ある映画を観たとき、私たちは不意にこれが映画だという確信に打たれることがある。 ワン・ビンの執拗な移動撮影が捉える被写体の肉体の震えや、アッバス・キアロスタミの長回しが映し出す風景の移ろいに接するとき、観客が抱くのは単なる作品への評価ではない。それは、自身の理解の範疇を超えた過剰な何かとの遭遇であり、主体が不意打ちされる経験である。この不可解な体験に、いかにして不完全な言葉を与えていくか。その絶望的で倫理的な運動こそが、かつて映画批評と呼ばれた実践の本質だった。 批評という名の応答 かつて映画批評とは、単に作品を裁定し、意味を解釈することに尽きるものではなかった。それは、映画という絶対的な他者の前で驚き、それでもなお言葉を紡ごうとする態度を組織する活動だった。 アンドレ・バザンが立てた「映画とは何か」という問いもまた、映画の本質を固定するための定義ではない。それは、解釈を拒絶するイメージの

