大学に入学。プログラミング言語BASICを初代マイクロコンピュータ「MITS Altair」向けに開発。またこのころ、Microsoftの現CEO(最高経営責任者)のスティーブ・バルマー氏と同じ寮に住んでいた。 1975年:アレン氏とともにニューメキシコ州アルバカーキにMicrosoftを設立。大学を中退。以後2000年までゲイツ氏がMicrosoftCEOを務める。 1979年:アルバカーキからワシントン州ベルビューに会社を移転。このとき従業員30人、年間売上高300万ド

    ビル・ゲイツ氏の軌跡
  • WinHEC 2006の印象---昔と変わったこと,変わらないこと

    先週,WinHEC 2006という米Microsoftのカンファレンスに参加させていただいた。カンファレンス内容については,WinHEC 2006速報サイトにいろいろな記事を掲載しているので,そちらを参照してもらうとして,ここではその印象を少し書きたいと思う。 実は,ここ7年ほど海外出張の機会に恵まれず,Microsoft関連のカンファレンスに参加するのは8年ぶりだった。それ以前,つまりWindows9x/NT時代は,少なくとも年に1度はそうしたカンファレンスに参加していた。 その時代と変わらないのは,基調講演にBill Gates会長(写真)が登場すること。“User Centric Computing”と称して,さまざまなメディアを介して情報をユーザーのところへ集めて処理するコンセプトの披露は,彼がよく口にしていた“Information At Your Fingertip”と根的に

    WinHEC 2006の印象---昔と変わったこと,変わらないこと
  • 日本の名物コンピュータを訪ねて[5] パソコン少年とキュウハチ(PC9801)

    シゲちゃん、ゴールデンウィークはどうするの? なになに、先月お金を使いすぎちゃったから、どこにも行けないんだって。それは、かわいそうだね。それじゃあ、私の実家に遊びにいらっしゃい。懐かしいものを見せてあげよう。きっと20年前にタイムスリップしたような気持ちになれるよ。パソコンに熱中していたあの少年時代に。 懐かしいぜキュウハチ というわけで、シゲちゃんは、浅草から東武伊勢崎線に乗って約2時間、栃木県足利市にやって来た。当地は、その名が示すとおり足利尊氏ゆかりの歴史ある町だ。平安初期に創建されたと言われる「足利学校」、足利義兼の邸宅跡である「ばんな寺」など数多くの史跡がある。ちょうど「足利フラワーパーク」の大藤が満開の季節であったため、駅前は送迎バスを待つ観光客でごったがえしていた。 「師匠、すいぶんお年寄りの多い町ですね。それに、みんな弁当持ちで来てるじゃないですか。あはは、ケチだなぁ」何

    日本の名物コンピュータを訪ねて[5] パソコン少年とキュウハチ(PC9801)
  • タスクバーとスタートメニューの歴史

    ここでは、Windows 95以降の歴代のWindowsでタスクバーとスタートメニューがどのように変化してきたか見てみましょう。 Windows 95(IE 4なし) 初期のWindows 95/NT4のタスクバーは、全部で6個のウィンドウからなるシンプルなものでした。次は、ウィンドウのクラス名と親子関係を表したものです。Shell_TrayWnd、Button、TrayNotifyWnd、TrayClockWClass、MSTaskSwWClassといったクラス名は、Windows XPの今も変わっていません。 TClockは、時計ウィンドウ(TrayClockWClass)をサブクラス化して時計を改造します。 Shell_TrayWnd タスクバー |- Button スタートボタン |- MSTaskSwWClass タスクスイッチ | +- SysTabControl32 タスクス

  • http://www.asahi.com/business/update/0507/001.html

  • Life is beautiful: Windows95と地上の星

    Windows95の開発の総責任者であるDavid Coleから開発の主要メンバーに緊急召集がかけられたのは、Windows95の開発も大詰めを迎えた1994年末のことである。 Shell(デスクトップ、エクスプローラ、スタートメニューなどのユーザーインターフェイス)の開発を担当していたSatoshiは、いままでの経験からこの手の緊急招集が良い知らせでないことはないことは知っていた。 David Coleが深刻な顔をして緊急招集の理由を説明し始める。Windows95そのものの開発は順調に進んでいるが、Windows3.1との互換性の維持が思うように進んでいないのである。 「このままだと、95年中にリリースすることはできない」 深刻な問題である。既に当初の予定より1年以上遅れているWindows95のリリースをさらに遅らせて95年のクリスマスシーズンを逃すことはOffice95を同時にリリ

  • 本当はすごい「Windowsの互換性維持」

    Microsoft Application Compatibility Toolkit 4.1」に含まれる「Compatibility Administrator」 マイクロソフトは4月26日,2週間前に出したばかりのセキュリティ更新プログラム(MS06-015,KB908531)をリリースし直した。当初のパッチを適用すると,日ヒューレット・パッカード(HP)やNVIDIAが提供するソフトウエアで不具合が発生した。マイクロソフトはこの問題に対処するために,パッチをリリースし直したのである。 MS06-015のパッチは主に,エクスプローラのセキュリティぜい弱性を修正するためのものである。ただし,パッチを適用すると,エクスプローラ上でユーザーによって起動されたプログラムを検証する「Verclsid.exe」というプログラムがOSに追加された。 このVerclsid.exeと,HPやNVID

    本当はすごい「Windowsの互換性維持」
  • 「日本企業は世界に影響を与えてきた」

    4月21日 開催 米Microsoftのビル・ゲイツ会長兼チーフソフトウェアアーキテクトが来日し、21日、都内のホテルで記者会見を行なった。 今回は、Microsoftの日法人が設立20周年を迎えたことを記念するとともに、日におけるWindows Vistaの公開にあわせて来日したもの。前夜到着したものの、今回の滞在期間はきわめて短いという。 午前9時から行なわれた会見でゲイツ会長は、「かつてNECから“PC-8000シリーズ”という革新的な製品が登場するなど、日の会社は、常に世界中に影響を与えてきた。ポータブルコンピュータやカラーディスプレイという革新的な技術も日の会社がやってきたものだ。先進的な日の企業とパートナーシップを組んだことはMicrosoftにとって、大きな成果であった」と、20年間に渡る日における取り組みについて振り返った。 また、「Microsoftは、パート

  • ビル・ゲイツ会長が日本法人20周年会見で語る--「マイクロソフトは幸運だった」

    「イノベーションの鍵はソフトウエアにある」--。マイクロソフトのビル・ゲイツ会長兼チーフソフトウェアアーキテクトは2006年4月21日、マイクロソフト日法人の設立20周年を記念した記者会見を開催した。この20年の間、人々の仕事や生活がいかに変化したかを振り返りつつ、そこにソフトウエアが果たしてきた役割の大きさを強調した。そして「マイクロソフトの成功は、ずっとソフトウエアに特化して事業を進めてきたことによってもたらされた」と述べた。 「マイクロソフトは幸運だった。なぜならソフトウエアによって、世界を構築することができたからだ」。ゲイツ氏はこのような言葉で、同社の歴史を振り返った。パソコンは言うに及ばず、電話やゲーム、ナビゲーションシステムなどさまざまなデバイスが飛躍的進化を遂げ、人々の仕事、生活、教育、遊びに大きな変化をもたらしている。その裏には常に、ソフトウエアの存在があった。ゲイツ氏は

    ビル・ゲイツ会長が日本法人20周年会見で語る--「マイクロソフトは幸運だった」
  • 5Mバイトからのスタート HDD誕生から50年

    PCやデジタルレコーダー、音楽プレーヤーに搭載されているハードディスクドライブ(HDD)。今年9月、世界初のHDDの登場から50周年を迎える。この間、HDDの記録容量は飛躍的に拡大。今や企業の業務データからデジカメで撮った個人の思い出まで、あらゆるデータを保存するために欠かせないキーデバイスになった。 HDDは、磁性体を塗ったディスクに磁気を利用して電子データを記録する。米IBMによる最初のHDD「RAMAC」(Random Access Method of Accounting and Control)が誕生したのは1956年9月13日。24インチ(約61センチ)のディスク×50枚という巨大な装置ながら、記録可能なデータ容量は5Mバイトに過ぎなかった。 IBMのHDD事業を受け継いだ日立グローバルストレージテクノロジーズ(日立GST)によると、現在までの50年間で、HDDの記録密度は50

    5Mバイトからのスタート HDD誕生から50年
  • 「さよなら、パソコン通信オフ」が開催。ニフティ社長なども出席

    Windows SQL Server 2005サポート終了の4月12日が迫る、報告済み脆弱性の深刻度も高く、早急な移行を

  • ニフティのパソコン通信サービスがすべて終了、19年の歴史に幕

    Windows SQL Server 2005サポート終了の4月12日が迫る、報告済み脆弱性の深刻度も高く、早急な移行を

  • さよなら「パソコン通信」、最後のサービスが19年の歴史に幕 - CNET Japan

    ニフティ(古河建純代表取締役社長)は、3月31日の23時59分59秒をもって「ワープロ・パソコン通信」(パソコン通信)の全サービスを終了する。これで国内に唯一残っていたプロバイダーによるパソコン通信サービスが消えることになる。 パソコン通信とは、電話回線経由で直接ホストコンピュータに接続し、文字情報のやり取りを行うもの。同社は「NIFTY-Serve(ニフティー・サーブ)」の名称で87年4月15日にサービスを開始。86年にサービスを始めたNECの「PC-VAN(ピーシー・バン)」とともにパソコン通信の2大ホストとして多くの利用者を集め一時代を築いた。90年台後半以降、インターネットが普及するにした がって競合各社が次々とサービスを終了させていく中、唯一ニフティだけがパソコン通信サービスを継続し続けていた。 しかし多くの利用者がWeb上のサービス@niftyに移行し、ユーザーが2万人程 度に

    さよなら「パソコン通信」、最後のサービスが19年の歴史に幕 - CNET Japan