2つの衝撃。テレワーク支度金で約500名に5万円を支給(てことは2500万?)。そんで在宅が定着したからオフィス不要だからと3フロア解約。この社長フットワーク軽い。というか怖さすら感じる。
昭和平成を駆け抜けた偉大なコメディアンが亡くなりました。新型コロナウィルスによる志村けんの死は、多くの日本人にとって初めて亡くなった方の「顔」が見えた瞬間だったかもしれない。数字より明確に恐怖と現実を知らしめた、著名人の早すぎる死でした。 SNSは個々人が「小さなお葬式を」あげる場に 「悲しい」「もっとコント見たかった」「生き返って」……タイムラインを埋め尽くす、志村けんへの哀悼の言葉。ここまでの人気者であれば「送る会」などでファンにお別れの時間を設けるのが通常でしょうが、それすらも叶わず。せめて……と、SNSは個々人にとって「小さなお葬式」をあげる場所となりました。 「死」とは生きている人間のためにある概念なんだとつくづく思います。お葬式はその人がいなくなったことを残された人間たちが理解し受け入れるのに必要な儀式。誰かが亡くなった時、「死」はとっくに本人からは離れている。ドリフや志村けん
◆◆◆ とても人見知りで、最初はそっけないふうだった 志村さんのインタビューは、乃木坂にあるイザワオフィス(志村さん所属の芸能事務所)で行いました。私は1964年生まれで、まさにドリフとともに育ってきた世代なんです。『ドリフ大爆笑』も『志村けんのバカ殿様』もずっと見ていました。ただ、それまでの記者人生の中で志村さんに直接お会いしたことはなかったので、気持ちとしては一人のファンとして、「どんな方なのかな」「やっぱりひょうきんで、軽やかな感じの方なのかな」と思って、取材に向かったんです。 そして、いざ事務所の応接室でテーブルを囲んでお会いしたら、とても人見知りの方で。非常にシャイで繊細な人なんだな、というのが強く印象に残っています。インタビューでは、限られた時間の中で用意した質問を一つずつ聞いていくんですけど、最初はなんだかそっけないふうでした。 ザ・ドリフターズ 「いつもどうやってギャグを考
本音をさらけ出すことはない“コント職人” あのとき広まった死亡説は、今となっては根も葉もないバカバカしい噂話に過ぎない。だが、この噂話がそこまで大きく広まったという事実は、志村という芸人がほかの芸人とは一線を画す特別な存在だったことを象徴している。 そもそも、1996年当時の志村は自分の冠番組以外にはほとんど出ていなかった。彼が継続的に出演していたのは『志村けんのだいじょうぶだぁ』からタイトルを何度も変えてリニューアルされているレギュラー番組と『志村けんのバカ殿様』『ドリフ大爆笑』といった特番のみ。『天才!志村どうぶつ園』のようなお笑い以外のバラエティ番組に出たり、ほかのタレントが仕切る番組にゲストとして登場するようになったのはここ最近の話だ。 「バカ殿」の姿で“アイーン”ポーズをする志村さん ©時事通信社 ビートたけし、明石家さんまといったほかの芸人が、さまざまな種類の番組に出て、素の自
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く